■伝えたい想いを胸に秘め
正直、ガーベラはアサギのことが理解出来なかった。
最も不可解なのは、一度も怒っていないことだ。聖人は隣人を愛するらしいが、それもまた、容易に受け入れられるものではない。
人は誰だって、自分自身が可愛い。
他人を下げ、自分を上げる。自分にないものを持つ者が憎く、羨ましく、妬ましい。直接蹴落とす能力が自分にないと分かると、外堀を埋めて姑息な手段で叩き落す。
常に自分を、強く見せたい。
アサギにはそれがない。最初から恵まれた場所にいたが、他者を見下していたわけでもない。利口過ぎて完璧な女を演じているのだと思った時もあったが、違う。
愛らしい外見に気をとられていたが、人間臭さがないのだ。だから畏怖の念を抱いてしまう。
「知っている、って……何を?」
震える声で問うと、アサギは儚く微笑んだ。
「運命の恋人、いいなぁ」
「は?」
まるで自分のことのように笑うアサギに、寒気がする。
「二人は間違いなく、運命の恋人です。それを、私は知っている」
子供らしいあどけない笑みを浮かべたと思ったら、急に大人びた目つきになる。アサギだが、アサギではない気がして恐ろしい。
「違う、私じゃない。彼に訊いてみるといい、そもそも……私と彼はもう」
「あの人にそう言われたのです。運命の恋人は、ガーベラだと。そんなこと、私は言われませんでした」
はっきりと告げるアサギに、力が抜ける。あの馬鹿男は何故そんなことを吹聴したのか、眩暈がして倒れそうになった。
その身体をアサギが支えてくれる。どこまでも優しい娘だと思った。
「情け深いガーベラなら、ここへ来てくれると思って。待っていました」
ここへ来たことは、アサギの導きだったらしい。
「ここへ来る途中、天界人の様子が妙だった。アサギの仕業?」
「はい。ガーベラと二人でお話したくて、彼らの時間を止めています。私と話すことが知られたら、保護されて機会を失ってしまうから」
突っ込みたい箇所は多々あったが、引き攣った笑みを浮かべることしか出来ないガーベラは、怖々首を横に振る。
アサギは不安げに瞳を伏せた。
「あの、もし……私がいなくなったことを誰かに訊かれたら、知らない振りをしてください。最後までご迷惑をおかけしますが、どうか、どうか、よろしくお願いいたします」
腰を深く折り頭を下げる姿に、ガーベラは若干首を縦に振る。彼女の堅固な決意は誰にも崩せない、ならば安心して旅立たせてやろうと心を奮い立たせる。
「もう、決めたのね。私が泣いて縋っても行くのでしょう?」
「はい。あまり手荒なことはしたくないので、普通に見送っていただけると嬉しいです」
「手荒なことなんて、アサギに出来るわけないでしょ」
強い口調に、止めても無駄だと悟る。その決断をトビィたちに咎められても、後悔はしない。思い入った決心を瞳に集め、力強く頷いた。
「解ったわ、最後の別れに私を選んでくれたことに感謝して、覚悟を決める。誰にも言わない」
「ありがとうございます」
「……今更だけれど、私こそごめんなさい。恋人を横取りするなんて、最低の行為よね。でも、アサギのことが嫌いだったわけじゃない、感謝しているの。貴女はいつも眩しくて、私の憧れそのものだった」
「ガーベラのほうが幾億倍も眩しいです。それに、安心してください。横取りではありませんよ」
ふふふ、と柔らかな笑みを浮かべたアサギに、ガーベラは意味を含めた視線を送る。
「ずっと訊きたかったの。……まだトランシスの事を愛している?」
アサギは、困ったように首を傾げて多少声を荒げた。
「愛しているだなんて、とんでもない! 素敵な方だなぁ、とは思いますが、私には身分不相応な感情ですから」
「……それでも、好きなんでしょう? 一体彼のどこが好きなの? 貴女を裏切り、あまつさえ暴力を振るった最低の男よ?」
自分に念を押すように低い声で凄むガーベラは、答えが聞きたくて返答を待った。
「好きではなくて、私のは“執着”ですが……」
言い淀んだアサギだが、胸が締めつけられ呼吸すら忘れるほどに眩しい笑顔を見せる。
「恋人に、とっても優しいところ!」
そう言って相好を崩す彼女は、やはり理解不能だった。
「え、えぇ? だ、だって貴女は彼に酷い仕打ちを受けて……」
「いいえ、私は彼の恋人ではありません。彼は、恋人に暴力を振るうような人ではありません」
気まずそうに微笑み、舌を出す。呆気にとられたガーベラは、色々と訊ねたいのに混乱して何も言えない。
「……彼があまりにも素敵な人だったので、駄々をこね恋人のフリをしていただいたのです。他人を無下にできない彼は、嫌々ながら私に合せてくれました」
「ま、待って、それは違うわ。トランシスはアサギを」
「ガーベラが出逢った時から、あの人は一人でした。本当に横取りではないのです」
会話がまるで通じない。混乱して額を押さえていると、ようやくアサギの声が震えた。なんとなく、人間らしい感情が戻った気がした。
「そろそろ行きますね。さようなら、お幸せに。……惑星マクディにそのうち帰ってください、私が破壊してしまった可愛いお家は、元通りです! せめてもの、償い。私にはこれくらいしか出来ないから」
「い、家? どういうことなの、待って、アサギ! 暮らしていた家、って、何!?」
「お二人が仲睦まじく暮らしていた、お家ですよ。時折トビィお兄様やトモハルたちが遊びに来ていた、温かい場所。ガーベラは、あの人のためにいつも野菜を煮込んだスープを作っていましたね。彼はそれを、毎日美味しそうに飲んでいました。私は今でもはっきりと憶えています。……いいな」
子供に読み聞かせをしているように、アサギは流暢に語る。薄ら寒くなって、ガーベラは自身の二の腕を抱き締めた。
そんな記憶はない。
アサギが何を言いたいのか、意図が掴めない。
「……ずっと騙していてごめんなさい。私、人間ではないのです。だから、そろそろ異物は消えようと思います。本当は、ここにいてはいけない存在でした。でも、とても……幸せだったので、長居してしまったのです」
言葉を忘れたように黙っていると、さらに衝撃的なことを言われて脳みそがはじけ飛んだ気がした。感情がついていかなくて、顏に力を入れることを放棄する。
茫然と聞いていたガーベラの前から、アサギの姿が消えていく。
「ま、って……」
人間ではないと言われ、そうかもしれないとも思った。あまりにも、自分たちとはかけ離れているから。
しかし、人間だとも思っている。彼女は、自己犠牲精神で一人の男を愛し抜いたのだと。トランシスに何を吹き込まれたのかしらないが、虚言を信じ切っているだけだと。
去っていくアサギは、小さな鞄を持っていた。みすぼらしい茶色の外套を深く被り、顔を隠している。
しがらみから解き放たれ、飄々と旅に出るような風貌だった。
「…………」
あまりにも色々なことがあり過ぎて、涙とともに記憶が抜け落ちそうだった。
「駄目よ、アサギ。トランシスには貴女が必要よ。貴女がいないと、多分彼は死ぬ。だって、貴女の手料理しか食べない。愛する男を、見殺しにするの……?」
ガーベラは知らないのだ。
アサギがトランシスに何を言われ、何をされたのか。想像を絶する恐怖を植えつけられ、幾度も心臓を止められたことも、何も知らない。
そしてまた、何故トランシスがアサギに非情な仕打ちをするのかも分かっていない。
何もかもが分からなくて、涙だけが溢れる。二人の間に入ったところでどうにもならないと、打ちのめされていた。
「どうして私を選んだの? 私は悪女、泥棒猫と呼ばれた娼婦。約束を守る女に見える? 彼を癒すこともできないし、耐え切れなくてアサギが消えたことをすぐに話してしまうわよ。……こんな私を見抜けず、信頼した貴女が悪いんだからっ」
憎まれ口を叩かねば、心が砕ける。座り込んで声涙俱に下りながら呟き、トランシスに引導を渡す決意をした。
アサギは、本当に消えてしまった。
消えたことは分かるが、何処へ行ったのかは知らない。
恐らく、言うつもりはなかったのだろう。
アサギに告げられた衝撃的な言葉の数々の意味を考えたくとも、頭がまったく回転しない。
泣きながら館に帰ると、トランシスは部屋にいなかった。
久し振りに竪琴を取り出し、真冬の海に向かう。悲壮感溢れる曲を奏でていると、虚しさが波となって押し寄せる。責めに任ずるには、彼女の心は弱かった。だが、その為に懸命に乱れる心を落ち着かせようともしていた。
「どうするの、トランシス。貴方のお姫様は、荒波の海に身を投げたわよ。私に見せて、愛する二人が正真正銘運命の恋人であることを。何処へ行ったのか、私は知らないから教えられない。でも、信じている」
眉間に眉を寄せ、咽び泣きながら叫んだ。
「アサギを見つけ出すくらい容易いでしょうっ! 私が愛した男だものっ」