62 強き者の優位
昨日は選手で溢れていた控え室も、今はがらんどうとしていた。
二日目のこの時間ともなれば、たいていはこんな部屋に籠もらない。
他の部屋で気分をリフレッシュさせたり、仲間と共に残った選手の出方を検討したりが普通である。
だからいま、この部屋にいるのは尭史だけだった。
「どこも行かなくていいの?」
のんびりとジェローナが尋ねる。
「うん。いま外に出ても、気が滅入るだけだから」
自販機のサイダーを飲みながら、尭史はぼんやりと答えた。
「まあ、そうよね。いくら監視されてたと主張しても、頷く連中ばかりじゃないだろうし」
「そのへんのことは友達みんな判ってくれてる。諜報的に不便はないよ。例えばほら、三回戦前にメシ喰ったあいつ、覚えてるか? さっきもしっかり情報を送ってきてくれたし」
「そういえばいたわね、そんな人」
「しかも中村となら試合中でだって連絡取れる。だろ」
「尭史がそう言うんなら、いいけど」
客観的に見れば、いまのこの状況は、騒ぎ立てる観衆から逃げているかたちになる。
それによる圧迫や苦痛はないかと、ジェローナは心配だった。
しかし尭史はなおも、そんな様子を見せはせず。
「野暮なこと言うじゃねえか」
「え?」
閉じた口を再び開いた、そのとき。
乱暴なノックから間をおかず、控室の扉が開いた。
「あら、尭史ちゃんじゃない」
「げ。伊豆浜さん」
「その、げっていうのはなんとかならないの?」
伊豆浜庄兵衛は、なんともおどけたように笑った。
「いやまあ、オレなりの挨拶みたいなもんで」
「ご挨拶とはこのことよ、まったく」
その口振りは、多分にわざとらしかった。
「それで、どうかしたんですか?」
「ただの忘れものよ」
パイプ椅子になにげなく置かれたポーチを手に取る伊豆浜。
「……それ伊豆浜さんのだったんですか」
「そうだけど、どうかした?」
「い、いえ」
花柄のポーチと太い腕はひどいミスマッチだと、尭史には思えたが。
人の趣味に口を出すのはやめにした。
伊豆浜は落ち着いた仕草でそれを持ち直し、入ってきた扉へと足を向ける。
二歩歩いたところで急に、はたと止まり、尭史を見た。
「あ、そうだ尭史ちゃん」
「なんすか」
「やっぱり誰かのものになってしまったの?」
「は?」
素で意味が判らない尭史。
「なんて言うのかしらね。昨日までの尭史ちゃんはこう、すごい危なっかしかったのよ」
相槌も求めない風で、伊豆浜は話しはじめた。
「目的のためなら手段を選ばないっていうか、そのためなら自分がどうなってもいいみたいに思ってるようで」
「! ――ッ」
尭史は尭史で、言葉を失うことにはなった。それだけ胸に刺さる一言だった。
「昨日の三回戦だってそう。さっきの準々決勝、あの一本目と二本目だってそうだった。どうしようもないほど勝ち急いじゃって。あんな乱暴なプレイじゃ、批判されるのも目に見えるでしょうに」
「それは、その」
たじろぐ尭史を見つつ。
「でも三本目は違った」
そこで伊豆浜は、フッと笑って見せた。
「落ち着きが違ってた。勝てばなんでもいいっていう危うさがなかったわ。終わったときも感情の昂ぶりが穏やかで――だからちょっと思ったのよ」
「なんすか?」
「自分の辛さを和らげてくれる人に気づいたりしたのかしらって」
大切な人が応援に来てるのを見つけたりしたのかしら、と加えて。
伊豆浜はやはりわざとらしく、口だけを尖らせた。
尭史は伊豆浜と目線を合わせた。その通りだと言っていいのか判らなかった。
観客席の人などではなく、手元のカードがそうだとは答えられなかったからだ。
まして、その女性が、一緒に戦ってくれているとも。
「うん。それなら良いのよ」
その目に何かを感じてか、伊豆浜は静かに頷いた。
「でもね、ワタシが怖いのはこれからのこと」
尭史に、もう反論するような気はない。伊豆浜の言葉を待っていた。
「昨日までの尭史ちゃんに、また戻っちゃったりしないのかしら。つまり――最終的なところ、どれだけ嫌われても勝たなきゃいけないの?」
「勝たなきゃいけません」答えはすぐに返した。
今や伊豆浜の目は、ゲーム中より真剣だった。
「自分がどうなっても?」
「絶対に優勝します」
「そう」
伊豆浜はゆっくりと、尭史に背を向けた。
「なら頑張りなさい。応援、してあげる」
「ありがとうございます」
「邪魔したわね」
今度こそ伊豆浜は振り向きもせず、扉の向こうへ去っていった。
なにか微かな香りが、尭史の鼻に残っていた。
「昨日のローナの言葉、いま判った気がする」尭史がぽつりと言った。
「なにかしら」
「三回戦終わったときの、さ。伊豆浜さんはオレを悪く言ってないって」
「そのこと。覚えてるわ」
「ローナの存在もオレの目的も知らないのにさ。あの人はでっけえんだな」
「心の温かい人って、必ず居るものだと思うわ。もっとも」
朝のことを思いながら、ローナは静かに言った。
「尭史の言い分もある意味、正しかったけどね」
「だからこそかな。ああいう人になりてえなって、今ちょっと思った。余計な詮索しない人。不利なゲームも楽しんじゃう人。自分を負かした相手も、応援できる人」
「きっと素敵なことよ」
「でもローナは、そんな伊豆浜さんよりも前から、オレを応援してくれてたんだよな」
口が開いたまま、尭史は固まった。その先の言葉は頭の中にあったが、のどでつっかえて出なかった。
ただ一言、掠れた「ありがとう」が、ジェローナの耳にも届いた。
「 ! ……ッ!?」
ジェローナは心臓と同じように、身体まで跳ねる。
そして上気した顔で、尭史に自分の思いを吐露するーー
ということにはならず。
むしろその顔は、少し青くなっていた。
「……ローナ? どうかしたか?」
女騎士は、明らかに様子が違っていた。
唇を噛んだ顔を見ながら、尭史は言葉を待った。
「昨日の朝のこと、覚えてる?」
予想だにしない話題に、尭史の反応は遅れた。
「一回戦もやる前よ。そう、ちょうどこの部屋で、話しかけてきた人がいたでしょう」
「えっと。ああ、焔村光秀か?」
「あのとき私、彼と目が合ったように感じた。でも今判ったわ。それは少し違った」
「……?」
ひどく嫌な予感がして、尭史は生唾を飲み込んだ。
「視線よりも明らかで、ざらざらした感覚。私昨日、それを感じてるのよ。ちょうど、アンネと会う前に!」
「アンネと――って、おい。まさか」
「間違いないわ。あの男は――!」
「ご名答ですのん」
音もなく開けられた扉の先から声がした。
焔村光秀は、それから遅れて現れた。




