アサギのカステラ
何が起きたのか分からず、目が点になった。
あまりのことに、声が出ない。しかし、どう見てもこれは強姦だ。噛みつく勢いでガーベラはトランシスに詰め寄った。
「トランシスッ! 何てことを……!」
「誤解するなよ、何もしてない。コイツが勝手に服を脱いで……そう、誘惑してきた。オレは無実」
「嘘おっしゃいっ!」
金切り声でトランシスを罵倒するガーベラの瞳に、涙が滲む。怒りと悔しさが入り混じり、複雑な心境ながらも言い表しようのない黒い思いだけが先走った。
アサギに執着するトランシスが憎いのか、最低な男だと分かっているのに魅力に抗えない自分に苛立っているのか。
ただ、どちらにしろ自分が情けないことは解っている。
半泣きのガーベラに言い訳をするのが面倒だと深い溜息を吐いたトランシスは、下から聞こえてきたか細い声に耳を傾けた。
「ちがーう、ちがーう。ガーベラ、あのね。トランシスは嘘をついていないです。本当の事ですよ、トランシスは、ガーベラがいるからって、ちゃんと断ったんですよ」
床に転がっていたアサギが、口元に笑みを浮かべてそう告げた。
目を瞠ったのはガーベラだけでなく、トランシスもだった。
「トランシスの言う通り、私が勝手に服を脱いだんです。何もしていないです、ガーベラがいるのに、そんなことをするような人ではないですよ」
「で、でも」
「大丈夫です、トランシスはガーベラしか見ていません。ごめんなさい、私が悪いのです」
そう言うアサギだが、両頬は真っ赤に腫れあがっている。明らかに暴行を受けた痕だ。
「そら見ろ、本人がこう言ってる。大体、オレがこんな醜女の誘惑に乗ると思うか? 反吐が出る」
庇ってくれたアサギに違和感を覚えつつも、これ幸いとトランシスはガーベラの身体を引き摺り部屋から出た。
「離してよっ! アサギ! 待って、アサギ!」
「心配しないでください。私など、見えていません。不安は杞憂です」
あどけなく微笑んで手を振ったアサギに、ガーベラは息を飲んで手を伸ばす。
しかし、無情にも目の前で扉が閉まった。
拒むガーベラだが、男の力には勝てない。嘘をついているのはどちらかなど、誰が見ても一目瞭然だ。
「痛い! 離してよっ」
自室に連れ戻されると、ようやく掴まれていた腕が解放された。あまりにも強い力だったので、まだジンジンと痛む。擦りながら、へらへらと笑っているトランシスを睨んだ。
「どういうことなのっ!?」
「どうもこうも、さっきオレが言った通り」
「信じられるわけがないでしょう!?」
「本人もそう言ってただろ?」
「アサギの頬は腫れていた! 自ら服を脱いだことは百歩譲って認めても、あれはどう説明するのよっ。そもそもワインはどうしたのっ」
「だーかーらー、取りに行く途中で引きずり込まれた。オレは無実だってば。そういえば醜く腫れてたね、気づかなかったよ」
「嘘はやめてっ!」
部屋に戻るなり瞳を尖らせ喚き出すガーベラにうんざりしたトランシスは、聞きたくないと耳を塞ぎ、太々しく寝台に転がった。
全く反省していない男に、ガーベラの怒りは頂点に達する。
「こっちを向きなさいっ! 幼くて素直なアサギを上手く丸め込むことができても、私はそう簡単にいかないわよっ」
上に圧し掛かり胸ぐらを掴むと、歯を剥き出しにする。目の前の相手が憎くて殺してしまいたいほどに、ガーベラの瞳は揺れていた。
興ざめだとばかりに、トランシスはそのさまを見て顔を顰める。
「そんなに怒ると綺麗な顔が台無しだよ、ガーベラ」
「茶化さないで。……私を愛しているのなら、今ここで約束して。今後一切、アサギには近づかないと。出来るわよね?」
脅迫するように語尾を強めてそう叫ぶと、一瞬間を置いてからトランシスは酷薄な笑みを浮かべた。
「あぁ、愛しているから約束する」
向けられた冷酷な視線に、ガーベラの身体は冬空の池に落とされたように冷えた。一気に熱も威勢も奪われ、情けない細い声が漏れる。
「ぜ、絶対よ……。誓える?」
「嫉妬深いなぁ、大丈夫だってば。そういうトコも好きだけど。信用してよ、オレを」
上手く言いくるめられてしまい、ガーベラは項垂れた。どうして自分はこの男に弱いのだろう。惚れた弱みとはよく言うが、あまりにも意気地がないので嫌気が差す。
もっと言及せねばならない。今の誓いは本心か問い詰めねばならない。
それなのに。
「愛してるよ、ガーベラ」
瞳を細めガーベラを抱き締めたトランシスは、はぐらかすように身体を弄ってきた。自分本位なくせに、こちらの弱いところを的確に責めてくる。天性の素質なのか、それが悔しい。
「ま、またそういうことをっ」
多少抵抗したものの、ガーベラの身体はすぐに熱を帯びた。どうしても拒めない。
「誰が見てもガーベラが良い女に決まってる。嫉妬しないで、ね?」
耳元で囁かれても、ガーベラの心には響かない。首筋に唇が触れると、身を捩る。甘い吐息が零れ始め身を任せたが、我に返った。
このまま流されるわけにはいかないと、必死になって身体を離す。
「……ワインは、私がとってくるわ」
「えー、いいとこなのに」
「私は呑みたくて待っていたの。ワインが先よ」
「ちぇっ」
唇を尖らせたトランシスを睨み、衣服を正すと怒りに任せて部屋を出た。抱かれるのは嫌ではない。ただ、アサギの代わりに思えて嫌なのだ。
白ワインを取りに行くと、食堂から甘い香りが漂っていた。
卓子の上に、淡い黄色の食べ物が品良く並んでいる。見たことがなかったので、アサギが作ったものだと確信する。皿に五切れ乗せ、白ワインと共に持ち帰った。
「作ったことを忘れていたわ。よかったら食べて頂戴、……私が作ったの」
寝台に転がっていたトランシスに、それを差し出す。怪訝に眉を寄せたが、じっとそれを眺めていた。
「き、綺麗な色をしているでしょう? 上手く焼けてよかったわ」
とはいえ、これが何か解らないので、どんな味なのかも知らない。しかし、確実に美味しいものだとは分かっている。しっとりとしているのは見れば分かるし、冷えているのに焼きたてのような香りがするのだ。
「ふぅん……いただきます」
一口食べて、トランシスは瞳を輝かせると唸った。
「美味い!」
あっという間に五切れ全てを食べ終え、満足したと腹を擦る。
「また作ってよ、めっちゃ美味かった!」
「……そう、よかったわ」
俯き加減に首を傾けてそう告げたガーベラに笑みを向けると、満たされたトランシスは横になって瞳を閉じた。
すぐに寝息を立て始めたので、自然と重苦しい溜息がもれる。彼の性欲は、食欲で満たされたのだ。
つまり、ガーベラの身体は不要らしい。
「思った通り……アサギの手料理なら残さず食べるのね」
空の皿をぼんやりと呟いたガーベラの声を、トランシスが聞くことはなかった。
アサギが作ったものは、カステラだった。素材の味を生かした素朴な風味は、飽きがこない。食事の量が激減したトランシスを案じ、無理を言って作ってもらったが読みは当たった。
「馬鹿ね」
皮肉めいて呟いたが、その言葉が誰を指すのか本人も分かっていない。
その日の夕食も、トランシスは少量食べただけだった。腹が減ってないと、悲しそうに笑っている。今日は以前アサギが教えてくれた崖の上の店に買い物に行き、そこの料理を出したが駄目だった。
やはり、アサギの料理でなければ駄目なのだ。本能が欲しているのだろう。
「これ、似合いそうだったから」
「わぁ、ありがとう」
外出した先、店先で見かけた外套をトランシスのために購入した。いつか一緒に外出する機会があればと奮発したが、唄っていないので金は減る一方だ。それなのに、貢いでしまった。
そんな機会がないことは知っているのに。
愚かな男と愚かな女。
恋人として丁度よいのかもしれないと薄く微笑み、ガーベラは寝静まったトランシスを見計らって部屋を出る。
静かにアサギの扉の前に立つと、控え目に叩いた。
「アサギ、私よ。もしいたら開けて頂戴。聞きたいことがあるの」
先程のことがどうしても腑に落ちなくて、意を決した。
ドクドクと胸が脈打つ、怖くて仕方がないのに、真実が知りたいのだ。
……トランシスに襲われたのでしょう? 何故下劣な男を庇うの?
答えは分かっているのに、彼女の口からどうしても聞きたかった。