わかりあえない決定打
僕が一番嫌いな者。それは、建御雷。鹿島と呼ぶ、雷神だ。
卑怯で馴れ馴れしくて、恥知らずで能天気なこの男が、嫌いだ。
そんな僕の心を考えることもなく、鹿島はしょっちゅう僕に会いに来る。
額と右手首と左足首、その細い首には真っ白な包帯が巻かれ、深緑の法被を適当に着流し、下駄を軽快に鳴らしてやって来る。
「よう、諏訪」
「……何の用だ」
「用がなきゃ来ちゃいけないのかい?」
「いけなくはないがおまえは別だ」
「何でよ、ひでーな」
ひどいと嘆くわりには、まったくひどいと実感していないように思える。このへらへらした笑いは、好きになれない。
「天敵に会っていい気持ちはしない」
「天敵い? 同じ八百万 の神だろー?」
「だがおまえは天つ神だ。国つ神の僕とは違う」
「言うねぇ」
けらけらと、鹿島は笑う。
せっかく、参拝客からもらった菓子を食べようと思ったのに、これではおやつの時間も台無しだ。しかも、めざとくそれに気づく。
「お、地上で流行ってる菓子だわ。高いんだよな、これ」
社の賽銭箱の横に、控えめに置かれた菓子を、鹿島はひょいっと手にとる。
「あっ、こら! それは僕のだ!!」
「一個分けてくれよ。食べたい」
「誰がやるか!!」
「いいじゃん、一個だけ一個」
な? と困ったように笑いかけられ、僕は断固拒否の姿勢を崩してしまった。
結局、境内でふたりしてお茶だ。鹿島は言った通り、菓子はひとつだけつまんで、あとはお茶をす すっていた。残りの菓子は、全部僕が食べた。
「諏訪、おまえ、背ぇ伸びた?」
鹿島が、無遠慮に僕の頭に触れてくる。
「勝手にさわるな。あと余計な世話だ」
「いいじゃん。おまえ華奢だし幼いし、成長が楽しみなんだよ」
「華奢で幼くて悪かったな」
自分の体が貧相なのは自覚している。だから少しでもましになろうと、日々修練しているのだ。
自覚しているぶん、つつかれるのは痛い。ましてや鹿島に言われると、腹立たしい。
鹿島は見た目こそ細いが、筋肉はしなやかについているし、身長だって高い。顔立ちだって男だとはっきりわかるし、高天原では信頼のおける神として慕われている。
僕の持っていないものを、この男は持っている。
その事実は認めたくない 、だが、これが現実。
「なぁに怒ってんだ? 大器晩成っていうだろ。そのうち背も伸びるさ」
「うるさいな。余計なお世話だ」
「あ、茶も出してもらっちまって悪いねぇ」
「ついでだついで」
「いやいや、ありがとさん。この礼はいずれな」
そういって、鹿島は僕の頭を撫でる。父が子を褒めるように、兄が弟をあやすように。
認めたくはないが、僕はどうやら奴に頭を撫でられるのが嫌いではないらしい。そうされると、悪い気持ちはしない。むしろ心地よさすら覚える。
「ん……」
「今度、菓子でも持ってきてやんよ。甘いの好きだろ?」
「嫌い、ではない。好物だ」
「よし。楽しみにしてな」
ふっ、と鹿島が笑う。この笑みにも弱い。
穏やかなこの笑みを向 けてもらうたび、僕は、一瞬、鹿島に心を許してしまう。
嫌いだけれど、天敵だけれど、ちょっとは見直してもいいかな、なんて。
「じゃあな」
「ぁ、うん。また」
口が滑った。なるべく会いたくない相手に、「また」なんて次を期待する。
鹿島は、振り向かずに手を振った。からころと下駄を鳴らし、高天原へと帰っていく。
本当は、いい奴なのかもしれない。天つ神と国つ神と区別して、距離を置いて煙たがっているのは僕だ。だが、その区別も取り除いていいのかもしれない。
天つ神も国つ神も、もとは同じ、八百万の神なのだ。本来なら、共に手を取り合って生きることはできるはずだ。
父と、天照殿との仲は良好だ。父である大国主が、天つ神の統率者である 天照殿と信頼関係を築いているということは、天つ神も国つ神も総じて仲がよい証だ。
ただ単に、僕が鹿島だけを毛嫌いしているだけ。
少しは、僕も彼との距離を縮めてもいいかもしれない。
立場は違えど、きっと分かり合えるだろうから。
何の根拠もなく、仲良くなれると望みを抱いた。
その考えが甘ったれた幻想だと、あっさり打ち砕かれたのは、それから何日か経ってのことだった。
信濃の隣の地で、争いがあったらしい。人間で、八百万の神々を我が物にしようと画策している一家があった。その一家は、力を蓄えに蓄え、備えを充足させ、いざ決行というところまで進んでいた。
それが未遂で終わったのは、ずっと前からその一家に目を光らせてい た鹿島が、行動したからだ。
別に、人間が僕らを支配しようとするのは珍しいことじゃない。もっとも、そんな人間は外から来た異国人であることがほとんどなのだけれど。
父に聞いて、駆けつけたそこは、惨状だった。
お屋敷じゅう、血の臭いが生温く漂って、鼻がもげそうだ。
蘇生しないように、慎重に細かく、人間が刻まれていた。
胃の辺りから何かが込み上げてくる。それをどうにか押し込んで、僕は切り刻まれた肉塊をうかがう。
「ぅ……」
目を背けたくなる。だけど、確認したいことが、あった。
肉片の中には、まだ小さい手足がいくつか見つかったのだ。
つまり、子供……もしかしたら赤子すら、手にかかったのかもしれない。
足がふら ふらする。鼓動が早くなって、僕から平常心を奪う。
隣の一室の物音を聞いて、僕はおぼつかない足取りでそこへ向かう。
人間の血にまみれた鹿島が、赤子を静かに見下ろしていた。
「か、しま」
鹿島の背が、ぴくりと動く。ゆっくりとした動作で、こちらに顔を向けた。
その顔に、いつもの飄々とした笑みはない。
ただ冷淡で、静かで、腹の底に恐怖を落とすような、穏やかな顔だった。
「諏訪か。何の用だ」
「……父に聞いて、来た。信濃の隣だから、僕にも『要請』が下った……」
「そうか。無駄足踏ませてすまなかった。あとはこいつで終わるから」
こいつ、というのは、鹿島の足元に、無防備に座り込んでいる赤子のことだろう。
あどけないその 瞳は、このあと自分がたどる運命も知らず、ただ鹿島を見上げている。
まさか、と思ってしまった。
だって、鹿島が、当たり前のように、手を赤子にかざしたから。
「おい、おまえ、まさか……!」
「まさかって何が?」
「その子まで手にかける気か……!?」
「当たり前だろう。首謀者だけを『処理』しただけじゃ意味がない」
「待て! その子に罪はないだろう!!」
「だがいずれ、己の生い立ちを知る。そして抱く心は、神への反逆。そうなったら、どっちに転んでもたどる末路は同じだ。種は残さず摘み取らなければならない」
「ふざけるなっ!!」
恐怖も不快感も消えて、僕は怒りに任せて彼を睨む。
「罪もない子を、手にかけるのが神か!!」
「バカじゃねぇ の?」
一蹴、された。
「戦場で同じことが言えるか? 敵は馬鹿正直に敵だと言わない。弱者のフリして不意を打つ。味方に下ったフリして情報を流す。この赤子とて同じよ。いつか俺たちに復讐の牙をむける。……復讐の連鎖はたちきる必要がある」
「おまえには……慈悲もないのか」
「持ってねぇし欲しくもねぇよそんなもん」
気だるげに、鹿島は足元の赤子に視線を戻す。今度こそ、殺す気だ。
待って、お願い、それだけは、
やめて。
「やめろ!!」
雷が、赤子を、焼いた。
一発だけでは終わらせない。原型をとどめなくなるまで、何度も何度も、雷を赤子に与える。
ぶすぶすと、『ソレ』は強烈な焼けた臭いを放つ。
抑えきれ なくなって、そこに座り込んで、吐き出した。
「ぅ、……ぁ、ぁあ……っ!!」
ただ気持ち悪い。あの焼け焦げたナニカは、さっきまで生きていたはずの、人間だ。
それが、瞬く間に、こんなナニカになれてしまうのか。
全部吐き出したせいで、胃がひりひりする。頭がぼーっとして、何をしに来たのかさえ吹っ飛んだ。
情けない僕に、鹿島はやさしさのかけらもなかった。
「これ以上『業務』を増やすな」
どこまでも冷たくて残酷だ。
彼にとって、僕は業務を増やしたバカていどの認識しかない。聞こえよがしにため息をついて、鹿島は後方へと声をかける。僕にではなく、部下に。
「もういい。おい経津、こいつを信濃へ送り返せ。足手まといを押し付けるなと大 国に伝言頼む」
「構わないが、報告書にはなんと書くつもりだ」
「ありのまま書くさ」
さぁ、と腕をひっぱられ、僕は立ち上がる。まだ足はふらふらする。
行きましょう、と僕を連れ出す彼も、冷たかった。
「鹿島っ!!」
「今度はなんだ」
精一杯の、自分にできうる限りの憎悪で、吐き捨てた。
「おまえなんか、大っ嫌いだ」
社へ戻って、ようやく落ち着いた。口をすすいで、水を飲む。何か食べる気力もない。
僕が馬鹿だったんだ。
相手は、勝つためならばなんだってする、卑怯者の鹿島だ。
そんな冷酷な奴と、どうして一瞬でも分かり合えると錯覚したんだろう。
甘かった。馬鹿だった。幼かった。お綺麗だった。
僕は、結局 なにもできないお荷物だった。あの赤子を救うこともできなかった。
「ぅ、……ふっ、う」
こらえようと歯を食い縛っても、嗚咽は漏れる。悔しくて? 悲しくて? 不甲斐なくて?
それでも、僕はあの男を嫌いになりきることができないでいる。
期待を裏切られたというのに、まだわずかな望みにしがみつく。
わかりあえるなんて、そんなことできるはずないのにね。
「大っ嫌い、ね」
処理を終えた俺は、『後片付け』に移っていた。
信濃の隣にある一家が、神々を狙っているのは大分前から把握していた。泳がせておいて、正体を現すその時をずっと待っていた。それが今日だっただけのこと。
しかもこの一家、最初に狙いをつけたのは諏 訪だった。武神というわりにはチビで非力だからどうにかなると踏んだらしい。
確実に勝てる相手から潰していく。嫌いじゃないね、だが気に入らない。
諏訪を穢したら、次は別の神へと手を出すのは、分かりきったこと。だから、諏訪を狙う前に、『処分』した。
首謀者とその共犯者は、俺が『建御雷』と知るや、あっさりと手のひら返して命乞いをした。バカみてぇに訴える姿は滑稽だね。相手が俺ならいくらでも媚びへつらうってか。ヘドが出る。
子供や赤子も、何人かいた。
だがその子らは、生まれたときから神殺しの呪詛を聞かされて育っている。そんな子守唄を聞いた子供が、将来は『敵』になるなんてわかりきったこと。
だから殺した。それだけ。
赤 子や子供を手にかけてもなんとも思わなかったのに、諏訪に「大っ嫌い」と憎悪を向けられたら心が痛んだ。
どうやら俺の心は、そうとう都合よくできているらしかった。
「……バカじゃねぇの」
諏訪ではない、俺が。
あいつと仲良くなれるなんて幻想だ。
あの子は純粋で慈悲深い。優しい神だ。
そんな神に、卑怯者の俺を受け入れてもらおうなんてムシがよすぎる。
あの子を突き放したい一方で、俺を受け入れて欲しいと、心が相反する。
こんな救いようもない、みずから道を踏み外すような卑怯者に、
そんな優しい望みが叶えられるなんて
あるはずないのにさ。
我が家の風神雷神は仲良くなるまでがひっじょーに長い道のりたどっています。このお話はそのひとつです。