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1 怒りの涙

 鮎川尭史に言わせれば、オタクとは生き様である。

 いついかなる時でも趣味のことを考え、没頭する。

 気に入ったものは蒐集し、知りつくそうとする。

 そうした心の動きこそ、オタクと呼ぶべきものだ。彼はそう考えていた。


 もちろん彼自身、オタクであった。

 対象は他ならぬ、TCGトレーディングカードゲームである。

 特に熱を上げているタイトル"S.N.o.W."においては、自他ともに認める熱中ぶりを見せている。


 たとえば彼が電車に乗れば、TCGのことで頭が一杯になる。

 つい夢中になって降車駅を乗り過ごしたことなど、一度や二度ではない。駅で考え込んで、乗るべき電車が目の前を通り過ぎるのに気づかないこともあった。

 小学生時代に"S.N.o.W"を知ってから昨日までは、長らくそんな調子だった。それほどのめり込んでいる。



 だから彼が、乗車から降車までの――片道五十分もの――長い間、TCG以外のことを考えていたのは、今日が十年ぶりのことであった。

 意図的に考えなかったのではない。

 TCGのことが頭に入って来ないほどの事態に、混乱していたのである。





 ことは、尭史が電車に乗り込む十五分前にさかのぼる。

 それまで彼は病院にいた。

 尭史の身体はいたって健康だ。自身の診察の為に行ったわけではない。

 妹の為だ。

 尭史は鮎川伊奈を愛していた。

 入院している伊奈を見舞う為、足を運んだのだ。


「もう一年になるか」

 個人病室の中。兄妹は、こんな話をしていた。

「そうだねー。今年は結局、一度も桜を見れなかったよ」

「来年は観に行けるさ」

「その時は一緒だよ、お兄ちゃん」


 ふふっと伊奈は笑う。

 穏やかで。しかし尭史からすれば、かつての伊奈らしくない表情。

 (はかな)げなほほえみ。

「早く元気になれよ」

 心に浮かんだ違和感をを誤魔化すようにして、尭史は伊奈の頭を撫でた。


「鮎川尭史さん」

 その時、病室のドアが控えめにノックされた。軽い調子で尭史は立ち上がる。

「あっ」

 その拍子にうっかりと、ペットボトルを倒してしまう。

 飲みかけの炭酸飲料が、白いベッドに零れる。シーツが赤く染まっていく。

「もう。何やってるの、お兄ちゃん! 仕方ないなあ」

 懸命(けんめい)に手を伸ばし、伊奈はそれを拭き取る。

「いいよ。やっとくから、行ってきて。多分カンゴフさんだよ」

「ゴメンな伊奈。ありがとう」

 どこか不安のようなものを感じながら、尭史は病室を出た。


 伊奈の予想通り、呼び出したのは女看護師だった。

 病室のドアを閉められるとすぐに、彼女は尭史を別の場所へと案内した。

「どうしたんすか。表情が怖いですよ?」

 歩きながら、尭史は軽く尋ねた。しかし看護師は何も答えない。

 尭史の不安は、更に(つの)っていた。


 たどり着いたのは診察室だった。

 中には初老の医師が一人と、兄妹の両親。

 何故か明かりが(しぼ)られていて、妙に薄暗かった。

 医師に席を勧められ、尭史はゆっくりと腰掛けた。


 そこでの話を、尭史は詳しく覚えていない。


 ただ、ハッキリ判ったのは。

 伊奈が難病を併発(へいはつ)したこと。日本でそれを治療するのが不可能であること。

 このままだと、余命あと一年ほどだということ。

 治すには、すぐにでも遠方の専門機関で治療する他ないこと。

 それには少なくとも二千万の大金が必要だということ。

 家財すべてを売り払って借金を重ねても、そんな額は出せない、と母親が泣き出したこと。

 いきり立った尭史が、医師に(つか)みかかったこと。

 父親に殴られた後、先に一人で帰るよう促されたこと。

 それだけだった。


 だから、彼は今。

 "S.N.o.W."のことなど考えられず、ただ茫然(ぼうぜん)と。

 快速運転の電車の中、身体を揺らしているのだった。


 客の少ない車内に、感情の()け口などあろうはずもない。

 青年の激情はいつしか、涙となって流れ出ていた。

 それは悲しみか、哀れみか。

 あるいは理不尽な世界への怒りか。

 尭史自身にも、判っていなかった。


(なんでだよ。なんで、伊奈が!)

 静かに、静かに。尭史は泣いた。

 彼の涙は、止めどなかった。ぽたぽたとジーパンに落ちていた。

 声も上げず。身じろぎもせず。座席に座り続けた。


 ふと最寄駅がアナウンスされたことに気付いて、彼はゆらりと立ち上がった。

 そしてゆっくり、ゆっくりと歩き出す。

 ふらつきながら、つまづきながら、尭史は家路を進んでいった。



 尭史が自ら"S.N.o.W."のことを考えていないのに気付いたのは、家の郵便受けを開いたときだった。

 彼に宛てられた小包が、その中にあった。


(ああ、そうか)

 そういえば、と尭史は思った。

 袋を開けずとも、中身は知れていた。自分で注文した、通販の商品だ。

 "S.N.o.W."の第十六弾拡張パック(エキスパンション)、『聖染繕いの騎士団』ボックス。

 値崩れしていたのを偶然見つけ、なんとはなしに購入したのだった。


(特に期待してなかったから、すっかり忘れてたな)

 それを小脇に抱えながら、尭史は家に入った。



(『聖染繕いの騎士団』におけるメインテーマは、その名の通り騎士)

 呆然とする頭には、そんなとりとめもないことが浮かんだ。

 あるいは現実から無意識に逃げようとしているのかもしれない。

 廊下を渡り、手を洗いながら。尭史は努めてこのボックスのことを考え続けようとした。少しでも気が緩めば、また悲観に暮れそうな気がした。


(そうだ、オレはいま混乱してる。冷静になるために、このボックスはちょうど良いかもな)

 普段の状態にならなければ、考えてもラチがあかない。その点パックの開封は単純作業だから、気休めになるかもしれない。

 そう思って、とりあえずパックを開けることに決めた。



「さて」

 ほどなくして部屋着に着替え、自室に一人。フローリングにあぐらをかいて、右手に生地の薄い手袋をはめる。目前には届いたばかりのボックスと、開封したてのカード保護袋(スリーブ)。どこか厳粛な心持ちで、尭史はボックスのラッピングビニールを裂いた。

(不思議なほど、心が落ち着く。ミジンコみたいな興奮を残すのも含めて、パック開封するときはいつも同じ気持ちでいられる)

 心の中で呟きながら、尭史は箱を開ける。そしてすべてのパックを取り出した。

(こんな時でも、こんな気持ちになるなんて。まったくオレはとんだTCGバカだ)

「いや、バカードゲーマーか」

 呟きながら、表情は変わらなかった。


(じゃ、運試しだ。いやいっそ、願掛けと言って良いかもしれない)

 蛍光灯を反射する24個の包装を撫でながら。尭史は自然と、こんなことを考えていた。


 『聖善繕いの騎士団』における最高レアリティ、スーパーレアのカードは全十種。一ボックスにはこのうち四枚が封入される。さらに、四分の一の確率でそのうちの一枚に特殊なホログラム加工のされたものが含まれる。


(狙いはただ一つ。『流星映す剣聖、ジェローナ・メイル』のホロのみだ。それが当たるなら)

 十種のスーパーレアの中で最高の価値を持つカードの、ホログラム加工ヴァージョン。たったの一箱でそれが手に入る可能性がごく僅かなことは、十分承知していた。だからこそ尭史は、その確率に妹の今後を重ねずにはいられなかった。


(占いなんて信じたためしがなかったのにな。こんな時は、すがりたくなっちまう)

 表面的な笑いが、一瞬浮かんだ。


 緩慢(かんまん)な手つきで、尭史は一つ目のパックを手に取った。封入された九枚、その真ん中にあるカードを見て、溜息を吐く。

(まずハズレ、と)

 パック中で最も希少なカードは、常に真ん中に入っているのがS.N.o.W.の特徴だった。大抵のプレイヤーはそれを知っているので、とにかく真ん中のカードを気にする。

 二つ目、三つ目を開けるも、いずれもハズレ。四つ目にはスーパーレアが含まれていたが、目当てのものではなかった。一応スリーブに入れ、次のパックに手を掛ける。

 あっという間に半分剥き、二十個剥き。『ジェローナ・メイル』を引き当てないまま、ついに最後の一つとなった。


(まだスーパーレアは三枚しか出ていないし、どれも光っていなかった。だから、頼むーー)

 神社の参拝客ではないが、パックを挟んで手を二度叩く。

 気の抜けた音を二度聞いてから、尭史は恐る恐るパックを開けた。


 その時だった。


「ったいわね! この私に向かって何してくれるのよ!」

 高い女の声が、尭史の耳に届いた。


「……、マズいな。あまりのショックにオレも幻聴デビューか」

「何が幻聴よ。失礼ね」

「オレ怒られてる? メンタル、相当キてんのかな」

「バカ言ってないで、ここから出しなさいよ」


 薄々、尭史は気付いていた。声がドコから聞こえているのかに。

 それを確かめるため、右手でパックからカードを引っ張り出す。

「あー。やっと出れたー!」

 予想は的中していた。


「サエないあなた、はじめまして。『流星映す剣聖、ジェローナ・メイル』とは私のことよ!」

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