別れを決意した時
白い湯気が天井へのぼっていく。
クラフトに出された薬湯を顔を顰めて飲むトランシスは、眉を顰めてひどく憂鬱そうな顔をしている。呆れた顔つきのガーベラは、粥を持ったまま彼を見やった。
「一体いつから食欲不振に?」
トランシスは、空腹が原因で倒れた。
これだけ聞くと笑い話だが、事態はもっと深刻だ。食料は余るほどあるのに、手を出さない。腹が減っている自覚はあるのに、食べられない。ワインだけを呑んでいたと聞き、精神的なものだと判断したクラフトは薬草をすり鉢で潰している。しかし、突き刺さる視線に耐えかね、苦笑し手を止めた。
ガーベラも振り返って扉を見やると、騒ぎを聞きつけやってきたアリナが鬼のような形相で睨んでいる。放っておけと言いたいのだろう、ひしひしと伝わってくる。
「人として、体調不良の方を放置することはできません」
肩を竦め独り言のようにアリナに投げ、クラフトは何食わぬ顔で作業を再開した。
ガーベラはあからさまな舌打ちと共に走り去ったアリナを見送り、溜息を吐く。気持ちは分かるが、衰弱している彼を看てもらうことを許して欲しいと心で詫びた。
薬湯を飲み干したトランシスは咽せ、額を押さえて瞳を閉じている。ガーベラが差しだした粥は、一瞥しただけで食べようとしなかった。
「少しは腹に入れてください。何が食べたいですか? 栄養価が高いものを摂取することは重要ですが、口に入るならなんでも構いませんよ」
子供に問うようにトランシスに優しく告げたクラフトだが、返事はない。そこまでの気力がないというよりも、思いあぐねているように見える。
ガーベラは口を出そうか躊躇した。トランシスが食べたいものは解っている、アサギの手料理だ。しかし、触れていいものか分からなくて唇を噛み、俯いた。
「少しずつで構いません。食べられるものを食べてください」
頬はやせ衰え、笑顔を浮かべても不機嫌に見えるトランシスは生ける屍のようだ。何を訊ねても、返事がない。それでもクラフトは根気よく話し続ける。
「入院する方法もありますよ、ディアスの医療施設は優秀だと自負しています。そこなら四六時中看病してもらえますし、食事も出ます」
トランシスは石化したように微動だにしない。ただ、こちらの話はきちんと聞いているように見える。
無言を貫くトランシスを見つめているガーベラに、クラフトは薬草の説明をしてくれた。
「これを一日三回飲ませてください。なるべく食後に」
「はい。ありがとうございます」
親身になって話しかけていたクラフトだが、暫くすると退室した。定期的に来てくれることになったが、市長の補佐を行っている彼は仕事が山積みだ。頼ってばかりでは申し訳ないので、自分が頑張らねばとガーベラは腹を括る。
「果物なら食べられるわよね。待っていて、後で買ってくるから」
惚れた弱みなのか、自分が蒔いた種の責任をとっているだけなのか、単に弱っている人間を見捨てることができないのか。現在この男に愛情があるのかすら、ガーベラには解らない。それでも、彼を突き放すことはしなかった。
冷めた粥を小ぶりの鍋に戻し、温め直すべく立ち上がる。
「もう少し煮込むわね。そうすれば、白湯のように流し込めるでしょう?」
トランシスは何も言わなかったが、自分は腹が減っていたので食堂へ出向いた。粥に水を足し、味を調整する。
置いてあったパンを齧り、余っていたスープを飲み、紅茶を淹れる。コトコトと鍋の中で動く麦と芋を見つめながら、重湯をすくって器に入れた。まずはこれを飲ませてみようと思ったのだ。
すると、賑わしい子供たちの声が近づく。入ってきた勇者たちと目が合うと、彼らはギョッとしたが頭を下げてくれた。
「こんにちは」
「こんにちは、とてもいい匂いね」
彼らは好物の烏賊焼きを買ってきたらしく、広げて食べ始める。香ばしい匂いが一気に広がり、口内に唾液が溜まってきた。羨ましくて、つい見やった。
「どうぞ」
「あら、頂いて良いの?」
「うん、たくさん買ってきたから」
視線に気づいたリョウに差し出され躊躇いがちに受け取ったガーベラは、有り難く頂戴した。一口齧ると、凝縮された旨味が口の中に染み渡る。
「いつ食べても美味しいわね」
肉厚がある烏賊を飲み込み、笑顔で告げる。
「トランシスさんの分も要ります? よかったら……」
リョウが控え目に言うので、ガーベラは恥を忍んで頭を下げる。
「ありがとう。ただ……我儘を言って申し訳ないけれど、他に食べたいものがあって。その……宝石のような大きめの白葡萄があれば、少し分けて貰えると嬉しいの」
流石にアサギの手料理を依頼するのは気が引けたので、マスカットを所望した。この季節、ディアスでは販売していない。しかし、地球にならある。
「あぁ、マスカットのことですね。買ってきます」
「そこまでする必要なくね? あの男の為に俺らが金を使う必要はねーだろ」
笑顔で応じるリョウに、ミノルが尖らせた声を放った。トモハルは神妙な顔つきで黙り、ケンイチとダイキは困惑しているものの同意しているように思える。
食堂は一気に気まずくなったが、リョウは烏賊焼きを齧りながら立ち上がった。
「買ってきます。貴女が頼みごとをする時は、余程のことだから」
「ありがとう。……その、トランシスが臥せっているの。食欲がないのよ、だから好きなものを食べさせてあげたくて」
「分かりました。ただ、高価なものは買えないから、味の保証は出来ませんよ」
苛立って卓子を指先で叩くミノルに苦笑し、リョウは出ていった。
「全員人が良すぎる。アサギだって、アイツのせいで臥せってたじゃん。罰があたったんだよ」
悪態づくミノルに、ガーベラは目を見開いた。初耳だった。
「アサギも体調不良なの?」
「あ……」
極まり悪げな顔で慌てて俯いたミノルを小突き、トモハルが苦笑する。
「今は元気ですが、少し前まで体調を崩していました」
「そうだったの。ごめんなさい、何も知らなくて」
「当然ですよ、アサギは大体地球にいますから」
それは分かるが、何も知らされていないのは少し哀しく思った。きっと、他の仲間たちは知っているのだろう。どうしても疎外感を覚えてしまい、早目にこの館を出て行かねばと決意する。目を泳がせている勇者たちに気を遣わせてしまい、申し訳なくて自室に戻ることにした。
「烏賊焼き、ありがとう。とても美味しかった、またね」
「はい」
粥を作り終え部屋に戻ると、冷ました重湯をトランシスに飲ませた。一応烏賊焼きを差し出すと、二口齧ってくれた。
しかし、粥は食べなかった。芋がとろけるまで煮込んだが、駄目だったらしい。
それでも、一応生きる意志はあるように見える。食べることを放棄したわけではないと知って、少し安堵した。
暫くすると、扉が叩かれる。クラフトだろうかと思い開くと、リョウが立っていた。
「買ってきました。甘いかどうか分からないけど、これしかなくて」
「ありがとう、とても嬉しいわ! 御礼をしたいのだけれど、どうしたら」
「いえ、大丈夫です。普通のマスカットくらいなら小遣いで買えるし」
「私に出来ることがあれば、遠慮せずに何でも言ってね」
リョウはちらっと寝台に座っているトランシスを見たが、何も言わなかった。
「はい。こちらこそ……ミノルが酷い事を言ってごめんなさい」
食堂でのことだ。微笑んだガーベラは首を横に振った。
「気にしていないわ。ミノルは、アサギの恋人だった人でしょう? 人一倍心配している、優しい子」
「ありがとうございます。何かあったら、僕かトモハルに言ってください。そうだ、これも買ってきました」
リョウから手渡されたのは、ガーベラには見慣れないものだった。
「手軽に栄養を補給できる飲み物で、スポーツドリンクっていいます。ここが蓋になっているので、こうまわして……」
「ありがとう、助かるわ」
笑顔で去った彼から受け取った白葡萄をトランシスに見せると、興味を示して瞳に光が灯った。ようやく反応したことが嬉しくて、声が弾んでしまう。
「洗ってくるから、待っていて」
「……うん」
急いで洗い部屋に戻ると、トランシスは夢中で葡萄を貪った。
「美味しい? リョウが買ってきてくれたの」
「うん、美味しい」
あっという間に平らげたトランシスは、スポーツドリンクも飲み干した。調子を取り戻したのかいつものように寝台に転がり、瞳を閉じる。
「とても眠い」
「寝ていて。お昼になったら、またお粥を食べましょう」
「結構腹いっぱい、夕方でいいよ。ガーベラはどうするの?」
「どうって……」
ここで看病しようと思っていたが、放っておいて欲しいのか不安になる。言い淀んでいると、トランシスがくぐもった声を出した。
「教会、行ってきていいよ。迷惑かけてごめん、疲れたから寝てる」
「……分かったわ。辛かったら、誰かに声をかけるのよ」
「うん」
気弱な声に胸が痛むが、早目に戻ることを決意したガーベラは教会へ行った。そこで普段通りに掃除をして子供たちの世話をし、本を読んだ。
帰宅の際に身体に良いという牛乳を買う。
部屋に戻ると、トランシスはまだ眠っていた。顔を覗き込むと、朝よりも血色が良い。
「……帰って来たの?」
「起こしてしまった? ごめんなさい」
掠れた声で、トランシスが呟く。二人は味気ない粥を静かに食べ、温めた牛乳に蜂蜜を入れて飲んだ。
「これ、美味しい」
「明日も買ってくるわ」
「ありがとう」
素直なトランシスに、胸がざわめく。嬉しいよりも、何故か怖い。平静を装い、無理やり微笑んだ。
「気にしないで」
「ガーベラには、色々と感謝しているよ」
薄く微笑んだトランシスは、再び寝台に横になって眠っている。
道に落ちていた野生の鳥を持ち帰り看病している気分になっていたガーベラは、彼が元気になったら外に逃がしてやらねばと思っていた。
一応粥を食べるようになったトランシスは、きちんと薬も飲んだ。
そうして数日後、「一緒に出掛けよう」と誘われる。以前のガーベラであれば、飛びあがって頷いていただろう。しかし、手放しで喜べず狼狽する。
覚悟を決め、震える唇を開いた。
「私と出掛けていいの? 貴方が愛しているのは別の女でしょう?」