異教狩り -14-
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「ありがとうございました」
深々と頭を下げ、女性は心からの感謝を述べた。その先ではフュンフが安堵の表情を浮かべている。
「困った時はお互い様さ。それにお礼ならシュヴェート様に直接言った方がいいんじゃない? 俺はただ薬を届けに来ただけだし」
大したことはしていない、とフュンフ。
女性は頭を上げて振り返ると、夫の休んでいる寝室へと優しい眼差しを向けた。フュンフも同じ方向へと視線を動かす。
幸い男性は、処置が早かったこともあり、命に別状はなさそうだ。今はまだ眠っているが、じきに目を覚ますだろう。
「はい、もちろんそのつもりです。ですがあなたも恩人であることに変わりありませんから」
「恩人って、大袈裟だな……」
女性の言葉に困ったように頭を掻くフュンフ。照れ隠しのような仕種に、女性がふふっと笑みを零した。
夫が無事に助かりそうだと分かったためだろう、女性も随分落ち着きを取り戻したようだ。フュンフはこちらにも内心では胸を撫で下ろしていた。
「それじゃ、お大事にね。薬が足りそうになかったら、俺に連絡下さいな」
「分かりました」
「と、もしシュヴェート様に会うことがあったら、俺からも感謝してたって伝えとくよ。しばらく動けそうにもないでしょ?」
フュンフの申し出に、女性は再度頭を下げた。
「よろしくお願いします。本当にありがとうございました」
女性に見送られながら玄関をくぐると、フュンフは一人、安堵の息をついた。
そして大きな琥珀色の目を細め、
「……シュヴェート様、か」
女性との会話でも出てきた、ハーフェンの領主の名を口にする。
だがすぐに視界を上から下へと流れた何かで、思考が引き戻された。地面に落ちたそれが鳥の羽根だと理解するや否や、頭上から聞き慣れた羽音が降ってきた。反射的にフュンフが空を見上げると、建物によって切り取られた碧空に、一羽の鳥のシルエットが踊る。
「お帰り、エルド」
言いながら口元を緩めたフュンフが、右腕を軽く掲げる。するとエルドと呼ばれた鳥はそれを合図と受け取ったのか大きく頭上を旋回し、次にフュンフ目掛けて一直線に滑空を始めた。
風を切る気持ちのよい音と共に、徐々に大きくなるシルエットが的確にフュンフの腕を捉える。
「っと、ご苦労さん」
自身の腕に羽を休めたエルドを労わるように言葉を掛ける。フュンフが指で首筋を撫でてやると、白と鳶色の斑模様をしたエルドが僅かに目を細めた。
「悪いね、働かせっぱなしで」
言いながら、片方の足に付いている小さな金具から、筒状に丸められた小さな紙を取り出した。空いている方の手で、フュンフは器用に紙を広げてみせる。
現れたのは小さな紙に書かれた几帳面な文字。
「…………」
だが並べられた文字を追うフュンフの表情が、徐々に厳しいものとなってゆく。
全てに目を通すと、大きな溜息が一つ漏れた。
そしてもう一度空を見上げると、小さく呟いた。
「さて、どうするレーヴェ。恐らく今回の鍵を握るのは――――」
◆ ◆ ◆
「貴様、正気か?」
レーヴェから事の詳細を聞いたヴァイは、率直にそれだけを口にした。紫の目は鋭利に細められ、猜疑心を顕に正面に立つ男を窺っている。
対峙する二人を遠巻きに見守るのは、シュネイだ。両手を胸に当てて不安げに、しかし言葉を挟むことはできずに成行きを見届けている。
店の奥、居間に場所を移して話は続いていた。
表ではメイアに迷惑が掛かる上、堂々と話せる内容ではなかったからだ。メイアは店番があるのでここにはいないが、時折ドアの向こうから様子を気にしているようだった。
≪異教狩り≫を阻止すると言い出したレーヴェに、あからさまに不快感を示したのはヴァイだ。あまりにも馬鹿げていると感じたからだ。
結果は目に見えている。一体この男は何を考えているのか。もし一時の正義感や同情で阻止するなどと言っているのならば、愚かとしか言い様がない。
だがレーヴェの目に宿る意志を見る限り、決してそうではないことはヴァイにも理解できた。この男は己の信念の赴くままに行動している。
では何のために自ら危険のただ中へ身を投じようというのか。
進んで関わり合いになる必要はないと言い聞かせている反面、うっすらと事情に勘付いてしまったヴァイは、どうしても無関心でいることができずにいた。
「もちろん」
問いとは言えないヴァイの問いに、迷う素振りもなくレーヴェは応えた。文句があるのか、とでも言いたげな態度に、ヴァイの表情に不快の色が強まった。
ヴァイはわざとらしく腕を組み直すと、自分よりも背の高い相手を見下ろすように顎を上げる。
「相手は聖堂騎士団だ。一介の傭兵が一人で挑んだところで勝ち目はないと思うが」
抑揚なく、現実を突きつけるだけの言葉。それにはどこか呆れを含んでいるようにも聞こえる。
挑発とも取れるヴァイの傲慢な態度に、状況を見守るシュネイの緊張が高まるのが、空気を通して感じられた。
「分かってるよ、それくらい。でもほっとけば大勢が殺される」
ヴァイの言葉を切り捨てるように、レーヴェが睨み返す。その紅蓮の色をした瞳には、抑えきれない情動が覗いていた。恐らく本人は抑え込んでいるつもりなのだろうが、強すぎる感情は簡単に周囲に溢れ出す。歯を食い縛ろうが、無意味に等しい。
そしてレーヴェから溢れ出るそれは、ヴァイもよく知る感情だった。
最も身近で、最も認めたくない部類の、昏く澱んだ激情。
ヴァイがレーヴェのそれを認識した直後、ほんの一瞬、自分の中で何かがざわつくのを感じた。例えるなら、鏡のように張り詰めた水面に小さな波紋がたった一度、浮かんで消えたような。錯覚とも取れるような、しかし確実に乱れた、それ。
ヴァイは自身の微かな変化を悟られないよう、平静を装ってレーヴェを見据える。負けじと睨み返す紅蓮の瞳は、その感情を宿すのには相応しい色だと、下らない思考が頭を掠めた。
それらを追い払うように目を閉じる。
暗転する視界。
たっぷりと間を空け、瞼を持ち上げる。それと同時に、ヴァイは冷ややかに言い放った。
「――――それで?」
一言。
たった一言。レーヴェはその短い言葉を咀嚼するのに数瞬の時間を要したらしく、息を呑むのが分かった。だがすぐに、きっ、と敵意すら滲む目でヴァイを睨み返す。
「それでって、お前……!」
「この際、貴様自身がどうなろうと知ったことではない」
咄嗟に反論しようとしたレーヴェに、ヴァイが強引に言葉を被せる。噛み付くような視線にも一切怯んだ様子は見せず、醒めたような視線を静かにレーヴェへと向けた。




