ワイバーン
その日は、朝からどこか様子がおかしかった。
何がおかしいと訊かれても、答えられない。だが、娼婦たちは互いに顔を見合わせ、言い知れぬ不安に少なからず動揺と焦りを覚えた。
「今日は乾かないわね、空が暗すぎる。雨が降るかも」
洗濯をしながら、天候について語る。
いつもの光景なのに、なにかが違う。どこか、ぎくしゃくとした空気が流れていた。
そんな中、何気なく空を凝視したエミィは大口を開いた。
「ねぇ。……なんであんなに多くの鳥が飛んでいるの?」
エミィの一言に、洗濯物を干していた娼婦たちは弾かれたようにそちらを見やった。
絹の裂くような悲鳴が四方で上がる。
空が暗いのは、雲で覆われ陽の光が届かないからではない。夥しい数の鳥が空を埋め尽くしていた。
その気味の悪さに、多くの娼婦は混乱し騒然となる。
「みんな落ち着いて!」
誰かが叫ぶが、声は届かない。
「…………」
ガーベラは、冷静に空を見ていた。天変地異の前触れであれば、逃げても仕方がないのではと。
「どう思う、ニキ、エミィ」
「魔王は居なくなったのに、世界は安定しないね」
のんびりと、慌てた様子もなくニキは答える。
悪の根源魔王ミラボーを勇者が討ったという朗報は、港町カーツにも届いている。そして、各国で復興が始まったとも。だから最近船の出入りが激しく、港は賑わっていた。
それなのに、魔物はまだ活発だとも聞いている。
しかし、この街の、いや、娼館から出ていないガーベラにとって雲の上のような話だった。街が襲撃されない限り、外の世界は関係ない。
ここは、箱庭なのだ。
「私はここから出ないほうが良いと思う。闇雲に行動するほうが危険だわ」
「賛成。皆でこうしていたほうが安全よね」
ニキとエミィがそう答えたので、三人は顔を見合わせ微笑した。ガーベラも同意見だった。そもそも、何が起こるのか分からないのに何処へ逃げるというのだろう。
その時だった、遠くから怒鳴り声が聞こえてきたのは。
「みんなー! 市長の館へ避難だー! 緊急避難だー! 急げー!」
切羽詰まった声に、ガーベラとニキは顔を見合わせる。
「避難?」
ガーベラは瞳を細めた。
市長の館に行ったことはない。しかし、彼から話は聞いている。有事の際には、市民を地下へ避難させることになっていると。そこは強固な造りで、物資も十分あるから数日生きられると。
だが、「全員入る事は出来ないなぁ」とあっけらかんと話していた。
つまり、先着順、もしくは優先順位があるのだろう。
行ったところで、娼婦が入れてもらえる保証はないと率直に思った。例え、市長の女だとしても。
「ねぇ。……あれ、鳥じゃないよ」
言われた通り避難すべきか悩んでいると、エミィが掠れた声を出す。いつもの明るい生娘のような声ではなく、老婆と聞き間違える程にしわがれた声に肝が冷えた。
「なんだろう、あれ」
「もしかして、あれが魔物っていう生物じゃない?」
それは、小型の竜だった。正確にはワイバーンという。
初めて遭遇した異形に、三人は固唾を飲んだ。縋るように怖々と手を伸ばし、触れたものを握り締める。
「避難しましょう、荷物をまとめて!」
ガーベラが叫ぶと、三人は一目散に館へ飛び込んだ。そして、各々の部屋から大事な物を持ち出す。
護身用の小刀を持ち、動きやすい服装と靴に履き替え、邪魔にならないように長い髪を結う。
ガーベラは、仕舞っておいた竪琴を取り出した。
それは、ルクルーゼが死んでから数年後に届けられた、彼の竪琴だ。売れば金になったろうに、善人が拾ったのだろう。
竪琴に「僕の娼婦・歌姫ガーベラへ」と彫られていたので、売ることが出来なかっただけなのかもしれないが。
「……置いていくわ」
一瞬悩んだが、再び箱に仕舞う。
届けられてから、一度も弾いていない。それどころか、触れてもいない。
こんな形見より、本人が帰って来て欲しかった。
いや、勝手に行かないで欲しかった。
そんな辛い感情が甦って、苦しくなるので見るのも嫌だった。
ガーベラに、ルクルーゼの本心は届いていない。
「準備は出来た?」
三人は館を出て、懸命に走る。
「あんなものに体当たりされたら、娼館は一撃で崩れちゃう」
かといって、何処へ行けばよいのか分からない。周囲には、腰を抜かしてしゃがんでいる者や、右往左往している者で溢れている。
「市長の館へ行ったところで、入れない。彼が以前収容人数について話していたから、知っているの」
「なるほど。……私の客に、地下室を持ってる人がいる。ワインが貯蔵してあるって自慢げに話してた。そこへ行ってみない?」
「市長の館よりは良さそうね。上手くいけばワインを呑めるし」
三人は苦笑し、狭い路地を潜り抜け走り続けた。
未曽有の危機に人々はなすすべもなく、気が立っている。罵り合いながら我先にと急いでいる人々とぶつかった。
「おかあさぁぁぁんっ!」
子供が倒れたまま泣き叫んでいる。
親は何処へ行ったのだろうと思ったが、手を差し伸べる余裕はなく見過ごした。胸は痛むが、自分は善人ではないと言い訳をする。
殆どの住民は避難したのだと思っていたが、この人手を見るとそうでもないようだ。自宅で貴重品を手にしないと気がすまなかったのか、単に遅れたのか。
阿鼻叫喚の中、ガーベラは薄く笑った。人間は、極限状態になると滑稽だ。
けれども、何故自分はこうも落ち着いているのだろう。不思議と、余裕がある。
「うわああああああああああ来たぞー!」
絶叫に、立ち止まらないようにして振り返る。
一体のワイバーンが、すでに地上に降り立っていた。