愛の証明
音もたてずに、扉が開く。
「こんばんは」
穏やかな笑みを浮かべたアサギが、少しだけ開いた扉から顔を覗かせる。室内は真っ暗で、ガーベラが持参した蝋燭の頼りない灯りだけが二人を照らしていた。
あまりにも綺麗な顔をしているので、ガーベラは訊ねることを躊躇した。この顔が歪むさまを見たくないと思った。
しかし、ここまで来たのだからと腹を括る。
「どうして彼を庇うの? 性行為を暴力的に要求する行為は、立派な犯罪よ」
凛とした声で告げると、アサギは不思議そうに微笑んだ。
「庇っていません。性行為を暴力的に要求されてもいません。彼は犯罪者ではありません」
「私を馬鹿にしているの?」
ゆったりとしたアサギの声が癪に触り、苛立った。声を荒げるが、彼女は平然としている。
「ガーベラは勘違いをしています。私は何もされていません」
「でも、全裸だった! 頬には殴られた痕があった!」
「全裸だったのは、着てもいい服が分からなくて悩んでいたからです。頬が腫れていたのは、転倒した時にぶつけたから。彼は何もしていません」
アサギの微笑みは以前と同じだった。見ている相手を和ませる、打算のないもの。しかし、不安になって心が大きく揺さぶられる。
精巧な人形のように、一貫して表情が変わらないのだ。
「ならば、何故彼はアサギの部屋にいたの? 襲うために来たのでしょう?」
自分の恋人を犯罪者と決めつけるのも妙なことだが、ガーベラはトランシスを信用していない。
「私が歩いていたトランシスを引き摺り込んだだけです。お話がしたかったのです」
「出鱈目よっ! アサギにそんなことができるわけないでしょう、誰も信じないわよ」
「本当、なのです」
ようやく、アサギの表情に変化が見られた。寂しそうに微笑んだので、口を噤む。
暫く居心地の悪い沈黙が続いたが、いい加減はっきりさせねばならないと目を尖らせた。
「彼はアサギを嫌悪している」
「はい、知っています」
アサギは再び、穏やかな笑みを浮かべていた。心の中を刃物で掻き混ぜられているような焦燥感に駆られ、唇を噛む。
「アサギはどうしてそんなにも平然としていられるのっ! 私は貴女からトランシスを奪った女、もっと怒りなさいよっ。憎いでしょう、悔しいでしょう、許せないでしょう? 私のせいで貴女の誕生日は最悪だった、怨んでも誰も咎めないっ」
「違います」
捲し立てるが、アサギはやはり平然としている。感情が欠落しているようで、不気味だった。
「何が違うのよっ」
「ガーベラとトランシスは、以前から恋仲でした。私だけが知らなかった」
すっとアサギの腕が伸び、一点を指す。訝って自分の胸元を見たガーベラは、息を飲んだ。
「その首飾りは、ガーベラがお誕生日に貰ったものですよね。好きな人とお揃いだと聞きました」
「そ、それは」
確かに、そんな嘘を告げた。動揺し瞳を泳がせていると、アサギは満足したように頬をほころばせる。
「どなたから貰ったんだろう、って思っていました。『一方的に慕っている』とあの時言いましたが、違いますよね。私に遠慮してくれたんです」
違う。そう言いたいのに、言葉が出てこない。
「その人は、私が知らなかったガーベラの誕生日を知っていて、一緒に過ごしてくれた。その時すでに、トランシスの恋人は貴女でした」
違う。過ごしたといっても、食事を届けただけの僅かな時間だった。そう言いたいのに、声が出ない。嘘が露見することを、どうしても恐れてしまう。
「私、言ったじゃないですか。『その人も、きっとガーベラの事が気に入っているのですよっ』って」
無邪気に微笑むアサギに眩暈がする。
「私がトランシスのことを話すと、憎くて悔しくて許せなかったでしょう? ガーベラこそ、もっと私を怨んでいいと思います。……本当にごめんなさい、何も知らなくて。真実を知った時からずっと、恥ずかしい思いでいっぱいです。正直、消えてしまいたいです」
アサギの言葉は的確だった。
幸せそうにトランシスのことを話すたび、心を抉られた。殺意に似た憎悪と共に、劣等感を抱いていた。
だが、違う。
トランシスを奪ったのはアサギの誕生日前夜であって、それまで彼は見向きもしなかった。今なら分かる。彼にとって、“頼んでもいないのに食事を届け、アサギを監視する便利な人”そんな存在だったと。
「許して欲しいとは言えません。でも、謝りたいのです。……ガーベラ、とても辛かったですよね。ごめんなさい、もう大丈夫ですよ」
ボロボロと涙が零れ、視界がぼやける。微笑むアサギの前で、ガーベラは耐え切れずに号泣した。感情が入り乱れ、制御できない。
勘違いをしているアサギに、真実を伝えない自分が愚か。
あまりにも広い心で受け止めてくれるアサギに、心酔する。
憐れんでいるように聞こえてしまう自分が、浅ましい。
嬉しいのか哀しいのか分からないが、闇雲に涙だけが流れている。
「優しいガーベラは、私を気遣ってくれる。でも、へっきです。私は、強いから」
凪のように乱れのない声に、嗚咽を漏らしていたガーベラは涙を拭く。気高い娘を見て、先程から覚えていた違和感の正体を掴んだ。
怖々と訊ねる。
「もしかして……彼を待っている?」
揺ぎ無い愛、そして自信。
ガーベラを祝福しているようなアサギだが、何処となく小馬鹿にしているようにもとれた。それは、愛人に現を抜かす夫を家で待つ正妻の強かさ。寄り道をしても、最終的に自分のもとに戻ると確信しているゆとり。
でなければ、ここまで冷静に対応するなど有り得ない。
たじろいでいると、アサギはにっこりと笑って首を横に振った。
「……以前、言われたことがあるのです。『もしオレがおかしくなっても、待ってて』って。その時は意味が解らなかったけれど、今なら解ります。だから、待っています」
その言葉を信じ、トランシスに何を言われても、何をされてもアサギは待ち続けるのだ。
「ガーベラは怒っていいです、当然です。それでも、どうかこれだけは許してください。戻らないとは思います、でも、待たせてください。私にはそれしかないのです」
曇りなき眼で告げられ、ガーベラは呼吸することを忘れた。
「報われなくても、私はトランシスを愛しています。この想いは、誰にも譲れません」
清冽な瞳が、何本もの槍となって全身を貫く。私の男に手を出すな、そう警告されたように思えた。
とても叶う相手ではないと解っていた、しかし、現在の恋人は自分だと歯をむき出す。これは、有能な雄を得るために、雌同士が繰り広げる苛烈な戦い。負けてはならないと、生物の本能が刺激される。
「アサギは、とても強いわ。……完敗よ」
ゆるりと動いた両腕が、小さなアサギを捕まえる。ぎゅっと胸に抱き締め、聖母のように背中を撫で擦った。
「私は、助けてもらったときからアサギが大好き。でも、これだけは言わせて。私もトランシスを愛している、これはどうしようもない。報われなくても、この想いは誰にも譲れない」
慰めるように、労わるように、アサギの髪に口づける。優しくも、爽やかな香りがした。教会の子供らを順番に風呂に入れた後、髪を拭きながらするように接する。
しかし、白くて細い艶めかしいうなじが見えると、大きく唇を開いて噛みつく。
「っ」
アサギが小刻みに揺れたが、強く吸いあげその痕跡を残す。唾棄すべき行為だが、ガーベラは続けた。
「あ、の」
流石に狼狽えたアサギが暴れるので、ようやく唇を離す。ねっとりとした唾液がツーッと糸を引き、その先に朱い印が浮かんでいるのが見える。
きめ細やかな肌に映える、鬱血痕。
ガーベラは血走った瞳でそれを見やり、満足して唇を舐めた。トランシスが夢中でつけていた意味が分かり、皮肉めいて口角が上がる。
アサギの肌は、どことなく甘い味がした。
「貴女の想い、確かに受け取ったわ。どちらが彼の恋人に相応しいのか分からない、それはトランシスが決めることだものね。今夜、お話が出来てよかったわ。アサギとぎくしゃくした仲でいるのは辛いから」
「相応しいのはガーベラです。でも、私は」
「いいのよ、卑下しなくても。同じ男を好く女同士、これからも仲良くしましょう?」
まるでミシアのような物言いに、嘔吐しそうになる。ガーベラは女狐のように狡猾な笑みを浮かべると、茫然としているアサギに手を振った。
「おやすみなさい、アサギ。トランシスが待っているから、そろそろ部屋に戻るわね。彼、甘えん坊でしょう? 寂しがるから」
「は、はい……おやすみなさい」
敵意のある言葉で挑発し、踵を返す。
「トランシスは、私の恋人よ……」
拳を固く握り締め、歯の痕が残るほど唇を噛み、自室に戻った。トランシスは、寝台の上で眠っている。
「ただいま、私の愛する人」
絶対に返すものかと、紫銀の髪に優しく口づける。
アサギの首につけた鬱血痕をトランシスが見れば、他に男がいると思い込むだろう。そうしたら、いい加減アサギを見限って自分を見てくれる筈だ。
指の間に髪を通し、ガーベラはほくそ笑んだ。
――それでいい。徹底的に潰すんだ、君の愛を強固な物にするために。
久し振りに、優しい誰かの声が聞こえる。その声が何処となくトランシスに似ていて、陶酔し頷いた。