マイホーム
麻倉仄は今日もマリアナにみっちりと鍛えられてくたくただった。
手足はがくがく震えるし上手く力が入らない。汗だくで服が張り付いて気持ち悪い。
そもそも、魔法少女の特訓なのに何故こんなに体を鍛えなければならないのだろうか。リョウノに聞いてみると、魔法少女と言えど体を鍛えておかないと死ぬらしい。思っていたよりも肉弾戦が多いのだろうか……魔法少女としてちょっとわくわくしていた仄だったが、想像との乖離にがっかり気味だった。
とは言え、マリアナの熱心な鍛錬のお陰か、以前よりも強くなった気もする。
最近になってようやく誰かと気を置いて話せるようにもなってきた。
今まで肩身を狭くして過ごしてきたけど、堂々と歩けるようにもなってきた。
これも全部、マリアナやリョウノのおかげだ。
「お疲れ様、仄さん」
「あ、ありがとうございます」
スポーツ飲料が入った水筒を渡されて、それを受け取る。冷たさが手に平いっぱいに広がって気持ちいい。
首下に当てたりしてその冷たさを存分に味わった。
巨大な戦車でも入っていたかのような、何もないだたっ広いガレージの端っこ、小さなベンチに座っていた仄の隣にスポーツウェアを着たマリアナも座る。
横から見ると余計に分かる胸の大きさや汗で輝く束ねられた美しい金髪に、最近そういうものが目覚めてきた仄はドギマギ。
「? どうしました?」
「いえ……! なんでも! 今日も、ありがとうございました。おかげで最近、自分に自信が出てきたんです。今まで私には何もないって思い込んでたけど、皆さんのおかげで私変われたんです!」
「それはよかった。私も鍛えた甲斐があるというものです。ふむ……」
突然マリアナが、仄に顔を近づけてまじまじと観察し始めた。
汗の香りと香水が混ざり合った、鼻孔をくすぐる女性の匂いにどんどん仄の体温は上昇していく。頭が沸騰しそうなくらいだ。
眼をぐるぐる回しながらマリアナから高速で距離を取る。
「な、ななななななんですか!?」
「会った時と比べると、確かに目に宿る光が違いますわね。それに、いい顔です。まだ危ういですが強い意思を感じます。将来有望ですわね」
「~~~!!」
褒められる、なんて事は皆無だった仄にとって、その言葉は世界で一番嬉しい事のように感じた。
気恥しさもあいまって身をよじらせながらその言葉を噛みしめる。ずっと忘れないように心に刻み付ける。その言葉が強い糧となり、自らの柱となり、自分を支えてくれるのだと。
「おやリョウノ、今日も探し物ですか?」
と、シャッターを少しだけ開けてくぐるように入ってきたのはリョウノだった。
外から入ってくる風が真紅の髪を靡かせる。
マリアナの言葉に小さく首肯し、仄に紙袋を押し付けた。
突然の事に驚いてポカンとする仄。
「あの……これは?」
「お土産。最近、頑張ってるから。おいしいよ」
という事は食べ物なのか。
仄は紙袋の中から箱を取り出した。見覚えのある色彩とロゴ。これは豚まんだ。
この近くを中心に展開している中華料理の専門店。ここの豚まんはとてもジューシーで、噛めば噛むほどに肉の味が口の中に広がって――仄も子どもの頃からよく食べているのを思い出す。最近は、どうだろうか?
「気が利きますわねリョウノ。ちゃんと人数分ですし、後でみんなで食べましょう。さ、そうと決まれば着替えてきますか」
「は、はい! リョウノさん、ありがとうございます」
「頑張ってね」
「はい!」
心に染みいるリョウノの言葉。
なんの因果か、偶然にも魔法少女の力を得てしまった麻倉仄は、突然の出来事に混乱しながらも暖かい仲間に迎えられ、虚無だった自分の中に意味を見出す事ができ始めていた。
自信のなかった自分の存在意義を、見つけ始めようとしていた。
ただ、仄は何故自分が選ばれたのか? それが分からなかった。
”ある手違い”により選ばれた。
その言葉の真意をまだ話してもらっていなかった。
気になるが、今はみんな楽しそうにしているし訊くのはまた今度でいいだろう、と。仄はその疑問を心の中へしまい込んだ。
更衣室、スポーツウェアを脱いでいるとリョウノが近くによってきた。
両腕同時に脱ごうとしていたところだったので、防御もできず、腕を上に挙げている為バランスは取りにくいし、周りはロッカーで距離を取るのは危険。なので急接近したリョウノを止める術がなかった。
脱ぎかけで手を上に挙げている状態のまま、仄はなんとか体を逸らしてリョウノから離れようとするが……
「なななんですか?」
「いいなあ、将来有望だね」
「へ……?」
言葉の意味が分からず、さっきの話の続きかと思ってしまったが、タイミングも目線もおかしい。
リョウノは仄の胸の前に顔を近づけてじっと見つめている。
そしてその手がスポブラの上から触れた。
「ひゃいっ!?」
初めての感触に情けない声を出す仄。
嫌な予感を感じたので、脱ぎ掛けだったのをさっさと脱ごうとするが、
「あっ、ちょっと、待ってくださいよぉ!!」
脱ぎ掛けの、腕が通った服を掴まれて、バランスを崩した仄はそのまま後ろへ倒れる。
覆いかぶさるようにしてリョウナがその上に。背中を打たないように抱え込みながら青色のベンチの上に押し倒した。
額についた汗を、リョウノの指先が優しく拭う。
静かな吐息が仄のものと混じり合い、密室の中にこもった熱気が脳を、思考を溶かしていく。
真紅の長い髪が垂れ下がり、ほのかなシャンプーの香りが広がって、その甘い感覚は仄の中から『抵抗』を奪い去った。
体の力を抜いて、目の前の少女のままに――顔が、ピンク色の美しい唇が近づいて――
――突然ドアが開け放たれたかと思うと翡翠季李子が入ってきた。
「おっすおっすー!! 遅いので呼びに来ましたよー!! あ、れ――? 交尾中っすか?」
「いや! このあれはその違うんですよ!」
押し倒されたまま言っても説得力がまるでない。
というかこの状況を見て第一声が交尾ってのもおかしいだろ! と叫びたかったがリョウノが素早く口づけしたのでそのまま頭がオーバーヒートした。
「季李子、ノックぐらいはして」
「いやはやこれは失礼しやした! どうにも最近手首がこってましてねー! 痛いです痛いです折るほどマッサージしてくれなくて結構っす……ああ! 折れたァ! 聴きました今!? ボキって言いましたよ!? ねえ!!」
明らかに折れていない手首をぶらんぶらんさせながら訴える季李子を意に介さず、リョウノは仄にニコッと笑いかけると更衣室から去って行った。
まださっきの余韻で頭がふらふらする仄はボーっとしたままリョウノの背中を眺めていた。
そんな仄に興味津々な季李子。
「なにしてたんすか!? ねぇなにしてたんすかぁ!? エッチな事っすか!?」
「いや……その……お話をしてただけ――
「猥談っすか!?」
「ふぇぇぇ……!!」
季李子は初対面の時から執拗に仄に対して興味津々だ。
今だってこうして追い詰められている。何がそんなに珍しいのか、なんでそんなに気になるのか、仄の事を根掘り葉掘り知ろうとする。今まで人間関係の希薄だった仄だが、少なくともちゃんと生きていてもこんな人とは中々会わないだろうと断言できるような変な人だった。
「あ、そうだ! 今日みんなで遊びに行くんすよ! 一緒にいかないっすか!?」
「あの……魔法少女は?」
「たまには休まないと体に毒っすよ! いーきーまーしょーうーよー!!」
手を掴まれて腕ごと上下に振り回される仄。
行きたいのは山々だが、今日はもう遅い。あまり遅くなると心配――する人など、どこにいようか。そうだ、もう関係ない。あの人達とは関係ない。あの人たちがいなくても、私は生きていける。そう、仄は考えた。あまりに親不孝な考えだと自己嫌悪したが、同時にそれは間違っていないとも思えた。
既に、家は居場所ではなくなっていた。
今の自分の居場所は、ここなのだと。
「分かりました、ご一緒させてください!」
「そうこなくっちゃ!! その前に、おいしい豚まん食べましょー!!」
すぐに着替えて、仄は季李子と共に別室に向かった。
周りに何もない河川敷、ちょっと横にあるだだっ広い草原のど真ん中に仄達が今いる建物は立っている。いったいどんな構造になっているのか知る由もなかったが、とてつもなく広い事だけは分かっていた。
仄達が向かったのは久しく行っていない家のリビングに似た作りの部屋だった。どうやら靴は脱ぐようだ。
「おっすー! ほのかっち連れてきましたよー!」
「ほのかっち……」
いつのまにかあだ名がつけられていた事に驚いたが、多分使っているのは季李子だけだ。
楽しそうに何かを話していたリョウノとマリアナが仄達に気が付いた。
「全員揃いましたわね。ではこれか――
「じゃあこれからほのかっちの歓迎会を始めまーす!! まーすッ!!」
「わー」
「……………………」
「はぇ……?」
きょとんと、停止する。
掛け声を盗られたマリアナが季李子にお笑い芸人の如き平手打ちをかましたり、空気のこもったリョウノの拍手だったり、そもそも無言で無表情の白銀だったりと、何かおかしいこの状況。
だけど、無条件で仄は嬉しかった。
当たり前だ。こんな風に、祝ってもらった事は……いつ以来の事なのか。
目頭が熱くなる。
「泣くほど嬉しいなんて、企画した甲斐があったっすねー! マリアナー!」
「あ、コラ季李子! それは言わない約束でしょ!」
そうか、マリアナが……もう感情がぐちゃぐちゃで何がなんだか分からなくなって泣き崩れる仄。
リョウノが優しく寄り添って、椅子に座らせてくれた。
「わだじっ……こんなのはじめででっ、うれじくで……!」
涙と鼻水でぐちゃぐちゃだったが、それをリョウノがティッシュで拭いてくれる。
それでも止まらない涙。
溢れ出した感情は、いっぱいいっぱいだった。
散々泣いた仄はようやく落ち着いて、歓迎パーティーが本格的に始まった。
豪勢なものではなかったが、仄にとっては十分だった。
さっきの豚まんを食べたり、コンビニで買ってきたというケーキを食べたり、季李子に更衣室での事をいじられて赤面したり、リョウノに助けを求めたが知らないふりをされてパニックになったりと、色々あったが、とても楽しい時間だった。
ただ、いつの間にか、白銀はいなくなっていた。