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二章 三話

  *   *


 私はいつかのように屋上の階段を駆け上がっている。

 初めて彼を見た時、私はあわてて階段を駆け上り、彼の元を目指した。

 あの時、私はなぜか高揚していた。

まるで上へと見えない力で引っ張られるように。まるでそれが天国への階段であるように。その先に何か私の欲しいものがあるみたいに

 けれど、今はどうだろう。

 まるで、逃げるようじゃないか?

 縁さんから、雪から、乃杁から。嫌なことから。

 私は上がった息を整えながら、上を見上げる。

 彼が見えた、鮮やかな服の裾が、翻るのが見える。

 その人物は、何かを求めるように屋上に向かって階段を上っていた。

 彼の見ている先には何があるんだろう。

彼の行きつく先には何があるんだろう。

 私はそれが知りたかった。

 遥か頭上で、扉のしまる重たい音がした。

 自然と歩みが早くなる。心臓が高鳴っていた。

 そして私は飛び上がるように最後の段を上り詰めると。

倒れるように扉を体全体で押して。

そして、茜色に染まるその空間に一気に躍り出た。

 その瞬間。

聞くのを忘れていた音が全て帰ってきた。

「うわあ」

 雨音はしなかった、雨は止んでいて。町にはたくさんの音があふれている。

 車の走る音、生徒たちのはしゃぎ声、吹奏楽が練習する音、時折外れた音が鳴ったりする。私はこれを聞くのが好きだった。

空を見上げる。雨雲は散り散りになって。その隙間から燃えるような茜色が降り注ぎ。学校近くの住宅街はほんのり暗く。遠くの商店街は人があふれてて明るい。

 重たい赤色のコントラストに、雲から差し込む光のはしご。

 目に見える全てが鮮やかで。そして吹き抜ける風が、私の髪の毛を洗う。いい香りがした。

雨上がりの、空気が洗われた香り。

 ここはまるで、別の世界のよう。

「もう、うんざりだよ。全部」

 そう言って私は一歩歩み出す。夕日を左右に割るように、人が一人立っていて。

私はその人物へと歩み寄る。

カメラのシャッターの音が一つなった。

「ねぇ、乃杁?」

 私は恐る恐る名前呼んだ、すると彼は振り返り、動きを止めた。

逆光で暗いシルエットとなってしまっている彼からは、表情が読み取れない。

 だから私は無意識に一歩足を踏み出した。

「乃杁なんでしょ?」

「学校の屋上に限らず、建物の天辺に立つと、取り残された気分になるよ」

 私はその声にうなづきながら一歩ずつ歩みを進める。

「音も遠くなって、地面も遠くなってさ。空にも何もなくて。こんな光景を見た時、君は不安になる?」

「私は、なるよ。屋上ってそんなに好きじゃないかも知れない」

「それって、きっと幸せなことだってことだと思うんだ」

「なんで?」

「それが普通だとおもうからさ」

 彼は言う、淡々と。まるで私じゃない誰かにも語るように。

「今、多くの人たちって、上に何かあるのが当たり前でさ。圧迫されるのが当たり前で、もっと言うなら、ぎゅうぎゅうづめにされるのが当たり前なんだ。

押さえつけられるのが当たり前で、どれだけ自由がいいとか気取っていても。みんな自由になった時には不安になると思うよ」

 日が陰り始める、夜が訪れるのと同時に、徐々に目の前の人物の顔が明らかになっていく。

「でも、自由を不安だと思わない人もいるんだ。

圧迫も、上に何かあるのも、耐え難くて。

でもそれが普通だって、世界は強要してくる。死にたいと思っても。生まれて、なにかと結びついてしまったならそうはいかない」

 その民族衣装の青年は言う。そんなの勝手だよねと。

「もっと世界は寛大になるべきだ、結びつきは縛り目じゃない。誰かを息苦しくしないためにも、つないだ手は柔らかくていいんだ」

「乃杁?」

 太陽が傾いていく、暖かな金色の光は徐々に攻撃的な赤へと変わり、やがては冷たい紫に変わるのだろう。

色が移り変わり徐々に暗くなれば、乃杁の表情も見えるようになる。そして乃杁の顔に浮かんでいたのは、写真館であるいつもの乃杁でなく、屋上で見た、冷たく目を細めた青年の顔だった。

「乃杁は、さようなら。なの?」

「その呼び方って、日本語として少し変だよね」

 そう言って乃杁は、手に持っていた写真の束を空に撒いた。

同時に背後で白い羽根が巻き上がり。

 そして、乃杁は、言った。

「これは機会なんだ、神様のくれた。たぶん人にとって最大にして最高の」

 私は、何が起こったのかもわからずに風に乗り舞い込んできた羽根を掴みとる。

 それが何なのか、なぜここにあるのか私にはまったくわからなかった。


   *   *


 私たちはそのあと、二人して見つからないようにこっそりと校舎を出た、示し合わせたわけではないのに私たちの足は写真館に向かい。

 到着するなり乃杁が写真館の中に入るように促した。

 長い話になる予感があった、聞きたいことはたくさんあったから。

「まず、最初に言っておくべきことが二つある」

 カウンター越しに彼は言う。

 私はコーヒーを入れるために、お湯を沸かし、準備を始める。

「まず、俺は君たちの言うサヨウナラだということ」

「ずいぶんあっさり認めちゃうのね」

「そうじゃないと記憶を保っていられないんだ」

 記憶を保っていられない。それはどういうことなんだろう。

「俺の正体を知らないと、早い人なら五分であの光景を忘れる、そして俺の力もね。そして第二に。今日さようならした人間が誰かは明かせない」

 私は目を閉じる。その消えてしまった誰かへの黙とう。

「彼、もしくは彼女を葬るために。あそこへ?」

「葬ったわけじゃないんだよ。消したんだ」

 私は、乃杁にたくさん聞きたいことがあった。

 何でそんなことをするの、とか。消してしまうことの影響とか。だれでも消せてしまうの?とか。なんでそんな悲しそうな顔をしてるのかとか。

「珈琲よ」

 私はマグに入ったそれを差し出す。

従業員用のコップはこの店に似つかわしくない可愛らしいプリントの入ったマグだった。

でもそれが今はなんだか場違いのような、うすら寒い冗談のような、そんな場にそぐわないものに、私は見えた。

「じゃあ、乃杁はさ」

「なに?」

 乃杁はいつもとは違って控えめに返事を返す。

「私と初めて会ったの、学校でだったんだね」

「そうだね、それにしても。真昼はよく俺と、写真館の俺を結びつけることができたね」

「私、人の顔を覚えるのって得意なのよ」

「うかつだったな」

 会話が、いつもより簡単に続く。

何気ない日常会話。たぶんそれがずっと続いて今日は解散になる、そうなったとしたら、私は乃杁と昨日までみたいに、言葉を交わしたりできるだろうか。

矛盾を多く抱えた私の頭が、心が。うまく回らない。あまり多くのことを考えられず。胸が詰まり、声が詰まる。まるで故障してしまったみたいに。

普段の私でいられない。

「じゃあ、あの時、屋上から顔を出さなきゃばれなかったんだよな」

 乃杁はひとりごちにそうつぶやいた。

「君には知られたくなかったのにな」

 私の脳内で、乃杁と一緒にいる風景が何度も何度も繰り返し再生された。初めて写真館であった時、買い物に行ったとき、写真館での日常。屋上で乃杁が舞い散る羽根をバックに立つ風景、見上げた乃杁の冷たい視線。

 どちらが本物?

 乃杁はあの目をしている時、何を考えているのだろう。

 けれど、私はそれを口にすることができなかった。

「この力は、この世から完全にその人を消してしまう。痕跡も残さずに全部。

けれど、この力を知る人物の中からは完全に消えないんだ、それはわずかなほころびとなってこの世に残る。

でもそれでどうしたということはないんだ。世界からその存在の証拠である、戸籍とか、他人の記憶とか、記録とが全て消えているんだから。

人は死ぬ、普通に死ねばその生きた痕跡は関わってきたすべての人の中に残る。

でもそれってはたしていいことかな? その人の記憶を思い出したからと言って、その人が帰ってくるわけじゃない、ただ苦しいだけだ。だからこの力があるんだ。

逆にもし、その消えた人間のことを思い出したいと願うなら、この力を継承するしかない」

 私の口が無意識に動く。

「継承するとどうなるの」

「継承した人間がどうなるかってこと?」

「乃杁が」

 力を渡した本人はどうなるというんだろうか、記憶とか、忘れてしまうんだろうか。

「……それは、おいおい話そう」

 乃杁はいたずらっぽくそう言い、笑った、言いようのない不安が私の中で芽吹く。

「いつか俺は、この力を君にあげたいと思ってるんだ」

「ちょっと待ってよ」

 何で私が。

「君ならぴったりだ、俺の後を継げる」

 ちょっと、待ってよ。そんなわけのわからないもの。

「嫌よ、私はもうそんな面倒なことにかかわりたくない」

「真昼…………」

「もう、私におかしなことを押し付けないで」

 なんで、乃杁まで私に押し付ける。

私の中のどこか奥深いところから、そんな声が響いてきた。

私にこれ以上、何を抱え込めと言うのだろう。

「もう、疲れた。みんな勝手なことばかり言う」

 情けないことに声が震えた、心の奥底にいる冷めた自分が、こんなか弱い声も出るのかと、冷静に分析している声が聞こえた。

「私に、どうしろっていうのよ。無理だよ、私には」

 なんで、冷静にいられないんだろう。

「みんな気楽に、ああしろ、こうしろって」

 滑り落ちるみたいに、言葉が流れ出す。

「私がどれだけ普段から頑張って、我慢してるか分からないの?」

 本当はそんなこと思っていないのに。

「私は他人に何か要求したことはない、自分のやるべきことは全部やってる、なのに、なんでそんなことばっか、私に言うの?」

私の口が、声が、心が。勝手に情報を出力した。

ただ、違うって、そうじゃないって言葉を伝えたいだけなのに。

「もう、めんどくさい」

私はみんなに頼られるような、誰かの代わりになれるような、そんなすごい人じゃないって伝えたいだけなのに。

「明け渡せ、かかわるな、やめろ、助けて、何もするな。受け継げ? 自分のことくらい自分一人でかたをつけたらどうなの?」

 私は、もう乃杁の顔を見ていなかった。

「みんな何で、自分のまいた種くらい回収できないのよ、何でそれを私にやらせようとするのよ。もうほんとにめんどくさい」

「君は何をそんなに焦ってるの?」

 あせる?

「焦りもするよ」

 私は、何もうまくできないから。

「勉強、いい成績で、模試でいい点を取って。いい大学に入らないといけない。その先でも生かせるスキルを今から身につけていかないといけない」

 勉強ってものは重たい、どれだけやっても足らず、常に上に誰かがいる。その誰かを見て、比較して。大人たちは私をダメなやつだという。

「それは、なぜ?」

「いい大人になるためよ。周りの大人にため息つかれない大人になるためよ。周囲の期待を裏切らないためよ。みんなそれを望んでる」

 私は、あの視線が嫌いだった。周囲の失望した顔。やっぱりお前には無理だったかって顔。子供だからなって馬鹿にする顔。

「だから、必要なことをやって、必要な技術と教養を身につけて。コミュニケーションをうまくやって」

「真昼はうまくできてると思う」

「違う、できてなんかない、私まだ。この程度で……」

 この程度って自分の言葉に傷ついて。

「少なくとも俺は、真昼じゃないとだめだなって、思うことあるよ」

「え?」

「真昼といると、楽しいよ」

 まただ、乃杁は場にそぐわないことを平気で言う、普通の人間なら気を悪くして憎まれ口の一つでもたたくような場面で、平然とそんなことを言う。

「真昼も、どこかにいきたんだね」

 ……。どこか?

「やめてしまえば? 全部」

 やめてしまいたいよ。

「無茶言わないで」

「俺に言ったみたいに、そんなには受け入れられないって」

 だって、こんなに頑張っていても、みんなまだ私に求める。

「だから、無理だって」

「俺に言えたんだから、大丈夫、言えるよ」

「それって、イヤミ? 私の癇癪に対する」

「違うよ、肯定だ」

「肯定?」

「そう、いいと思うよ。そんな背負い込まなくて。真昼が正しいんだ。人間の言う幸せって、まず嫌なことは嫌って言うところから始まると思うよ」

 乃杁は私を見つめてそう言った。

「でもね、世の中にはそれをできない人が大勢いる。自分の胸の内を表に出せない。そんな心は、ため込んだ思いはどこに行けばいい? 真昼みたいにパンクするまでため込んでいたら壊れてしまう。ならいっそ、この思いごと消えてしまいたい、そう思うのはごく普通のことで、だから、わかるんだ、俺には。消えたいと思うその心が」

 私が新たにコーヒーを次ぐと、乃杁はそれに一口、口に含み。語り出す。いつも私に言って聞かせるように、ゆっくりと、そっと、優しく。

「死にたいと消えたいは、違うよね。感覚として。

 死んでしまうと、だめなんだ。その後も世界は続いていく。

残された人は、自分の、死んだ人の思い出を抱えて生きていくし。現実的な問題としては。家庭がある場合は、子供とか、パートナーとかに影響が出るし。仕事もそう。

自分が死んだ後も世界は続いていくと考えると、人は死ねない。どれだけこの世界にいるのがつらくても。死ねない」

「だから、さよならが必要とされた?」

「その歴史がいつから続いているのかはわからないけどね、でも昔からずっと必要とされているから、現代もこうして残っている」

 世界から、存在したという事実すら消し去ってしまう。さようならの力。

 そんなものが本当にあるのか、私はいまだに疑っているけど。

 そんなものありえないなんて、言うこともできなくて。ただ乃杁の話を聞いていることしかできなかった。

「これは、神様がくれた唯一の優しさだ」

 乃杁が一つ、琥珀色の氷砂糖をコーヒーカップの中に落とした。

「苦い苦いこの世界で、唯一の優しさだ」

「それは、本当に優しさなの?」

「本当の優しさってなんだと思う?」

 なんだろう、ありふれた言葉は逆に意味を知らないことが多くなる、優しさもそれの一つだった。

「俺は。誰かを傷つけないことが優しさというなら、誰も傷つかないこれは優しさだと思う」

 乃杁は自分の両手を見ていった。

「どこの国に行っても、優しい人間が一番追い詰められている。優しさってさ。定義がおかしいんだよ。今世界に必要とされている優しさって、無償の何かだろ? 単純に自分の時間やお金、労力を無償で誰かにあげることを優しさと、今の人たちは呼んでいるんだ、でもそうじゃないと俺は思う」

 私は無言で続きを促した。

「だってそうすると、優しい人はだんだん貧しくなっていく。自分の時間をお金を、体力を使って、誰かを助けて、どんどん貧しくなって、弱ってく。弱った人は生きていくことができなくなって優しい人はどんどん減って。そうして優しい人間は絶滅する」

 乃杁はそうコーヒーを飲み干すと、席を立つ。

「それを助けることができるのがこの力の本質だと思うよ、優しい人を救済できる優しい力。そう考えると少しは楽になる」

「それ、結局救えてないんじゃない? それは助けるって言わないよ。ごまかしてるだけだ」

「真昼は、優しいな」

 そう言って私に背を向けて、二階へ続く階段を上り出す。

「逃げるの?」

「逃げるわけじゃない、ただ……」

「ただ?」

 乃杁が息を吸い込んだ、何かをためらっているのは明白、乃杁が言葉をためらうなんて珍しいと思った。

「……。俺の甘さが出たんだ、全部語るって決めたのに、一番肝心なことを君に言えてない」

「なに?」

 静寂が耳にいたい。

「真昼は聞いたね、この力を受け継ぐとどうなるか」

「聞いたわ、答えてくれる気になったの?」

「消えるんだ」

「え?」

「俺も消える」

 ……なんで。

「消えるって、なんで」

「そういうシステムだからさ」

「そうじゃない! それならなんで私に受け継いでほしいなんて言うの!」

 私が受け継いでしまったら、乃杁は消える。消したのは誰になる? 私だ。

 そんなのいやだ、私にこの手を汚せっていうの?

「乃杁……」

「明日の依頼の準備をしないと。だから今日はお休み」

 逃げるように乃杁は階段を駆け上がる。

「乃杁!」

 私はそれをただ茫然と見送った。

 それしか、できなかった。

 

*  *



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