さようなら、吟遊詩人
それは、鈴を鳴らしたような声だった。
「秘密の花園は 光り輝く太陽の下
けれども君は 影で咲く
太陽の恩恵から逃れ 何故にそこで花びらを震わせる
貴女の香りは 陽の香り
君に咲く花は 太陽」
ガーベラは驚き悲鳴を上げた。ルクルーゼは起きていたらしい。
少しの沈黙のあと、怖々とガーベラは口を開く。
「求めるのは 木陰と水
眩しい光は痛過ぎる 熱い湯には耐えられない
ひっそりとした森の奥 そこで咲く一輪の花
誰の眼に止まらなくとも そこで一人で咲いていたい
僅かばかりの陽の光 その恩恵で十分だから」
ガーベラは、ぼそっと呟いた。
歌う事は好きだ、身体が軽くなるから。腹の底に沈んでいた塊を吐き出し、清浄な気分になれる。
「鬱蒼とした森の中 咲き誇っていた金色の花
寂しく儚く美しく 私の目に飛び込んできた
赦しておくれ 領域に踏み込んだことを
赦しておくれ 隣で歌うことを
赦しておくれ 花の為に歌うことを
願わせておくれ その花の幸せを」
まるで、返し唄。
会話を唄でおこなうなど、ガーベラには初めてで新鮮だった。よって、楽しくなってしまう。
ルクルーゼは徐に起き上がり、そっとガーベラの額に口づけた。まるで花弁が触れるように優しく、甘く、柔らかく。
少しだけ、甘い時間が流れる。うっとりと見上げたガーベラだが、それ以上何もなかった。
寝台から軽やかに下りたルクルーゼは、竪琴を取り出した。高級感溢れつつも手入れが行き届き、長く愛されていることが分かる代物だ。
手にした瞬間、ルクルーゼの笑顔が空気に溶けたように見えた。それは、まるで離れていた魂の半身を得た精霊のよう。
娼館に吟遊詩人の声が響き渡った。高音の竪琴と共鳴するような美しくも力強い声に、客も娼婦も聞き惚れる。
通りかかった人々も足を止め、その歌声と音色に酔いしれた。
ガーベラは気づいていた、彼が自分の為に唄ったことを。
だからといって、どうしたものか。
翌日も、ルクルーゼは館にやって来てガーベラを指名した。
そうしてまた、他愛のない会話を紡ぐ。
「……芸術家は、頭の螺旋が外れていると聞いたことがあるわ。本当だったのね」
皮肉を込めて告げたガーベラに、ルクルーゼは朗らかに微笑む。
「凡人から見たら、そうかもね。普通の男ならば、薄布を纏って蠱惑的に横たわっている身体に眼が行くのだろう」
添い寝だけで娼婦に一切手を出さない珍妙な男は、毎日やって来た。
四日後、自分の魅力が薄れたのかと自尊心を傷つけられたガーベラは、彼の形の良い唇に顔を近づけた。
だが、唇に指を押し当て止められる。驚き瞳を寄せ、ガーベラは指を凝視した。
「互いに心を開いている相手としか口づけをしないと、決めておりまして」
「そうなの? まるで女みたい」
身体は売っても唇は許さない。そんな娼婦仲間が何人かいる。
ガーベラにとって、口づけは気分を高めるただの行為だ。その為、彼女たちを理解出来なかった。
「私は、君と口づけを交わしたい。けれど、ガーベラは私に心を開いていないだろう?」
「面倒な人ね。口づけにどんな意味があるというの」
「“あなたを信頼しています”という意味だよ。真に心を通わせた相手とならば、口づけだけで満たされるものだ」
ガーベラは眉を顰めた。彼は相当の夢想家らしく、手に負えない。
「君にも、いつか分かる時が来るさ。口づけだけで、絶頂を迎える相手に出逢えることを祈っているよ」
「それはつまり、舌使いが巧い男よね?」
「違う、そうじゃない。愛し合う二人が交わす熱のこもった口づけだよ」
苦笑するルクルーゼに、ガーベラは肩を竦めた。そんなこと、あるのだろうか。確かに男の唾液には、媚薬に似た成分が混ざっているという。相手の気分を高揚させるらしいが、口内の快楽で達するなど馬鹿らしい。
そもそも、好き好んで他人と唾液の交換をすることが謎だ。仕事ゆえ男に求められたら応えているが、それだけ。ただの、前戯。
恋愛している娼婦仲間もいた。よく体力がもつな、とか、仕事にしたら金が貰えるのに、と不思議だった。
だが、彼女ら曰く客の男とは得られる快楽が全く違うらしい。
恋に狂い、傷ついて自殺未遂をした仲間もいる。棄てられ、可哀想にと皆で慰めたこともあった。泣きじゃくる彼女を見て、恋など知らなければ傷つかずに済むのではと、客観的に見ていた。
話が出来なくて、恋愛話に花を咲かせる輪の中には入ることが出来ない。
「娼婦に恋愛は不要よ」
言い聞かせるように告げたガーベラに、ルクルーゼがうすく笑う。
「いいや。先日も告げたけれど、君は娼婦である前に一人の女性だ。唄も恋愛も自由だよ。それにしても不思議だね。君は恋を知らぬというのに、酷く怯えているように見える。深みに嵌ることが分かっているからこそ、嫌悪しているような」
指摘され、苛立ちが怒りの念に変わる。
だが、反論できない。
「…………」
焦燥が頭をもたげ、動悸が激しい。
「娼館で男の嫌な部分を見たから冷めている……とも違うな。男を見る目に自信がない、そんな感じに思えるよ」
ガーベラの胸が跳ね上がった。心に土足で侵入してきた男は、尚も踏み荒らす。唇を強く噛んで、押し黙った。
「すまない、言い過ぎたかな。でも、君はまだ十五にも満たない娘だろう? 恐れていては、何も始まらないよ」
子供扱いをして頭を撫でたルクルーゼは、硬直しているガーベラを抱き締めた。そして、互いの温もりを感じたままいつものように眠りにつく。
ただ、ガーベラは一睡も出来なかった。言葉が心に突き刺さって、ジクジクと痛い。
「恋が、怖い? 違うわ、恋愛をする時間など無駄だと思っているだけ」
白い月を見て、合理的な自分を誇らしく思う。
しかし、周囲に浮かぶ星々が囁くのだ。その男の言う通りだと。まだ見ぬ相手を恐れていると。
眉間に胸騒ぎめいた黒い影が漂い、ガーベラは深い溜息を吐いた。
結局、ルクルーゼがガーベラを抱く事は一度もなかった。
三十日程度通ってくれたが、風に吹かれて新たな街へ旅立ってしまったのだ。
「金銭はきちんと受け取ったから、上客だったのよね」
世の中には色々な男がいることを、彼は教えてくれた。
そして、人前で唄う事も。
ある日、気が弛んでうっかり娼館内で唄ってしまい、ちょっとした騒ぎになった。上手いと褒められ、もっと聴きたいとせがまれ、結果日常的に唄いだす。
彼は、ガーベラに変化を与えた。
「恋は分からないけれど、唄は大好き」
陽が沈む海を眺め、ガーベラは今日も唄う。
「きみのこえ はるかとおく まっかにもえる まぶしきひかり ひかりであなたがみえません」
暫くして、彼は魔物に襲われ亡くなったと、風の便りで聞いた。
旅などしなければ、いつまでも唄っていられたのに。号泣する支援者らに混じって、ガーベラは呆れた。悲しみよりも、苛立ちが募る。
どうして彼は、そそくさと旅立ってしまったのだろう。幕切れは、酷く虚しいものだった。
「言いたいことだけ言って、それで終わりだなんて。卑怯者」
悪態をつき、男を忘れて今日も唄う。
彼女は知らなかった。ガーベラの竪琴を購入する為に、ルクルーゼが出掛けたことを。目的を達成したら、すぐに戻る予定だったことを。
ガーベラを驚かせようとして、彼は何も告げなかったのだ。