異教狩り -18-
◆
ぱたっ
ぱたたっ
大粒の雨が地面を叩くような音。
しかしそれは空からではなく、眼前の人物から零れ落ちていた。
ぱたっ
また一つ、廊下に敷かれた白い絨毯に真新しい染みを穿つ。
少年の目の前で、青い騎士は躯をくの字に折り、大きく目を見開いていた。
剣を握っていない方の手が、引っ掻くように胸元を押さえる。白かった手袋が見る見るうちに真っ赤に染め上げられてゆく。
騎士が小さく呻くと、口の端からつう、と一筋の赤い線が伝った。細く喘ぐような吐息が、苦しげに空気を震わせる。
そして騎士の命が今まさに蝕まれているその光景を、少年は戦慄の表情で見上げていた。
溢れる、赤。
滴り落ちる、血。
撃たれたのだ、騎士は。主君である少年を護るために。
騎士の纏う淡い青色をした制服が、胸元を中心にじわじわと赤く変色してゆく。長い上着の裾からは血が珠となって膨らみ、やがて重力に負けて床に落ちた。そして瞬く間に絨毯に溶け込む。こうしていつの間にか、騎士の足元では赤黒い水溜りがぽっかりと口を開けていた。
小さな主君は何が起きたのか、未だに理解できずにいた。いや、理解しようとしなかった。目の前の光景に五感は極限まで遠ざかり、周囲の音も何も届いていない。
青い騎士とそこから生まれる赤だけが、周囲から切り取られたかのように、静止しかけた思考に辛うじて入り込んでいる。
血の赤が、青いはずの騎士をじわじわと蝕んでゆく。滑るように落ちた血が、誰のものでもなく絨毯の上に花開いた。
大きく見開かれた少年の目には、単純にそれだけが映っている。
――――え?
呆然と見つめる光景は、霞みがかった夢のように現実味がない。
騎士に何が起きたのか。それを理解しようとするほどに少年の心が強い拒絶を生んだ。
認めたくない。認めてはいけない。拒んだところで現実は一切変わらないというのに、心が強く警鐘を鳴らす。
しかし、その拒絶こそが最短距離で一つの答えを導き出すこととなった。
――――死ぬ……?
停止した思考の淵に唐突に、漠然と湧いた言葉は、しかしそれ故に核心を突いていた。
死。
その一文字が頭を掠めた刹那、少年の顔から一瞬にして血の気が引いた。
騎士から流れる大量の鮮血。思い出したように嗅覚を襲う、濃い血の匂い。理解を拒絶していた理性が、嫌がる感情を無視して否応なしに現実を突きつける。
「――――――――っ!」
声にすらならない叫びが喉から溢れた。大きく見開かれた目から、途端に涙が零れる。拒絶と恐怖と後悔と、それ以上に激しい絶望が入り混じって、怒涛のごとく渦巻いていた。
何で? どうして?
錯乱した頭の中で、答えのない問いが意思とは関係なく反芻した。
どうして。
どうしてどうしてどうして。
流れ出る感情はもはや止まることを知らず、内側から少年を喰らい尽す。
やがて、束ねた長髪を残しながら騎士の身体が傾いだ時、少年の意識は爆発を起こしたかのように真っ白になった。
………………
◆ ◆ ◆
夜の闇を切り裂く轟音。
茶色の土肌を晒した道を、一台の馬車が駆け抜ける。
「それ、本当なんだろうな!?」
部分的に荒い道で跳ねた車輪が地面を叩くと同時に、レーヴェが叫んだ。切羽詰った表情で後方を振り返る。しかし手綱を握っているため、視線だけが肩より後ろを向いた程度だった。
「恐らくな。この方が色々と納得がいく」
一枚の布で隔てられた小さな荷台から、静かな返答がくる。レーヴェに聞かせる気があるのかないのか、ヴァイの言葉のほとんどは馬の蹄と車輪の音に掻き消された。
しかしレーヴェも最初から答えの分かっていた問いだったため、ヴァイの雰囲気で期待通りの返事だと察したようだ。
ヴァイに指摘されるまで気付かなかった自分自身に舌打ちすると、レーヴェは前方に集中した。
三人が向かう先は、クース。今回、≪異教狩り≫の標的となった村だ。
クースは、ハーフェンから北西に馬車で二時間ほど走った、少し森に入った場所にある。
レーヴェが捌いている馬車は、ギルドから傭兵向けに貸し出されている、使い込まれた――――悪く言えば古くなってあちこちが傷んだ――――小さな馬車だった。
最初にレーヴェは「転移魔術で行けないか」と訊ねたのだが、半ば呆れ顔をしたヴァイから「三人も運べば、俺が戦力外になるぞ」と溜息と共に返された。
仕方がないので、次にギルドから馬を借りようとしたのだが、
「乗ったこともない」
あっさりとヴァイに一蹴され、今に至る。
空には満月になろうかという大きな月が、晧々と輝きを放っている。時折車輪が小石を噛むほかは何の障害物もない、平地に延びる道を行くには十分な灯火だ。
少し前に大きな街道から脇の小道に入って道幅が狭くなったが、レーヴェは馴れた手つきで馬を操る。
クースまでの折り返し地点はとうに過ぎたはずだ。しかし、近付くほどに焦燥が募る。
まだ無事なのか。
まだ間に合うのか。
ひょっとすると、もう――――
「…………くっ!」
最後に浮かんだ考えを振り払うように、レーヴェは鞭を振った。そして少しでも早くクースに辿り着きたいもどかしさを抑えながら、手綱を握り続けていた。




