「殺してくれ」
天界城は蜂の巣を突いたような騒ぎだった。
トビィが激昂して神クレロに詰め寄り、それをリョウが宥めている。トランシスは寝かされたままで、話を聞いているのか聞いていないのか分からない。ただ、気が触れたように「殺してくれ、殺してくれ」と叫んでいる。
マダーニが隣で、爪を噛みながら身体を揺らしている。ガーベラは冷静にこの場を見つめていた。
アサギが姿を消してから、十日ほどが経過している。
これまで騒ぎにならなかったのは、アサギが何か細工をしたのだろうとガーベラは思った。彼女になら、それが可能だ。
「何故、皆の記憶から自分を消さなかったの? 貴女なら出来たでしょうに。そうしたら、混乱することもなかった。彼だって、苦しまずに済んだかも」
アサギの能力を、ガーベラは知らない。ただ、『神より有能な勇者』だと、天界人が恐れていたのは知っている。人が思いつかないことを、平気でやってのけるらしい。
十日前には、『天界人の時間を止めている』と言った。神と同じように過去を垣間見ることも出来るという。ならば、記憶を消すことくらい造作もないことではと思ったのだ。
アサギの真意が読めず薄く微笑むと、訝ってこちらを見ていたマダーニと視線が交差する。やんわりと微笑み、視線を逸らした。
トランシスが眠っている寝台を見つめると、時折身体が揺れている。『アサギ』という単語に反応しているらしい。彼を看病しているクラフトが天界人から受け取った薬湯を飲ませようとしているが、拒絶していた。
「アサギが何処にもいないこと、クレロ様は御存じですか?」
凛としたリョウの声に、ガーベラはそちらを見た。この中で最も落ち着き払っているのは、アサギの友達である彼だろう。以前から他の勇者とは異なる雰囲気を持つ子だと思っていたが、どんな時でも機転が利く。
クレロが力なく首を横に振ると、天界人はざわめき出し、集結した仲間は暗い表情で項垂れる。
そろそろ自分に話が振られると思い、ガーベラは唇を噛んだ。
皆は思い違いをしている、クレロはアサギについて何もかも知っていると思い込んでいる。トランシスとの逢瀬を制限していたので、常に監視していたためだ。
だが、それはアサギの誕生日前日までのこと。それ以降、クレロはアサギについて何も知らない。もし一時でも盗み視ていたら、トランシスと別れて悲涙を流し続ける彼女の姿に愕然としただろうに。
この場所で、最も状況を把握しているのはガーベラだった。唄うために舞台に立つより、緊張している。
「アサギは、誰にも話さなかったのね。クレロから誕生日に貰った贈りものを」
話せるわけがないと、冷笑を浮かべる。クレロがアサギに贈ったものは『トランシスと制限なく逢える権利』だった。
トランシス本人に伝えられず、勿論仲間たちに話すこともなく、クレロにも本当の事を言わなかったのだろう。アサギは、馬鹿がつくほどの御人好しだ。
「どうせ私に遠慮したのでしょう? 別れたことをクレロに告げたら怒り狂って、トランシスを元の惑星に返すだろうから」
『さようなら、お幸せに』
トランシスとガーベラが相思相愛だと信じて疑わないアサギは、二人の邪魔をしてはいけないと身を引いたのだ。遣る瀬無くて前髪をかき上げていると、強張った表情のマダーニに手首を捕まれる。
「ガーベラ。貴女何か知っているの?」
「…………」
何から話そうか、どこまで話そうか。考えあぐねていると、クレロが切羽詰まった声を出す。
「整理する前に教えてくれ、アサギが行方不明とは本当のことか!? 何故だ、先日会った時は『彼と幸せに暮らしている』と言っていたぞ!?」
「先日とは何時のことだっ」
あぁやはり、アサギはクレロに嘘をついていたのだ。ガーベラは静かに溜息を吐き、目を血走らせているトビィを見やる。
トランシスに暴行を受けながらも、アサギは「幸せに暮らしている」などと言えるらしい。自分には出来ないことで、何故か笑えてきた。
一体、どんな気持ちでそんな言葉を告げたのだろう。
「僕が話します。正直に教えてください、クレロ様。十日以上前から、アサギは行方不明です。学校にも来ていません。館は勿論、地球の家にも戻っていません。望む事は一つだけ、貴方は過去を見る事が出来るのでしょう? アサギが何処へ消えたのか、調べてください」
リョウの発言に、ガーベラは拳を握る。アサギは計画的に消えたのだ。用意周到な彼女は、クレロにすら居場所を掴めないように仕組んだと思われる。
『もし……私がいなくなったことを誰かに訊かれたら、知らない振りをしてください。最後までご迷惑をおかけしますが、どうか、どうか、よろしくお願いいたします』
アサギの言葉が甦る。
意を決したガーベラはマダーニを押しのけ、寝台に横たわっているトランシスへ向かった。
「私は浅ましい娼婦。皆に愛される勇者様の男を寝取った、……歌姫を夢見るガーベラという女」
虚ろに呟き、瞳を閉じる。随分と長い間、娼婦だった自分を隠して生きていたような気がする。日数にしたら百二十日ほどだろうに、数年ここで過ごしていた気分だ。それ程までに、目まぐるしくて濃い日々が続いていたのだろう。
トビィとクレロの言い争いが続いているが、決定的な言葉が飛び出す。
「何故だ、私の決断が間違っていたのか!? 二人が暮らし始めたから、破局に繋がったのか? あぁ、やはり余計な事をしてしまったと!?」
動揺を隠せないクレロは、か細い声を出した。
「二人の仲を認めてはいけなかったのだ……」
その一声にトランシスが大きく瞳を開き、トビィとリョウが振り返る。
カツン、カツンと小気味よい音を立てて颯爽と歩き、ガーベラは上半身を起こしたトランシスを睨みつけた。冷淡な瞳で好いていた男を見下ろし、皮肉めいて口を歪める。
真っ赤な紅が、妖しく蠢く。
「どこまでも情けない男。あのアサギに釣り合うわけがない、私だってお断りよ」
怖気づく自分を抑え込み、気丈に振る舞うガーベラは最後の仕事だと腹を括った。
「酷い有様ね。アサギが消えたから死にたい、ですって? 本当に死にたかったのは、アサギでしょうに。愛する男に裏切られ、目の前で他の女を愛でるさまを延々と見せつけられた。あの小さな身体はボロ雑巾のよう。追い打ちをかけるように、貴方は何をしたのかしら。……その手であの子を痛めつけた、信じられない。外道よ」
その場にいる全員の瞳が、こちらに向いている。足を微かに震わせながらも、ガーベラは腹の底から声を張り上げた。
「アサギは、他の男に愛され幸せになったほうが良いわ。とてもいい子だもの、こんな男と不幸な恋をするには惜しい。あの子を待つ男は山ほどいる、その中には全てを受け止めて癒してくれる富豪だって存在するはずよ」
乾いた唇を濡らし、蔑みながら続ける。
「貴方に裏切られても、アサギはずっと待っていた。いつか戻るのではないかと、信じていた。戻ってこなくても、どんな仕打ちを受けたとしても、アサギは貴方を愛してた! それなのに、貴方は何? 食料を運んでいただけの女の嘘を信じ、誘惑に乗ってこの醜態」
チリチリと、胸が焼ける音がする。
衣服の下で揺れている、無理やり揃いにしたペンダントが焼けるように熱い。
「失敗だったわ、とてもつまらない男だった。時間の無駄よ、返して欲しい。アサギが貴方の事を褒めるから興味が沸いたけれど、何の価値もない。閨事も期待外れ、天国へ上るような絶頂なんて一度もなかった。独りよがりなただの放蕩、際立つ嗜虐性。よくもまぁ、幼いアサギに歪んだ欲望をぶつけられたわね。気が触れてるとしか思えない。このまま野垂れ死になさい、それがお似合いよ」
汗が吹き出る掌で衣服を掴むが、手が震えている。愛想は尽きた、どうしようもなく堕落した男は根性なしで、褒める点など一つもない。
それでも、ガーベラもまだこの男に情がある。
確かに愛していた、今も愛している。
綺麗な瞳が愛おしい、触れてくれる指先に心が蕩ける。
……私だって、愛しているわよ。アサギには負けるかもしれないけれど。
ガーベラは本心を言うことが出来ず、泣き笑いのように歪んだ表情を顔に貼りつけトランシスを見つめている。