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TESTAMENT  作者: 氷蒼シキ
第四章
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禁じられたソレムニス -16-

 扉に触れたヴァイの手が、ぴたり、と停止した。しかしそれは数瞬で、ヴァイは厳しい表情のまま、声のした方を見上げることもせずに、中断された行動を改めて再開する。

 その方向に目線を向けても、ザインがいないことを理解しているからだ。

 両開きの扉、その片方を押し開く。合わせ目に生じた隙間から流れ出る、異質な空気。冷ややかながらも、凛と冴えた清らかさを含んだ空気は、圧縮され押し込められていた場所から解放されたかのように、一気に拡散を始めた。同時に、嘔吐感さえ込み上げそうな強烈な血と脂の匂いが希釈され、後方へと連れて行かれる。

 室内の空気はどこか重々しく、密度が高いようにも感じられるのは、部屋の床に刻まれた例の魔法陣のせいだろう。

 前回は感じる余裕のなかったそれらに頬を撫でられつつ、正面の視界が展けるまで扉を押し開け、そして手を止めた。

 床に刻まれた、恐ろしく複雑な魔法陣。そこからゆっくりと目線を上げていくと、正面の高い位置に並ぶ三つの窓が、燭台すらない室内の、唯一の採光手段として設えられている。

 ザインの姿はない。

 ブーツの底が硬質な床を叩く音を伴いながら、ヴァイは室内へと踏み入った。魔法陣から発せられる魔力を帯びた空気がずっしりと圧し掛かるのを感じながら、その双眸は刃物のように鋭く、ただ一点を睨み付けている。

 こつ、と部屋の中央よりも手前で足を止めた。後方、更に少し下がった場所にシュネイが立った気配。

 そしてもう一つの、警戒を滲ませた足音に、ヴァイは背を向けたまま言った。

「貴様は来ない方が良い。やる事もあるのだろう」

「あ、ああ……」

 極めて平静を装っているつもりだったが、言葉の端々にはレーヴェに向けたものではない薄暗い怒気と、幾らかの焦りに近い音色を孕んでいるのが自分でも分かった。

 僅かにたじろいだ声と共に、レーヴェの足音が止まった。

 だがそれを許すまいと降って来たのは、あの声だ。


「――――折角だから見せてあげたら? 彼にもさ」


 愉しげに(ワラ)うような、それでいて背筋を撫で上げるような強烈な悪意を含んだ声。それは、ぞわり、と心に薄く広がり、全身の神経を強張らせる。声と表現するには余りにも曖昧で、しかし余りにも鮮烈に鼓膜へと届くそれは、まるで脳に直接語りかけて来られたような錯覚にさえ陥る。

「……出て来い」

 何かを必死で怺えるように、低く押し殺してようやく出た言葉だった。次の瞬間、それに応えるかのように、ヴァイの正面の空間がぼんやりと歪み始める。

 窓から入る月影だけの薄闇の中、正面奥の壁が水で溶かしたように不鮮明に滲み、その所々には飛散した黒インクに穿たれたかのように暗い染みが落ちた。染みは次第に濃度と体積を増してゆく。

 いや、正確には今まさに実体化しようとしているザインの姿によって、その部分の景色が人型に遮られているのだ。ザインの纏う黒の魔導着が染みのように空間を穿ち、やがてヴァイと同じ色の長髪がさらりと揺れた。輪郭だけがぼんやりと滲んだまま、その姿が形成されてゆく。

 数秒と待たずに“実体化”したザインは、優美とも言える動作で爪先から床に降り立った。

 気付けば輪郭の歪みは消え失せ、一人の人物がただ静かに佇む光景が作り上げられていた。

 ヴァイと対峙したザインは、愉しげに口の端を持ち上げ、子供を思わせる無邪気さと、それ故の残酷さを持ち合わせた薄い嗤いを浮かべている。

「やだなあ、怖い顔して。彼には知る権利があると思ったんだけどな」

 さも不思議そうに首を傾げ、まるで友人にでも話し掛けるような気さくさで微笑むザイン。対するヴァイは真反対の、今にも噛み付かんとする凶悪な目で睨み返している。

「率直に言う。……戻れ」

 次々と湧き上がる獰猛な殺意を辛うじて抑え込み、先程よりも更に低く低く、空気を搾り出すように唸る。その殺意を全身に浴びせられても、ザインは柔らかな微笑を崩さない。

「僕の答え、分かって言ってるよね」

「…………」

 沈黙で応えるヴァイに、ザインはその表情から一転、底冷えするようなどす黒い悪意を宿した目を向け、挑発的に片方の口の端を吊り上げた。

「君の方こそ、そろそろ認めたら? もう気付いてるよね。君の中に渦巻いている今にも爆発しそうなその殺意も憎悪も全て、僕に対するものではないって事に」

 どくん、と心臓が脈打った。

 心の内を見透かすような視線に、正視するのが躊躇われた。だがそれ以上にヴァイは動揺し、ザインの言葉を否定するために返す言葉さえ見つけられずにいた。

 すると、つい、と睨み合っていたザインの視線が外れた。不審に思ったヴァイだが、ヴァイを通り過ぎてやや下方を向いた視線の先にある物は何か、すぐに察した。

「あんな殺し方、君らしくないもんね。だいぶ同化が進んじゃったかな」

 無邪気な悪意が嗤う。

 弾むように、高い位置で束ねられた銀髪が揺れた。

 奥歯を強く噛み締めたヴァイの、その足元に魔法陣が刻まれ始める。しかし構うことなく、とても愉しそうに、とても嬉しそうにザインは語り掛ける。

「憎いよね。許せないよね。消し去ってしまいたいよね。だから今君は――――」

「黙れ」

 怒りも顕わな唸り声と共に、瞬く間に完成した魔法陣が光を宿す。

 直後、その魔法陣から幾つもの小型の闇色の塊が出現した。その塊は魔法陣の中心に立つヴァイの姿を覆わんばかりの数で、良く見れば鳥のようにも見える。闇色の鳥達は垂直に天井近くまで上昇すると、更に勢いを増してザインへ向けて一斉に突進を開始した。

 それらを無防備に浴びてしまえば、肉片すら残さず食い尽くされるのではと思える数と、気迫。しかしザインは困った子供を相手にするように小さく息を吐くと、自身の正面に魔法陣を展開した。その魔法陣からはヴァイのものと同じ形の闇色が出現し、向かってくる鳥達を次々と迎撃する。

 同じ色と姿をした鳥と鳥が勢いに任せて衝突し、薄い闇色の靄に変わりながら消滅してゆく。やがて最後の一羽が衝突すると、ゆらゆらと揺れる靄を残し、空間が沈黙した。

 ヴァイは靄の向こうにぼんやりとザインの輪郭を見ながら、荒くなった呼吸を整えるように大きく息を吐いた。しかし、ザインの言葉を否定できなかったことへの苛立ちと自らへの嫌悪は、少しも軽くはならなかった。それでも拒絶を示す手段と意志が残っていたことの方が、ヴァイには重要だった。

 両者の間に広がる靄はゆっくりと蒸発するようにして、互いの表情が確認できるまでに濃度を下げていた。

 ザインは悪意に満ちた目を細め、

「楽しかったんでしょう?」

 ふふ、と小さな嗤いを漏らしながら、中断された台詞の続きを口にした。

 ザインのうっとりとした滑らかな声に誘われるように、騎士二人を殺した感覚が甦る。

 それは今まで幾度も感じてきた罪悪や後悔、そういった背徳的な感情では決してなかった。

 いや、それらに隠れていただけで、ずっと感じてはいたのだ。

 聖教会へ対する深い憎悪を発散する満足感、爽快感、達成感。それらは極めて無意識に近い場所に、意識すれば忘れてしまえるような場所に、確かにずっと燻り続けていた。

 気付かない振りをしていただけだ。

 自分にそのような感情がほんの僅かでも芽生えていたことが恐ろしくて、目を背けていたのだ。

 そして今、遂にその事実を直視させられ、それらの感情とザインの言葉が合致した瞬間、背筋を氷のような悪寒が駆け上がった。

「――――っ!」

 思わず腕を抱え込む。

 その様子を見ていたザインが、柔らかく目を細めた。

「ねえ、分かったでしょう? 今まで僕がやってきたこと、それは全て“君が望んだ”ことなんだよ」

 ヴァイはその言葉に弾かれたように顔を上げ、見た事のないほど明確で苛烈な怒りを湛えた目でザインを睨みながら、再び魔術を詠んだ。ぎり、と奥歯を噛み締める音が今にも聞こえそうな中で、先とは異なる色の魔法陣が形成され、ザインの足元が白く霞む。その冷気を発端にしてザインの周囲がぴしぴしと、短く空間を裂くような音を立てて氷結してゆく。

 だがそれは、ザインを包むような薄い炎によって呆気なく解かされ、昇華した。微細な火の粉がちらちらと舞っている。

 ザインを拒絶することはできても、否定することができない。しかし、認めてしまえば自分すら失いそうで、拒絶し続けるしか自分を保つ手段も自信もない。

 ヴァイは細く荒い呼吸を繰り返しながら、今にも限界を超えて溢れ出してしまいそうな、恐ろしい感情を必死で圧し返していた。

「もう諦めなよ。それは全て、最初から君が持っていたものなんだから。僕が持つには、相応しくない」

 言い聞かせるザインの声は、甘く優しい。

 睨み返すヴァイを諭すように微笑み、右手を自身の胸に当てた。

「だって僕は、君の≪遺物(レリック)≫に過ぎないんだから」






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