第2話
第2話ーその1
2011年6月初旬の午前中。
笛吹ケンジが入居した古民家の玄関を出て、
右側に100メートルほど歩いた場所に、
大層に生い茂った柿の木が在る。
彼は、その木の木陰の下でボ~っと過ごす時間を好んでいた。
その日も暫くその木の下で過ごしていると、
ふと、ここにベンチとテーブルぐらい有れば
腰を掛けて太鼓を叩いたり、
近日オープン予定の“古民家竹笛喫茶”に訪れたカップルの
恋の語らいの空間にもなって良いんじゃないか?、
などと妄想していると、
この里の“理想の夫ー人気投票№1”のおしどり秀夫が、
木材運搬用の原動機付三輪車にまたがり現れた。
柿の木の下で、何やらもの思いに耽っているケンジを見て
おしどり秀夫は、彼にどうかしたのか?と声をかけた。
おしどり秀夫はこの里で生まれ育ち、
小学、中学の9年間を10kmほど彼方の学校に
山道を徒歩で通っていた人で、60代にして
複数の森林を管理整備し、10反ほどの田んぼで米を作り、
野菜畑と花畑で野菜やお花も拵えている
強靭な体の持ち主であろうと容易に想像できる男性なのだ。
彼は、柿の木の下のケンジの妄想話しを聞くと、
何も言わず、木材用三輪車と共に奥山の方向に去って行き、
小一時間ほど経つと、
4点の大、中、小の丸太木材を 三輪車の荷台に積んで、
再び現れた。
それを柿の木の下に、
切り込みの入った小の丸太を、2m程離して並行に並べ、
長い大丸太をその上に乗せ、
直径60cm~70cmの中丸太を
長丸太の前面中央部に備えると、
あっと言う間に、
柿の木の木陰の下にベンチとテーブルが出現した。
驚いたケンジは、
『こんな木、何処にあったんですか!?』
おしどり秀夫は、
『そこの、うちの山で今切って来たんですよ』
と、涼しい顔で言い残し、
木材用三輪車にまたがり去って行った。
2011年6月のある昼下がり
ケンジが暮らしている古民家には、3反の畑が付いていて、
その庭を含め、敷地全体には
柿の木をはじめ、山椒の木、山桃の木、山桜の木、楠木、
梅の木、名も知らぬ木、様々な多年花、お茶の木などが
生え揃っており、
元来、都会育ちの彼は、
農の勉強や、田舎暮らしの心得本なども滅多に読まず、
趣くままに畑に野菜の種を蒔いたり、
出来るだけ雑草も刈らず、
敷地内の雑木や草花の手入れに至っては
余程見苦しくならない限り、何もしない。
そんな彼のスタンスを察した
この地域の森林保護協会の会長でもある、“大和純二”が、
以前に一言だけ
『笛吹さん、竹は切った方が良いよ。』
と、提言していた。
竹は放って置くと、家屋の床を突き破って
屋内にも生え茂って来ることを、
ケンジは知らなかったのだ!
流石に、何もしないケンジであっても
(それは御免だ!)
と、数年空き家だった古民家の周りの竹を
家の修理の合間にせっせと切っていて、
庭の端には切った竹が山積みされていた。
家屋内の“古民家竹笛喫茶”にする予定の空間は
フローリングの24畳のリビング間であって、
その入り口3間ほどの両側の土壁が剥がれていたので、
数日前からその壁表面に、庭の山積みされた竹を
壁紙代わりに張り出していて、この日
両側3間のすべての壁に、竹を貼り終えていたのだった。
大和純二の、たった一言の助言で切り出された竹は、
お店の装飾建材として
見事な風情をかもし出していた。
第2話ーその2
携帯電話の電波が届いていない地域である
この里では、テレビを見たりネットをはじめるには
地元ケーブルTV会社と契約する以外に方法は無かった。
既にケーブルTV会社の営業マンが、
新入居者のケンジの元に契約を勧めに来ていたので
その内容を聞いてはいたが、
ネットを始めるだけで、申し込み金を数万円支払った上、
その回線速度が遅く、何より気に入らなかったのは
その営業マンの(うちと契約しない限り、ここじゃ
テレビもネットも見れないですよ)みたいな、
時代遅れの、大名商売的態度であったゆえ
意地でも契約などせず、
夜間の娯楽は、微かに届くラジオと
何冊もの、図書館に行って借りて来ていた本や漫画の
読書であった。
ある夜読んでいた本に、インドネシアかどこかの国の
竹で作られた打楽器の写真が目に入り、
その打楽器に興味を持ち、
後日図書館に行った時に、その作り方の本を探し出し、
持ち帰ってそれを参考にして、
ナイトタイムは切り出した竹で、その打楽器作りにハマっていた。
二ヶ月ほど掛かったであろうか、
ついにイメージしていた打楽器の音が響き、
試作品第一号が完成した数日後の昼下がりに
木工玩具職人、大和節介こと節爺が
工房で試作品を鳴らしていたケンジに近づいて来て
その試作品をまじまじと見ると、
例によって、それに対して御意見あそばされた。
『うむ、狙いは面白いが、商品としてはまだ甘いな。』
節爺のこの批評は、ケンジにとっても的を得ていた。
その日の夜から彼は、
その竹打楽器作りに、益々のめり込んでいくのであった。。
『コロンコロン~カランカラン~カタカタカタカタ~』
後日、月夜の古民家内フローリング24畳のリビングに独り座り、
節爺からも『うむ、良くなった!』と言わしめた
改良竹打楽器を打ち鳴らしているケンジは、
その吊るされている低、中、高の竹の和音リズムの響きに聴き入り、
まるでレイヴイベントで何時間もトランス状態で踊っているかの如く
忘我の念にかられながら、
初夏にもかかわらず冷涼なる庵で、更け行く夜を過ごしていた。
すっかりこの竹楽器にハマってしまって
気がつけば5台の完成品が出来上がってしまい、
店に並べていると、
それを譲って欲しいと言う人が現れだしたので
一台数千円で販売しだしたが、在庫がすぐに無くなりそうなので
せっせと商品を作らねばとは思うのだが、
どうも自分のイメージした竹楽器が出来上がってしまうと、
それを奏でてみたい気持ちのほうが勝り
製作することは億劫になってしまい、
一向に商品は出来上がらなかった。
何か違うなと彼は思惟しはじめるのだった。
(そもそも本で知ったこの竹楽器は、どんな音がするのか!?
と興味を持ち作りはじめたのだよなぁ、
別に竹職人になりたかった訳じゃないし。。
それに、この里で笛を吹いて暮らして行こうって決めたのに
その想いはどうなるの?
悪いけどそんな時間もないし。。やーめた!)
ケンジと言う男は決断も速いのだが、
諦めるのも速い奴であった。
並べてあった残りの竹楽器は
彼の奏でる楽器として陳列から消え去り
大切に保管された。
第2話その3
2011年の夏も近ずくある晴れた日。
古民家“竹笛茶房”の開店を10日後に設定し、
オープニングライブを敢行しようと企てたケンジは、
手書きのフライヤーを持参し、
山里から車で30分ほど下り、日本海を望む国道沿いに建つ
この地域の自治体役場オフィスを訪れていた。
受付で用件を説明し、B4サイズの手書きの素朴なフライヤーを
どこか人目の付く場所に貼らして欲しい旨を伝えると、
係りの人から役場ロビーにある催し物告知コーナーに案内された。
その掲示板には、
ほとんどが印刷業者に依頼して製作されたであろう
何枚ものビッグサイズのポスターが貼られていたが、
ちょうど目の高さぐらいに恰好の隙間スペースを見つけ
なにを臆するものかと彼は、
自分で書いた素朴なフライヤーを
目ざとい場所に自分で貼り付け、役場オフィスを後にした。
それから国道に下ったついでと言う訳ではないが、
役場から1キロ先で営業している道の駅にも告知して置こうと車を走らせ、
そこで働いている女性に用件を伝えてみると、
隣接して建っている催し館の事務所に行って尋ねてみれば?と言われ、
手書きフライヤーを右手で握り締めたまま
そこを訪ねてみると、
支配人って肩書きの名刺を差し出す男性が居られ、
『このパソコン全盛の時代に手書きのポスターですか!?』
と、皮肉とも感心とも取れる発言をされたが、
ケンジは取り留めて反応せず、彼の了解を得て、
自分で正面入り口のウインドウに、その素朴なポスターを貼り付け
とっとと山里に向け車を走らせるのだった。
竹笛茶房オープンライブにあたってケンジが行った広報活動は、
この2枚のポスター貼りと
久瀬原の里近くの県道に、油性ペンキで書いた
木製の小さな看板を建て掛けたこと
これが全てであった。
竹笛茶房オープンライブの3日前の朝。
『笛吹さん!し、新聞に大きく出ていますよー!』
おしどり秀夫が2部の新聞を握り締め訪れ
彼は少し興奮して新聞紙を広げて見せた。
先日役場オフィスのオープンライブポスターを見たと言う
大手新聞社の記者から取材を受けていたのが
紙面の半分ぐらいを使って写真や記事を掲載されてしまった。
続いて地域の保健所係の食堂のご主人がやはり新聞を握り締め来られ
やはり興奮気味に
『こ、これはスゴイ宣伝になりますよ~。』
午後になると節爺が現れ
『それで、15人ぐらいはお客来るのか?』
ぼそっとケンジは答えた。
『それは分りません、
5人でも10人でも来てくれればいいんですけど、
あんまり来られても対応できないしね。』
『いや、もっと来るわ。』
久瀬原シスターズのおしどり恵子もやってきた。
彼女はきりっとした表情になり
『これは婦人会3人全員でお手伝いします!』
ケンジの茶房運営には一つこだわりがあって
お茶とお菓子をセットにして茶碗は専用の手びねりの焼き物で
お客に提供するのだが、
専用焼き物茶碗は10個しか手元に無かった。
実際、茶房オープン当日、この山奥の古民家に
各地から50数名のお客が押し寄せたのだった。
その日のケンジは、久瀬原シスターズの驚愕の底力を見せつけられる事になった。
だいたいが10個しかない専用手びねり茶碗で大勢のお客に、
お茶を提供したいと言う面倒くさいこだわりがある茶房運営にもかかわらず、
オープン前にはまるで新装開店花輪のような沢山の花が添えられ
次々にやって来るお客をゆったりと出迎えエスコートし
10個のこだわり茶碗だけでやりくりしながらも
お盆にのせて運ばれてくるお茶とお菓子セットにも
彼女達の感性によるアイデアで装飾されていて
野原の蝶のように茶房の空間を自由に飛びまわり接客されている。
各地から来た人たちは、久瀬原の自然とシスターズの無垢なもてなしに
時間を忘れ和み楽しんでいる。
それは平和な光景であった。
ケンジにはもう運営の意思は無いに等しかった。
そこには誰かの意思で誰かが動くことはなかった
何の命令も生じなかった
誰もが自発的にやってきて好きに振舞っていた。
オープンライブが終り、打ち上げ宴が始まった古民家の窓には
黄褐色の満月が映しだされていた。
その日以来ケンジは、
ポツリポツリと訪れる人にお茶を振る舞い竹笛を吹いて暮らすようになり、
傍らに、半年ほど掛けて竹笛アルバムを制作してみると
茶房に訪れる人だけでは飽き足らなくなり、
古民家茶房を無期限の休業にして、、
近くの町から笛を吹きに動きはじめ、少しずつその範囲を広げていった。
そんなある日
古民家茶房から4キロ離れた場所にある一軒家を知人が
携帯電話やネットも繋がる土地なので無償で使って欲しいと申し出があったので、
そろそろネットを始めたいと思っていたケンジは、
その一軒家をスタジオ代わりにして音楽制作を始め、
ネットなどを使って神戸や大阪までライブブッキングして
笛吹きツアーを行ったりする年月が流れた。
2015年の春。
ギターを抱えたケンジが久瀬原集会所に向かって歩いている、
おしどり恵子から、最近若いお嫁さんが里に嫁いで来て、
街に出ていた若者も一人戻って来たので、
新年会で演奏して欲しいと頼まれていたのであった。
次世代が成長して来ている、里にとって真に喜ばしいことだ。
新年会は終始和やかに進み活気に溢れていた。
その年の秋、
ケンジは数年過ごした久瀬原を諸事情もあり去ることになった。
すると、その情報を知った若者男女二人が、
まだケンジの古民家の引越しも終わらないうちに訪れて
久瀬原を気に入ってしまい、
次の春から此処で暮らすことを明言して行った。
数年過ごした久瀬原の引越しと掃除が終わり、
ふと周りを見渡してみた
来た時より少しきれいになっていた
若干センチメンタルな気分になっていた彼は、
癒された。
=======おわり======