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TESTAMENT  作者: 氷蒼シキ
第四章
61/71

禁じられたソレムニス -8-

                 ◆


 異物が突き立てられた脇腹は、激しく熱を帯びていた。

 多量の出血と鼓動に倣った疼痛で朦朧とする意識を辛うじて繋ぎ止め、ただただ繰り返すのは限界近くまで浅くなった呼吸。酸素は得ているはずなのに次第に息苦しさは増し、それはすでに体力を消耗するだけの行為に成り下がっていた。

「…………」

 脇腹を貫く刃との接点を隠すように添えた手が触れる、まだ体温を孕んだ血の感触。触れた指先をぬるりと、あらぬ方向へ持って行かれる度に生じる生理的な不快感。

 狙いを逸らすために刃を握った左の掌は直接地面に触れさせることは憚られて、投げ出すような形で上を向いたままぱっくりと割れた肉を曝している。そこからも絶えず零れ落ちる、己の体温。

 一方では、つんと鼻腔を突いていた鉄錆び臭さはいつの間にか気にならなくなっていた。血の匂いに鼻が慣れてきたわけではなく、単純に五感の機能が低下しているのだとレーヴェはぼんやりと悟った。

 同時に、ゆっくりと死が手を伸ばしていることも理解した。けれど何故かそれはとても遠くに感じられ、実感は湧いては来ない。肉と刃の隙間から浸み出す血さえも、他人事のように思える。

 唯一その中で覚醒しているのが痛覚で、この痛みだけがレーヴェに現実と意識を繋ぎ止める楔となってずきずきと疼く。

 脇腹を穿つ熱に抗うこともできずにいると、じゃり、とブーツの底が地面を踏みつける音が聞こえた。

 音の正体は分かっている。だが身体を動かす余力などなく、目だけを可能な限り上へと向けた。それだけの仕種が、一気に死を引き寄せた気がする。

 ぼんやりと暗くなってきた視界でも、それは判別に困らなかった。月影を浴びて夜に浮かび上がる銀色の髪と、病的な白い肌。そこに纏った漆黒の魔導着。それらはまるで、冥府からの使いのように見えなくもない。

 一瞬だけヴァイと目が合ったような気がしたが、正確には分からない。その視線は今、レーヴェを貫く剣に向けられているからだ。

 何か言い訳でもしてやりたいが、その言葉が出て来ない。

「……お前は大丈夫そうだな」

 ヴァイは、レーヴェの隣でどうすることもできずにいたシュネイに声を掛けた。慌てたように首を縦に振る気配が何となくだが分かった。

「は、はいっ……でも師匠は……レーヴェさんは……」

 混乱し、今にも泣き出しそうな声でシュネイが言う。

 ヴァイはそれにひとつ頷いて見せると、再びレーヴェを見下ろした。

「オレだけ、しくじったみたいだな……」

 精一杯自嘲の笑みを浮かべたつもりだったが、もはや自分の表情がどうなっているかなど分かりはしない。

 じっ、とレーヴェを見下ろしていたヴァイは少しの間の後、遂に処遇を決めたらしい。

 そして、

「抜くぞ」

 たった一言。

 ヴァイの言葉に、隣に屈むシュネイが慌てるのが十分過ぎるほどに伝わってきた。

 しかし当のレーヴェは、自身も驚くほど冷静に事態を受け入れていた。

「……そう、してくれ」

 搾り出した声は、掠れていた。

 剣を抜けばどうなるか、想像するまでもない。しかしこのまま放置したところで、苦痛が長引くだけだ。

 それならば今すぐに、身を焼くようなこの苦痛から解放されたいと願ったのだ。

 治癒術にでも縋らなければ助かりようのない傷だ。いや、仮に治癒術師がいたところで、レーヴェは迷わずにこの道を選択しただろう。聖教会の力に頼って生き延びるなど、レーヴェにとっては死よりも耐え難いことなのだ。

 やがてヴァイは傍に膝を折ると、無言のまま剣の柄を握った。それに伴う僅かな振動が、恐ろしい激痛となってレーヴェの背筋を撫で上げる。

 思わず唇を噛んだ。

 だがヴァイは構う様子もなく柄を握る細い指に力を入れると、一呼吸だけ置いて、そして一気にそれを引き抜いた。

 躊躇いは、ない。

「――――――――っ!」

 思わず悲鳴が上がりそうになるのを、奥歯を噛み締めて必死に怺える。

 刃が身体の内側を引っ掻く度にびくびくと痙攣し、視界が白く弾けた。今にも身を引き裂かんとする灼熱の痛みが、全身を駆け巡る。

 半分ほど手放しかけた意識の隅で、何かが地面に転がる音がした。うっすらと涙の滲む視界が捉えたのは、刃を赤く染めた剣。

 それを見て、やっと解放されたのだと安堵さえ憶える。

 同時に、塞ぐものを失った傷口からは、どす黒い血が容赦なく溢れ始めた。レーヴェは喘ぐように口で息をしながら、隠すようにそこを押さえた。止まることを知らずに掌から逃げる、強烈な不快感を伴う油の滑りと血液の粘り。

「…………」

 だが剣を放り投げたヴァイは次に、血に染まったその手を無理矢理に払い除けた。今のレーヴェには抵抗するだけの力も残っておらず、麻痺した頭ではその行動が示す意味の理解はおろか、考えることさえも憚られる。

 オレのことは放っておいてくれ。

 目線だけでそう懇願するが、ヴァイには聞き入れられない。

 ヴァイは無言のままに自身の左手を傷口に近付ける。傷口に触れられたわけでもないのに反射的に身体が強張り、きつく目を閉じた。

 次の瞬間に感じたのは、瞼の向こうに走った光。

 恐る恐る目を開けると、ヴァイの手が傷口にかざされていて、傷口から際限無く流れ出していた血はその勢いを弱めていた。

 最初はそれだけの血液を失ったのだと思ったが、やがて気付いた。

 暗く朦朧としていた視界は徐々に鮮明になり、感覚を失っていた指先は触れている地面の温度を感じ取っている。次第に呼吸も落ち着きを取り戻し、現状を理解しようと思考が働き始めた。

 ふと目線を落とせば、自分を中心とした魔法陣が白い光を放ちながら浮かび上がっている。

 それはレーヴェが過去に見たどの魔法陣よりも大きく、最も緻密な――――魔術に疎いレーヴェでも普通ではないと察することができる――――ものだった。

 そしてまだ理解の追いつかない頭で、たった一つの可能性を口走った。

「……治癒、術?」

 乾いた独り言はヴァイの耳にもしっかりと届いていたらしく、意識は患部に集中させたまま応える。

「似たようなものだと思っておいてくれて良い」

 レーヴェの求める答えには遠い、かえって疑問を増やす言葉だった。まだ回転の遅い思考がぐるぐると巡る。治癒術以外に外傷を癒すことのできる魔術が存在するなど、聞いたことがない。

「っ、お前……!」

「黙れ」

 再度口を開いたレーヴェを、すかさずヴァイが制する。鋭く睨まれ、言葉の続きを空気と一緒に呑み込んだ。

 しかしレーヴェはこの魔術が何であるのかを更に問いたかったのではない。

 目に留まったのはヴァイの額にじわりと滲む汗と、苦しげな表情。

 魔法陣の大きさは、その魔術の消耗と比例することくらいはレーヴェも知っている。今の戦闘ですでに相当な体力を消耗していたはずだと言うのに、その上でこの魔術を使用するのは恐らく無謀なのだ。

「…………」

 まだ自分は何かを言いたそうな顔をしていたのだろう。再び釘を刺すようにヴァイが睨め付ける。そしてレーヴェの言わんとせんことを察したのか、僅かだが挑発的に口角を持ち上げて見せた。他人の心配よりも自分の心配をしろ、ということだろう。

 一段と生気を失ったヴァイの顔に、深く透き通った紫の目だけが燦爛とした奇妙な光を宿していた。

 身を屈めたヴァイを見下ろしているのはレーヴェのはずなのに、何故か自分が見下ろされ、威圧されているような気分になる。

 だがその瞳の奥底には、厭忌とも怯えともつかない揺らぎを見た、ような気がした。


 ………………






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