異教狩り -31-
ヴァイの見下ろす先で、聖教会への例外なき忠誠を誓い、強い狂気を持った騎士が静かに大地に横たわっていた。
激しい魔術の応酬は微かな残滓となり、代わりに戻ってきたのは耳を刺すような夜の静謐。戦闘の爪痕だけがくっきりと刻まれたそこに、取り残されたようにヴァイは立っていた。
ヴァイに浮かぶ、感情の読めない表情。蔑みでも憂いでもない、何とも形容しがたい表情が、足元の魔術師を瞰下している。
その脇を、穏やかさを取り戻した風が通り抜けた。
魔導着の裾が僅かに風に揺れ、すぐに元の場所に戻った。するとヴァイは緊張の糸を手放すかのように、一度だけ深く息を吐いた。
そして再度オルクスへと視線を向ける。
この男が理解できなかったように、ヴァイは自分の行動理念が誰かに理解されることはそうないと自覚しているし、それに特別問題を感じることもない。少なくとも聖教会の≪教会法規≫によって庇護されている今の世の中では、異分子は自分自身であると認識しているからだ。
だからといってそれに甘んじ続けていくつもりも、全てを認め、ましてや簡単に殺されてやるつもりなどヴァイには毛頭なかった。
「未だこのようなことを行っている連中に、正常な舵取りなどできはしない」
場を満たしていた沈黙を破り、低く、しかしはっきりとした口調で呟いた。言葉に出したところで何の意味もなさないことは、恐らく本人が一番理解しているだろう。
そしてヴァイは顔を上げ、視線だけで周囲を見渡す。そこに動くものが存在していないことを確認すると後方へと振り返った。
「……っ」
しかし大きな動作ではなくとも身体を動かしたためか、忘れていたはずの痛みが一斉に覚醒した。
ほとんど凝固した血で染まった左腕は冷たく、思うように力が入らない。全身に負った浅い裂傷はぴりぴりと鋭く痛み、それらに微かにヴァイの顔が顰められる。
だがすぐに平静を取り繕うと、転々と遺骸の転がる景色の中に視線を走らせた。
そしてすぐに見つけた。
地面にうずくまるようにして座るレーヴェと、それに寄り添うシュネイ。
一部始終を見ていたのだろう、ヴァイの視線が向けられたことに一瞬だかレーヴェの反応が遅れたのが分かった。
ヴァイの表情が苛立ちとも失態ともつかないものに変わる。しかし直後にレーヴェの身体を貫く剣の存在に気付くと、今にも舌打ちしそうに酷く不機嫌に目を細めた。
「…………」
レーヴェに向けていた視線を足元に戻し、何か思案するように口元に手を添える。
だがあっさりと答えは出たらしく、数秒と経たずに再び顔を上げた。そして二人の元へと一歩を踏み出そうとしたところで、小さな違和感に気が付いた。
二人の視線はヴァイを通り過ぎ、その背後へと向けられていたのだ。
「――――!」
咄嗟に振り返る。
そこにあったのは、ゆらり、と立ち上がり、血で汚れた口元を極端な三日月形に歪めたオルクスの姿。深く俯いているため、それ以上の表情は分からない。
やがて乱れた前髪で隠れていた顔がゆっくりと持ち上がり、ヴァイへの激しい憎悪と殺意を燃やすオルクスのそれと目が合った。
鬼気迫る形相に、たちまち空気に緊張が張り詰める。
ヴァイは迷わず魔術を詠んだ。エーテルの集束に比例して、構えた左手が淡い光を宿す。
構えから魔術の発現まで二秒とかからない、ごく短い時間、のはずだった。
――――――――!?
突如、世界が揺れた。
視界に飛び込んでくる景色が幾重にもぶれる。
たった今左手が宿していた光も、幻のようにすっと消え失せた。
両足に力を入れて踏み留まろうとするが、抵抗も空しく全身の力を失ったように膝から地面に崩れ落ちた。片膝を突き、呼吸は乱れて荒く息をする。
「あははっ、魔力の使いすぎですか? 無様ですねぇ」
それを見たオルクスが、嘲う。
しかし満身創痍であるのはどちらも同じで、震える両足が辛うじてオルクスを支えている状態だった。
強い苛立ちがヴァイに浮かぶ。それはオルクスに対するものではなく、自身の不甲斐なさに対してのものだった。
ヴァイが詠唱を用いていた理由は、二つ。
一つはオルクスが言ったように、目立たぬよう特異な行動を避けるため。
もう一つ、最大の理由は魔力の消耗を抑えるためだった。詠唱は時間を費やすが、術の安定度を高め術者の消耗を軽減することができる。それは魔力の安定しない今のヴァイにとって、事実なくてはならないものとなっていた。
それを省き無詠唱魔術を連続で用いた結果が、これだった。
ヴァイは首を持ち上げてオルクスを見上げた。どこまでも落ち着き払った態度が気に入らないのか、オルクスに強い不快の色が滲む。
「正常ですよ。我々も、この世界も」
狂気の溢れる目が、ヴァイを歪に映した。その言葉は陶酔しているかのようにうっとりと甘い。
「僕をこんなにしてくれた罪、軽くないですよ……ですから、そのまま死んじゃって下さい!」
ヴァイはここでようやくオルクスの手に握られた剣の存在に気付いた。戦闘の混乱でここまで弾き飛ばされていたのだろう。
もはや両者の立場の差は歴然だった。勝ち誇ったように口角を吊り上げ、剣が頭上高く掲げられた。
ヴァイは厳しく睨む目を逸らさず、しかし何もできぬまま、振り下ろされるそれを受け入れる。
「師匠!」
「ヴァイ!」
背後から飛んだ二人の叫びが、どこか遠くに聞こえた。
オルクスも何らかの言葉を発しているが、ヴァイにその音は届いていなかった。
視覚以外の五感が全て麻痺したように、音も匂いも肌に触れる空気の温度も、その一切が世界から排除されていた。
一秒一秒を切り取ったように、ひどく緩慢に流れる時間。
満足な呼吸すら許されず、溺れるような息苦しさに景色が霞む。
何の抵抗もできぬまま、まるで日食のように視界が濃い翳に覆われると、やがて世界が完全に暗転した。
「――――――――!」
誰の叫びか、何の音か、それさえ判断できない音が空気を震わせた、気がした。
直後、ヴァイの意識は真っ白に爆ぜた。
暗転した視界は鮮明に甦り、はっきりと醒めた五感がそれぞれの役割を取り戻す。
ひやりと肌を撫でる夜風と、それが運ぶ遠くの森の匂い。雲が晴れた月の、闇を切り取るくっきりとした輪郭。
先程までとはまるで別世界のような、奇妙な鮮明さがそこにあった。
そしてその中に確かに混じる、金属質な音。
キン、
と、冷たく澄み渡った金属音が、荘厳な鐘の音のように一帯の空気を鎮める。耳に残る余韻が、細く長く夜空に線を引いた。
その場にいる全員が、息を呑んだ。
ヴァイを深々と切り裂くはずだった刃は、寸前のところで受け止められていた。その右手には、逆手に抜かれた剣。
オルクスを見上げる目は無感情で、鏡のように風景を映し込んでいた。
「な、に……?」
もう動けないはずのヴァイの行動に、驚きを隠せないのはオルクスだった。愕然と見開かれた目が強い動揺を物語る。
剣を握るオルクスの腕に力が入るのが分かったが、剣が震えてぶつかり合う不規則な音が響くだけ。
それを嘲笑うかのように、顔の前で交差した二本の刃の向こうで、ヴァイの目が、嗤った。
「残念でした」
それはとても無邪気で、とても残酷な微笑。
ヴァイの纏う深い闇を体現したような空気に、一瞬にして周囲の温度が下がった。




