禁じられたソレムニス -11-
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この夜も、闇を払うには不十分な蝋燭の炎が揺れる部屋で、人知れず二人の会話は行われていた。
そこはかとなく不安を煽られるのは、随分と短くなった蝋燭の炎が不規則に揺らめくせいか、狭い部屋を満たすまるで古書から漂うようなじっとりとした湿気と黴臭さを帯びた闇のせいか。
はたまた怪しげな笑みを湛えたこの男が纏う、陰鬱ながらも剣呑とした空気のせいだろうか。
『――――もう一人は、ルーウェント様の命を狙っていた魔術師と異様なまでにそっくりな魔術師でした』
「…………」
男は、先日受けた報告を何度か頭の中で反芻した。そして椅子の肘掛に頬杖を突いたまま、年齢を感じさせる深い皺の寄った口の端を愉快げに持ち上げる。
「その魔術師の狙いは法皇か。それならば再び現れてくれれば話が早いのだがな」
くく、とくぐもった嘲いを漏らす表情は、濃い闇に溶かされながらも愉しげに歪んでいるであろうことが容易に想像できた。
「……大司教」
こちらも先日と同じように傍らに控えていた人物が、躊躇い混じりながらも咎めるような口調で呼び掛けた。
「おっと、軽率だったかな」
大司教と呼ばれた男は不快に思う素振りも見せず再び、くく、と喉を鳴らす。演技じみた仕種は、強い余裕の現れにさえ見える。
「魔術師の男は、少数もしくは単独で大聖堂内部に侵入できるだけの魔力の持ち主と推測できます。お言葉ですが、早急に対策を練るべきかと……」
「分かっている」
足を組み直す気配と共に、大司教が言葉の先を遮った。
「お前の言うように、その魔術師が厄介な存在であることは間違いないだろう。そして最も納得がいかぬのは、聖教会の外部にそれだけの魔力を持つ者が未だに、しかも複数いたということだ。何故これまで野放しになっていたのだ?」
細く獰猛な目が、揺れる炎を睨む。
聖教会は古くから有能な魔術師とその家系を取り込み、支配下に置くことで内部の力を高めてきた。もちろん国の頂点に立つ王族などは直接的に組み込むことは不可能であったが、それでも聖教会の信徒となるよう言葉巧みに誘い込み、現在では一部の例外を除き盲目的に信仰するまでとなっている。
その真の目的は早々に脅威となりうる存在の芽を摘み取ることにあり、数百年も前から行われていたそれは完遂されて久しいはずなのだ。また今回のように突出した魔力の持ち主であると疑われる血統は最優先で監視されており、網の目をくぐったとは聊か考え難い。
「……まあよい。あいつの言っていた内容が事実であれば、じきに捕えることもできるだろう」
僅かに思考を巡らせる素振りを見せていた大司教だったが、存外あっさりとそれを放棄したらしい。しかし言葉の真意を汲み取りかねた人物が怪訝そうな声を漏らした。
「それは一体どういった……」
「すぐに分かる。それよりもお前は、私の留守中に予定通り事を進めておけ。そろそろ小僧には舞台から降りてもらわねばな」
愉しげな笑いを堪えているのが、言葉の端々から伝わった。見えるはずのない未来を見ている大司教には、傍らの人物が僅かに顔を背けたことに気付く余地はなかった。
「……御意」
――――コンコン。
突如、二人の会話を見計らったかのように重苦しい闇を震わせたのは、二度の軽いノック。
控えめなノックであることは容易に伝わってきたが、しんと静まり返った真夜中の大聖堂全体に響き渡ったのではないかと錯覚しそうなほど鮮烈に耳に届いた。
「入れ」
大司教は扉に向かい、短く言い放った。まるで扉の向こうに立つ相手が誰なのか、あらかじめ理解しているような態度だ。
「失礼します」
消え入りそうな声と共に、人ひとりがようやくすり抜けられる程度に扉が開かれる。
室内に満ちていた古書よろしい独特の匂いと湿気が、冷えた外気によって、すっ、と濃度を下げた。それが肺の中に溜まった鬱陶しく湿った空気を心地よく追い出すと同時に、隙間から侵入する異なる種類の闇によって、心許ない明度が更に奪い去られてゆく。
そしてその闇の表面を滑るように、人影 “するり”と扉の隙間から侵入した。存在感では圧倒的に闇に気圧されてしまっている小さな人影は、丁寧な動作で扉を閉めると椅子に座る大司教へと恭しく頭を垂れた。
「待っていたぞ、ルイーネ」
二つ結びの長髪を揺らしながら頭を上げたのは、この場所には到底似つかわしくない一人の少女。
弱々しい蝋燭の炎に照らされた表情からは緊張が窺えるが、少女らしい大きな目には一切の希望が排除されたかのような、奇妙な虚ろさが色濃く宿っていた。
酷く畏まった様子のルイーネは、小さな身体を更に小さくしている。
「そう硬くなるな。それで、どうだったのかね」
大司教は椅子に預けていた背を離し、執務机に身を乗り出した。すぐに応えようとしたルイーネだが、部屋の隅に同じく蝋燭によってぼんやりと照らし出される、もう一人の人物に気付いて口籠もる。
「あなたは……」
ルイーネは二人を見比べるように交互に視線を移動させ、先の発言を躊躇った。その様子に大司教は傍らの人物を横目に見やりながら、顎を持ち上げて先を促す。
「心配はいらん。こいつは私の手足のようなものだからな」
傍らの人物は表情も変えず、何も言わなかった。
予想外の人物の同席に多少の動揺を見せたルイーネだったが、すぐに元の虚ろな無表情に戻る。
「……では、改めてご報告を」
片手に携えていた報告書と思しき紙に目を落とすルイーネ。しかし数本の蝋燭のみという、光度の低い室内では内容を読み取ることは難しく、すぐに読むのを諦めて記憶していた報告書の内容を暗唱し始めた。
「先日の侵入者の≪遺物≫を調査、解析し研究所のデータと比較した結果、侵入者のうち一名が≪アノン≫の被験体であったことが判明しました」
「ほう」
期待通りの報告だったらしく、大司教は興味深げな声を漏らす。
暗がりで判読できない報告書の内容を思い出しながら、ルイーネは続ける。
「全ての被験体には、責任者であった私の両親によって盟約が施されています。≪遺物≫からはその痕跡が検出されました」
ここで一度、大司教の表情を窺う仕種を見せた。理由は本人によってすぐに述べられる。
「これは私の憶測になりますが……私が先日フーズムで見掛けた少女が、今回の侵入者の一人であると思われます」
ルイーネは手にした報告書を数枚めくり顔を近付けると、弱々しい明かりで確認して大司教へと差し出した。大司教は片手で受け取ると、机上の蝋燭に近付けてそこに添付されている少女の写真に目を落とす。
「私は両親の研究を継ぐため、何度も過去の資料に目を通しました。見間違えたとは思えません。なので一度、調査の機会を与えて頂きたく思います」
「…………」
しばらく無言で報告書に目を通していた大司教は傍らの人物を振り向きもせず、指だけを動かして隣へ来るよう命じた。そして脇まで来たことを気配だけで感じ取ると、手にした報告書をずいと差し出した。
「見ろ」
傍らの人物は光源から報告書を遠ざけぬよう、身を屈めた。長い髪がさらりと肩から零れる。そして写真を見るなり驚きを含んだ声を上げた。
「この少女は……」
「やはりお前が見た中にいたのだな?」
間近で大司教に問われ、慌てて姿勢を正す。
「はい。確信ではありませんが、とてもよく似ているように思います」
返答を確かめると、再び後方へ下がるよう片手で示した。そして床を叩く硬質な足音が止むなり机を挟んだ位置に立つルイーネを見上げ、怪しく目を光らせる。
「この被験体がどこへ行ったのか、見たのだったな」
「はい。同行していた若い男の魔術師と一緒に、ハーフェン行きの船に乗ろうとしていたのを目撃しました」
大司教はその返答に満足げに、そして極めて不敵に口元を持ち上げ大きく頷いて見せた。
「ならば好都合だな」
「好都合?」
鸚鵡返しの疑問符に喉をくぐもらせる。
「ルイーネよ、お前は私と共にフォーゲルブルクに来い」
「私が、ですか?」
見開かれる少女の虚ろな目。
「調査の機会が欲しいのだろう? そしてもし本当に被験体であるならば、お前は大きな切り札を持っていることになるのだからな」
「あ……」
己の言わんとすることを理解した様子のルイーネを、ぎらぎらと光る目だけが見上げる。
「血族が途絶えるまで消滅することのない≪血の盟約≫がな」
その口元は快然とした笑みに歪んでいた。




