禁じられたソレムニス -15-
先頭のレーヴェが細く扉を開き、迷わず身体を滑り込ませる。ヴァイとシュネイがそれに続き、同じように身体を滑り込ませると、隙間から外を警戒していたレーヴェがすぐさま扉を閉めた。
三人は扉を背に、特に役割を決めていた訳でもなくそれぞれ別方向を、息を潜めて警戒した。押し殺された息遣いと、それによって微かに上下する肺が引き起こす布擦れの音が、澱んで沈殿した静謐を撫でるように破り、酷く大きく耳に障った。
人の気配はない。
ひっそりと空間に満ちた、どこか不気味で不自然な静謐の中、誰からともなく戦闘態勢を緩めた。決して歓迎されているとは思い難い雰囲気の中で、ヴァイはようやく落ち着いて呼吸をしたような気がした。同時に、視覚と聴覚に極端に偏っていた他の五感が戻って来る。
冷えた外気から遮断され、大聖堂内部の人工的な生温かさを孕んだ空気が皮膚に触れ、肺を膨らませた。そこに僅かに混じる、ヴァイの魔力の≪遺物≫。
侵入までは、まずまず順調のようだ。
ヴァイは一言も発さないまま、等間隔に燭台の並んだ廊下の先を顎で示す。そして先陣を切って進み始めた。シュネイ、そしてレーヴェも無言でそれに従う。
ぴりぴりと肌に刺さる、殺伐とした緊張感。口の中は乾き、無意識の内に呼吸も浅く速くなっている。それに背中を押されるように、足音を殺すため絨毯の上を進む足は速度を上げたが、廊下が交わる度、角に差し掛かる度にもどかしく止まった。息を殺して先を確認し、また次の角へ。同じことを幾度か繰り返した。
三人を阻むはずの衛兵達は今、意識を失って倒れている。
ヴァイの仕業だ。
正面切って突入する訳にもいかないので、以前のザインに――――不本意ながらも倣い、先手を打つことにしたのだ。
大聖堂は建物自体に強力な魔法障壁が施されているため、多少の魔術は使用しても察知されにくい。障壁は魔術そのものの影響を軽減すると同時に、副作用的に術者の魔力の拡散を阻んでしまう。それを利用し、必要な範囲に魔術で働きかけたのだ。
命を奪うほどの魔術は気付かれるだろうし、そうするつもりもないので、気を失って貰うことにした。
だが、魔術が強過ぎてしまえば障壁を超えて魔力が漏洩してしまうし、逆に弱過ぎてしまえば、騎士服にも障壁を施してある聖堂騎士はすぐに目覚めてしまうだろう。
力加減は難しいが、絶妙なヴァイの魔術は狙い通りに効果を発揮していた。
「こっちで合ってるのか?」
限界まで潜められたレーヴェの声に、ヴァイは振り向かずに頷いてから、
「道はほぼ真っすぐだった。それに、あの部屋の魔力を感じる」
囁くように言った。
障壁でも隠しきれない強力な魔力は、奥へと進むにつれ近く強くなっていた。空気と混じって肌に触れるそれは、強力ながらもやはり心地良さを憶える、柔らかい魔力だった。
「ザインは……?」
続けて訊ねるレーヴェの口から出た名前は、険しかったヴァイの表情を更に険しくさせた。
「……気配はずっとある。だが、実体化していないのだろう、はっきりとした“個体”は分からん」
恐らく、正確にはレーヴェに伝わらないだろうと思ったが、それ以上の表現をする余裕もなく、最も簡潔な言葉に止まった。
「あの角を曲がった先だな」
誰に言うでもなく、ヴァイは囁いた。
シュネイは魔力で分かっていただろうが、その言葉でレーヴェが堅く身構える気配が空気を通して伝わった。
最後の角に身を潜め、慎重に先を覗き込む。
小さな燭台が照らす下、衛兵と思われる二つの塊が確認できた。
しかしそこに蔓延る小さな違和感に、過敏になった神経が警鐘のように反応した。ぼんやりと翳った灯りの中に、目を凝らす。はっきりとは聞き取れない奇妙な音が、鼓膜を震わせた。
巨大な扉の前、床に伏している二人の衛兵。じっと様子を窺っていると、その片方が悶えるように揺れていた。奇妙な音もそこが発生源で、それが呻き声なのだとようやく理解した。
理解するや否や、ヴァイは舌打ちしたい衝動に駆られた。
魔術の効きが甘かったのだ。
だが騎士が起き上がる気配はない。
ヴァイは半分ほど振り返り、背後の二人を見た。二人とも人の気配には気付いているだろう。そしてヴァイは何も言わないまま、大股に廊下へ踏み出し、扉の前に倒れている騎士へと大股で近付く。
「!」
驚いた様子のレーヴェはナイフに片手を添えて、特に表情の変わらないシュネイも右腿のホルスターに手を伸ばして、すぐさま後を追った。扉までの短い距離の中でその差はあっと言う間に詰まり、呻く騎士の傍でそれを見下ろすヴァイの、すぐ後ろに二つの気配が立った。
「…………」
騎士は完全には魔術が効いておらず、朦朧として焦点の合っていない目がヴァイに向けられていた。向けられてはいるが、ヴァイを認識しているかどうかは危うい。半分ほど開いた口からは涎と、途切れ途切れで決して言葉とは呼べない、動物じみた低い呻きが苦しげに漏れている。
「……どうする?」
殺意の滲むレーヴェの声。ヴァイがちらと目線を向けると、鈍く光るナイフの刃が見えた。
しかしヴァイはそれを右手で制した。そしてレーヴェが抗議の声を上げるより先に、足元に魔法陣が形成され始める。その行動が予想外だったのか、レーヴェは一瞬目を見開いた後、大人しくナイフを仕舞った。
「<抱擁を>」
短い詠唱を合図に、球形の何かが騎士を包むように囲い込む。球体の中は、黒とも紫ともつかない闇色の膜を通している所為で、騎士の輪郭さえも不明瞭になっていた。その中には騎士の他に、小さな花弁のような、濃い闇色をした何かが舞うように蠢いている。
目を凝らす暇も与えず、ヴァイは続けた。
「――――<裂け>」
静かな詠唱。直後。
薄い闇色の膜でできた球体は、一気に全体を赤く染め上げた。勢い良く噴き出した血液が、膜に阻まれて行き場を失い、球体の内側に別の膜となってべっとりと張り付いている。その隙間をよく見ると、先程の小さな花弁が絶えず高速で飛び回り、それが肉を切り裂き、血を溢れさせていた。
だが大量の飛沫ですぐに中の様子は分からなくなり、血が膜に吹き付ける衝撃と、それにより絶えず赤の濃度が模様を描くように変化する様だけが嫌でも中身を想像させた。
「……!」
ふと何かに気付いた様子のレーヴェが首を動かすと、もう一人の騎士も、同じく赤黒く変色した球体に姿を変えていた。
やがて球体は沈黙し、赤黒い膜は重力に従って上部の濃度を下げ始める。するとヴァイの足元から魔法陣がふっ、と消えた。すると弾かれたように球体も消滅し、限られた空間から解放された大量の血が待っていたとばかりに、どろり、と溢れ出した。
本能的に拒絶したくなるような、強烈な血の匂い。
細かくなった肉片や、頭皮の一部と思われる毛の付いた皮膚、脂を光らせるぶよぶよとした何かの臓器。それらを緩やかに運びながら広がる血が、ヴァイのブーツに触れた。触れた途端、ブーツの輪郭をすいと伝う。
血と脂と、それ以外にも色々なものが混ざった匂いから逃れるように、手の甲で鼻と口を覆うレーヴェに、ヴァイは言う。
「すまない。こういう単純な術の方が、魔力の消耗が少ないんだ」
表情を変えずそれだけ言うと、粘液質な血をブーツの底で太い糸か何かのように引きながら、扉へと近付く。液体を踏み付ける音が、何度か鼓膜に届いた。
ヴァイは廊下の中央に敷かれた絨毯に真っ赤な足跡を刻みながら、扉の前に立った。両側から絨毯を挟むように広がり始めた二人分の血は、じわじわとその中央を目掛けて浸食し、間もなく一つに繋がろうとしている。
「…………」
数日前に来たばかりの場所、開けたばかりの扉を前に、ヴァイは一度呼吸を整えた。慣れない者が嗅いだなら、肺を引っ繰り返して吐き出したくなるような強烈な血の匂いさえ、些細なものだった。
大きく、しかし落ち着いて息を吐いた後、扉に触れる手に力を込めた。ぴったりと合わさっていた重厚で巨大な扉が、僅かにずれる。
更に体重をかけ、一気に扉を押し開く。
その直前に。
「――――楽しかった?」
直接心を撫でるような声が、心を見透かして嗤うような声が、頭上から降ってきた。




