合わせ鏡の魔術師 -8-
ひゅっ、と風を斬る音を伴いながら鞘から剣が抜かれた。
シャルフは低い姿勢で、一気に青年との距離を詰める。僅か数メートルしか離れていなかった青年はすぐに間合いに入り、次に、右手に握られた剣が、逆袈裟に青年を斬り上げた。
「っ!」
しかし、手応えはない。
青年は切っ先が紙一重で届かない位置から、穏やかな微笑を浮かべたままシャルフを見据えている。
――――避けられた?
だが、考えるよりも早く、シャルフから次の一手が繰り出される。シャルフは更に一歩踏み出し、再度青年を間合いに捉えると、瞬時に剣を袈裟に斬り下ろす。
この間一瞬、瞬きすら許さない速さで刃が閃いた。
「!?」
またも手応えはない。
シャルフの顔に、確かな動揺が浮かぶ。
それは避けられたことに対するものではない。
刃が青年のいる場所を薙いだその瞬間に――――青年が“消えた”のだ。
ほんの一瞬。
しかし、見紛うことなく。
ふっ、と消えたかと思うと、瞬時に切っ先が触れない位置に、あたかも最初からその場所にいたかのように、穏やかな微笑をこちらに向けて立っていたのだ。
動揺を隠しきれないシャルフに対し、青年は口の端を僅かに吊り上げた。
そして。
ふっ――――
再度、消えた。
「しまっ……!」
遅かった。
シャルフの懐に潜り込んだ青年は、吐息が掛かりそうなほどの至近距離から、シャルフを見上げていた。
青年からは先程までの穏やかな微笑は嘘のように消え、刺すように鋭く冷酷な瞳がシャルフを映している。
そして右手をシャルフの胸元へかざし――――紫の瞳が、嗤う。
「君は、邪魔だよ」
刹那、シャルフの身体が宙を舞った。
「っ……!」
とてつもない風圧が、まるで見えない鉛球のようにシャルフに激突した。両腕を顔の前で交差させて申し訳程度の防御行動を取るが、そんなものが意味をなすはずもなく。
宙に躍るシャルフは、為す術もなく背中から壁に激突した。
「「シャルフ……!」」
セアとルーウェントが、同時に叫ぶ。
「……お、のれ……」
身体を強く壁に打ちつけたシャルフの口から、つう、と赤い雫が伝う。それを見ていたルーウェントの顔から血の気が引いた。
「セア、シャルフを……!」
「は、はい!」
頷いたセアがシャルフへと駆け寄る。
「大丈夫ですか、シャルフ……今、治癒術を……」
なおも立ち上がろうとするシャルフを制し、隣に膝を折ったセアが治癒術を詠み始める。
「<大いなる生命の恵み、此処へ……>」
セアの身体が淡い光を発し、それは翳された手からシャルフを包むように広がってゆく。
「う、……っ」
全身の骨を砕かれたような激しい衝撃を受け、多少の治癒術ではまだ躯が言うことを聞かない。だが、それでも黄金の目だけは鋭さを失わず、ギラギラとたぎる殺意を溢れさせながら青年を睨み付けていた。
「ふぅん……そういうこと」
自身を睨み付けてくるシャルフを冷たく見下ろしながら、青年は呟いた。
「衣服に、魔法障壁を掛けていたんだね。それも結構強いみたいだ」
そして、「生きてなくてよかったのに」冷酷にそう付け加える。
魔法障壁とは、その名の通り魔術を受けた場合にその被害を軽減させるためのものだ。聖堂騎士など危険に身を投じる可能性の高い者は、シャルフのように衣服自体に魔法障壁を施してあることも決して珍しくないのだ。
「まあいいや。彼が眠らなかった理由も分かったし」
興味を失ったようにシャルフから視線を外し、改めてルーウェントと向き合う。ルーウェントは、まだ幼いその目に恐怖と緊張を滲ませながらも、凛として青年と対峙する。
青年はそんなルーウェントにふっと笑みを浮かべると一歩目を踏み出した。
「……それ以上近付くと、容赦致しません」
だが青年は忠告を無視し、二歩目を踏み出す。
「イリオス聖教――――つまりは、聖教会を統べる法皇にして、世の絶対的指導者。その言葉は天をも貫き、大地を震わせるとも言われている」
こつ、と靴音が響く。
そして青年は三歩目を踏み出しながら、続けた。
「それが、ルーウェント=ブラオヴィント――――君ってわけだ」
こつ、と三度目の靴音が響いた。
同時に。
「――――!」
ルーウェントの眼前に青年が“現れて”いた。
手を伸ばせば容易く届く距離で、微笑を浮かべた青年がルーウェントを見下ろしていた。
「あ……」
思わず後退りそうになったが、恐怖のせいか足が動かない。
「……ルーウェント、様……っ!」
シャルフが立ち上がろうとするが、強力な一撃を受けた身体は一向に言うことを聞かない。
「わたしが……!」
その隣で治癒術を詠んでいたセアが立ち上がり、青年をきっ、と見据えた。
「<唸れ、焔、舞え、浄火>!」
セアが魔術を詠むと、その正面に赤い光で描かれた魔法陣が出現し、更にその魔法陣からは焔が壮絶な唸りを上げて具現化し、青年を襲う。
だが。
「な、どうして……!?」
焔は青年に届く前に、見えない壁に阻まれたかのように、ことごとく打ち消された。
そしてセアには見向きもせずにルーウェントを見下ろす青年の目は、先程の鋭利な冷酷さではなく、鈍く虚ろな光を宿していた。
冥府を体現するような、深く、昏く、絶望的な光を。
「君は、どんな絶望を聴かせてくれるの――――?」
青年の右手が、ゆっくりと、ルーウェントへと伸ばされる。その間もルーウェントは動けないまま、何かの暗示に掛けられたように青年の手の動きを視線で追っていた。
それはルーウェントの額の前で止まり、鈍い光が集まり始め、そして――――
――――キィン。




