読めない男と溺れる女
部屋を間違えたのでは、そう思った。
状況を飲み込めず立ちつくし、ドクドクと脈打つ自分の鼓動を聞いている。寝台にいるはずの彼がいない。それだけで、自室ではないような気がする。
狼狽し、弾かれたように斜め後ろの部屋へ向かった。声をかけることも忘れ、焦って扉に手をかけると簡単に開いた。
中には、誰もいなかった。
アサギの部屋を訪れたことはあまりなかったが、彼女らしくない雰囲気に違和感を覚える。
妙に簡素だ。
可愛らしい調度品を好む彼女だから、部屋も華やかに違いないと思っていた。しかし、無難というより物悲しさすら覚える部屋だった。
「何をしている。今度は歌姫から盗人に転職したのか?」
「トビィ!」
険しい声のトビィは、顏にも怒りを籠めている。アサギの部屋に無断で入室したら、誰だって怒るだろう。だが、今のガーベラは切羽詰まっていた。冗談だと笑い飛ばすことも、見縊らないでと叫ぶこともせずに縋る。
「助けて、トランシスがいないのよっ! アサギの部屋以外に行く場所なんてある!?」
服を掴んで揺すると、トビィは心底嫌そうな顔をして深い溜息を吐いた。
「少し落ち着け、いつ消えた」
「一緒に朝食を食べて、明日出掛ける約束をして……。私が教会へ出掛けたのは、普段より少し遅かった。雪が降っていたから、億劫で」
焦燥感に駆られながら今朝のことを思い出し、告げる。
トビィは眉を顰め、考え込んでいるガーベラを睨んだ。
「明日出掛ける約束? お前が誘ったのか?」
「違うわ、トランシスが言い出したのよ。出掛けようって」
「あの馬鹿が?」
訝るトビィに、ガーベラは怒りで頬を朱に染めた。
「嘘じゃないわ! 最近、彼はとても優しかった。私を気遣ってくれるもの」
「異常事態だな、有り得ない」
失礼極まりないと激怒するが、真顔で悩み抜いているトビィに怒りが治まる。惚れ薬のせいだと言いたいが、呆れる彼が容易に想像出来たので止めた。
「アサギは今日も明日も学校で、ここにはいない。となると、惑星マクディへ戻ったと考えるのが筋では」
「忘れ物に気づいた、とか?」
トランシスはアサギにしか反応しないので、他の可能性を考えていなかった。頷き合うが、トビィが瞳を細めガーベラの部屋を見やる。
「何か変わったことは? 馬鹿の荷物はあるのか?」
「そ、そうね、待って……」
気が動転しており、部屋を調べていない。自室に入ったガーベラは、隅々まで見渡した。
「彼の荷物はここに。……あら、外套がない」
「外套?」
「えぇ。トランシスに似合うと思って、贈ったの」
「それがないなら、故意に外に出たということだ」
もう一つ無くなっているものがあるのだが、ガーベラは気づくことが出来なかった。全く興味がなかったのだ。最初は壁に立てかけていたが、邪魔だったので寝台の下に転がしておいた。
「外でミシアに出遭った時、『白ワインを持って部屋に入っているところを見た』的なことを言っていたけど……」
何を考えているのか分からない女の戯言なので、鵜呑みには出来ない。しかし、そんな虚言を弄する必要性もないとも思う。
「お前はマクディへ行け、オレは周辺を捜す」
「ありがとう、心強いわ」
二人が別れようとした時だった。
「何してんの?」
不貞腐れたような声を出し、トランシスが立っていた。
「トランシス……! 一体何処に行っていたのっ」
慌てて駆け寄るが、彼は瞳を尖らせている。後方のトビィが原因だと気づき、慌てて言い訳を始めた。
「部屋に貴方がいなかったから、行先を知らないかトビィに訊いていたの」
「ふぅん、そうなんだ? ごめんね、誰かに伝えておけばよかったね」
くしゃっと微笑むトランシスは、左手を持ち上げる。
「これを買いに行ってた。ガーベラがくれた金があったし」
「……ワイン?」
「いつも館にあるものを呑んでいて申し訳ないから、たまには自分で購入しようと思って」
どういう風の吹き回しだろうか、今までそんなことはしなかった。しかも、彼に気をとられていたので気づけなかったが、見知らぬ衣服を身に纏っている。
ガーベラの食い入るような視線に、トランシスは悲しそうに瞳を伏せる。
「ワインを買うのに金が足りなくて。困っていたら、ガーベラがくれた外套を気に入った人が通りかかって、援助してくれた。その人が寒いだろうからって、これをくれた」
流暢に告げられ、頭の上に疑問符が乱舞する。
「……待って? つまり、外套を売ったの?」
「うん、ごめん。このワイン、高かった。でも、どうしても呑みたくて」
あまりのことに眩暈がした。ガーベラはふらつき、トランシスから離れる。恋人からもらったものを売り払うだなんて、普通有り得ない。
「し、信じられない」
「ごめんってば。でも、このワインは必ず美味しいよ」
悪びれた様子もなく告げるトランシスに、怒りが込み上げる。自分の想いを踏みにじられ、頭に血が上った。しかし、彼を見ていると戻ってきたことが嬉しくて、どうでもよくなってきた。
外套は金で買えるが、トランシスは買うことが出来ない。
「今後は、そういうことをしないでね。私、とても悲しいから」
「ごめんね」
「でも、その服も素敵ね。トランシスに似合っている」
漆黒の布地は、獣の皮に見える。金の刺繍細工が美しく、自分があげた外套より高級品に思えた。
ガーベラは嫌悪感を丸出しにしているトビィに会釈をし、ぎこちなく笑う。
「ありがとう、トビィ。お騒がせしてごめんなさい」
「…………」
物言わぬトビィの刺すような視線を受けながら自室に戻り、何事もなかったように二人は食事を始めた。
「今日はワインが二本だ、楽しみだね」
「そうね、豪華だわ」
「新しい生活に、乾杯」
その日、ガーベラはとても愉快だった。
ついに男に愛想を尽かされたと絶望するも、それは杞憂で、彼は戻って来てくれた。酒を呑み、美味いものを食べ、酔いがまわって寄り添って眠った。
翌朝は、ついに二人で外出した。
ディアスの街を歩いただけだが、飲食店に入り、洋服を見て、公園に立ち寄って休憩出来たことが嬉しかった。これらは、一般的な恋人同士がしていることだ。
その晩もトランシスに抱かれることはなかったが、心は十分満たされていた。
ついにアサギに勝ったと思った。
愛しい男の頬に口づけ、髪を撫で、腕を絡めて眠りにつく。
そんな日が続いていた。
朝陽が差しこむと、寝台の状況がしっくりこなくて首を傾げ始めたのは、数日してからのことだった。
起きると、二人は互いに背を向けている。両端にいて、どこも触れていない状態だった。
トランシスの寝相は知らないが、ガーベラは寝返りをうつ癖はないと自負している。そのため、どうにも納得出来ない。
故意に離されているのではないかと思い出すと、止まらない。浮かれていた時間を忘れるほどに、猜疑心が芽生えてしまった。
不平不満を吐き出すことを覚えたので、食堂でリョウに会う度に愚痴をこぼした。幼い彼だが、親身になって聞いてくれるので話しやすい。
「なんだか彼が余所余所しい感じがするの、優しいのに。義務的な感じがする、というべきかしら」
トビィに話したら「正常だな」とほくそ笑むだろう。リョウは、「思いつめないでくださいね」と優しい言葉をかけてくれた。
あの日から、トランシスは館を徘徊するようになった。外出はしていないようだが、食堂へ行くだの風呂に入るだの、部屋にいないことが増えた気がする。活動的になってくれたことは嬉しいが、急に変わったので恐ろしい。
それは、ある日の夕方だった。
教会から戻ったガーベラは、部屋で読書に励んだ。やはり唄うことが出来ないので、子供たちに読む本を増やそうと、懸命に勉強している。
トランシスは食べ物を用意すると言って、食堂へ向かった。案の定戻ってこないので、慣れたように溜息を吐く。
ふと、庭が騒がしいことに気づいた。
何気なく見下ろすと、純白に緑色が点々と混じっている。
あそこだけ芽が出てきたのかと思ったが、違う。あまりのことに、声にならない悲鳴を上げた。
「な、なんてことをっ」
ワイバーンに襲撃された際、アサギと共に助けてくれたデズデモーナ。彼が、トランシスの前で蹲っていた。
飛散する緑色は、竜である彼の血液だと気づく。殴ったのではない、相当な深手を負っているようだ。
止めに行かねばと思うが、身体が動かない。上から見る彼の表情は、この世の物とは思えないほど恐ろしい顔をしていた。怖くて足が竦む自分に苛立ち、動けと足を叩く。だが、産まれたての小鹿のように震えるだけだった。
ただ、あの場に駆け付けたところで止められる自信はない。今の彼は、恋人である自分ですらも斬り落としそうな程、目に殺気を含んでいる。
誰か止めてと見ていると、トビィと対峙した。彼ならば任せられると安堵するが、気圧されている気がする。
戦いのことは分からないが、余裕があるのはトランシスに見えた。恋人が優位なのは誇るべきだろうが、強者とされるトビィが敗けるなど、あってはならないように思える。
どちらを応援したいのか、自分の心が定まらない。
しかし、意外にも仲裁に入ったのはリョウだった。普段は大人しい顔をしているが、二人を飲み込むような怒気が伝わってくる。胃を潰されるような気迫がこちらにも届き、窓から数歩下がった。
「あの子……あんなに強いの?」
色々と驚くことがあるが、そもそも諍いの発端は何だったのか。恐らくアサギが絡んでいるのだと思うが、本人の姿は見えなかった。
足を踏み鳴らし仁王立ちしていると、扉が情けない音をたてて開く。
「ねぇ、今の騒動は何?」
凄んで告げると、入ってきたトランシスはヘラッと哂った。