心を満たしてくれるのは
唄を取り上げられたガーベラだが、事実を知っているのは教会関連者のみだ。
館にいる仲間たちは、それを知らない。毎日教会へ出向くガーベラを見かけるたびに、唄いに行くのだと思っている。
実際は、子供たちの世話や炊き出し、掃除と雪かきをして教会を手伝っていた。子供らに唄をせがまれると、替わりに本を読んでいる。よく通る声なので、読み聞かせも評判だ。
それなのに、何故唄おうとすると声が出ないのか。
ガーベラは背徳行為に及んだ罰だと認識しているが、外部及び内部の精神的圧迫が原因である。現状を勇者たちが知れば、“ストレス”と指摘しただろう。
拭いきれない数多の罪悪感が足枷となって、自身を追いつめている。トランシスの愛を得ていたら、ここまで潰れることはなかっただろうに。
自分の身体に何が起きているのか分からないガーベラだが、人間は本能で修復しようとする。精神を正常に保つため、教会へと足を運ばせていた。この場所こそ、彼女の安らぎだと教えている。無邪気な子供たちと、献身的で穏やかな人々。彼らの中にいるだけで、心は満ちていく。
今のガーベラに必要なのは、愛した男ではないのだ。
トランシスは、常にガーベラの部屋にいた。帰宅すると「おかえり」と微笑んでくれる。しかし、日中彼が何をやっているのか、さっぱり分からない。
「……ただいま」
今日は何をしていたの。
その一言が訊けなくて、いつも笑って誤魔化してしまう。
部屋に彼がいるとひどく安心する。どんな関係でも、心は彼を求めていると自覚している。
しかし、二人で部屋にいると会話が続かなくて息が詰まる。逃げ出したいと思ってしまう。
あやふやな自分の心に、ガーベラは自嘲し続けた。折角教会で浄化したのに、こうしてまた身体と心に澱みが溜まっていく。
毎日、同じ事の繰り返し。心は、晴れない。
頭上の月は、屋根の一つ一つに仄かな冷たい明かりを落とす。
トランシスを食事に誘ったが断られたガーベラは、一人きりで冬の街を歩いていた。自分で食事を用意する気になれなくて、馴染みの店へ向かう。
扉をくぐると、勘定を済ませたのかこちらへ歩いてきたトビィと目が合った。
「あ……」
驚いたガーベラは、訝るトビィを見つめる。瞳を動かしていたので、トランシスを捜したのだろう。いないと分かると、小馬鹿にされたように嗤われた。
頬がカッと熱くなる。
「待って」
思わず、立ち去ろうとするトビィの衣服を掴んでいた。睨まれても、その手を離さない。
「離せ」
「お願い、今夜一緒にいて」
絞り出すような声で、とんでもないことを言ってしまった。
だが、動揺するガーベラをものともせず、トビィは静かに手を振り払って店を出ていく。
「男がいるだろ、お前の部屋に」
苦虫を潰したような顔で、突き放すように告げられた。
「お願い、話を聞いて。ずっと待っているから」
去っていく背にすすり泣いて叫び、ガーベラは彼を見送ると店に入る。
「いつものお酒をください」
店内にいた人々は、何事かと聞き耳を立てていた。しかし、そ知らぬ顔をして酒を呑み始める。食欲が失せて、ガーベラはすぐに退店した。やはり、人目が気になってしまう。
昼間は、教会にいればいい。
しかし、問題は夜だった。居場所が見つけられない。
空き家のような物静かさを彷彿とさせているその部屋で、トビィとガーベラは煙草の煙を吐く。薄い唇の間に咥えた煙草を一瞥し、トビィは嗤った。
「堂々と浮気するとは……恐れ入った」
「浮気だなんて失礼ね」
「これが浮気じゃないなら、なんだと?」
「トビィと私は、情交を愉しむ関係にある友人だもの。心と身体は別よ」
「オレに利がない関係は続いていたのか? 知らなかった」
「黙って。どうせアサギに手を出していないのでしょう? 性欲処理は私で我慢しなさいよ」
「アサギは一人の男を愛したら、貫く。他の男に心が揺れることはないし、身体も許さない」
咎めるように告げられ、ガーベラは皮肉めいて口を歪めた。
「私はアサギではなく、ガーベラよ。好きな時に、好きな男と寝る女だもの」
「愚問だったな、失礼」
贅肉のない均整のとれた裸体に指を走らせ、ガーベラは眉を吊り上げた。
「ところで、どういう心境の変化なの? アサギを愛する貴方が、蓮っ葉な私を抱いて大丈夫?」
「あのな……お前が誘ったんだろ」
「私のせいにするつもり?」
「据え膳食わぬは男の恥、助けてくれないなら死ぬと脅したのはお前だ」
トビィを見かけるたびに、ガーベラは必死になって懇願した。震える心を止めたくて、刃で胸を突きたくなる衝動から逃げたかった。
あからさまに嫌そうな顔を見せたが、こうしてトビィは了承してくれた。
初めて寝台で抱かれたガーベラは、気怠く髪をかき上げる。狡猾な猫のように妖しい媚態で動き出した身体は、再びトビィを求めて擦り寄った。
「思った通り、上手ね。焦らされて狂いそうだった」
今まで公園の寒空の下で抱かれた時とは違い、今夜はこうして一つの布に包まることが出来た。甘い余韻に浸りながら、嬉しくて逞しい胸板に頬を摺り寄せる。
路地裏で男を誘う女にするような、ぞんざいな扱いでもよかった。そのほうが、全てを忘れて快楽を貪れると思っていた。
しかし、トビィは離れた街の宿屋へ連れて行ってくれた。始終冷めた瞳だったが、それでも絶頂を迎えさせてくれた。
トランシスよりもずっと熱くて激しく、心が満たされた。
「口づけがないのが残念だわ」
「何度も言うが、アサギ以外の女とはしない」
「トビィってば、身体は許すけれど唇だけは絶対に許さないだなんて、女みたい」
「何とでも言え。口づけは特別だ、愛する女としかしないと決めている」
うっとりと告げられ、馬鹿らしいとガーベラは唇を尖らせた。報われない片想いをしているのに、無理やり男を奪った自分よりもトビィは幸せそうだ。
愛とは無償で与えるものだと、教会で神父が話していた。頷きつつも、人は漠然と愛を欲する貪欲な生物だと蔑んでいた。
しかし、トビィは違うらしい。恐らく、アサギもそうだろう。二人の崇高な雰囲気に、心が砕かれる。
では、自分のこの感情は何だと言うのだろう。愛ではないのなら、どう形容すればよいのだろう。
「……さっさとアサギをモノにしちゃえばいいのに、お似合いだもの。大丈夫、私が保証してあげる。トランシスより貴方のほうがずっと上手。アサギは一人の男しかしらないから、すぐにトビィに溺れるわよ」
「お前はオレの話を聞いていたのか? アサギはお前とは違う、上手い下手は関係ない。愛する男こそ、身体の相性が最も良い相手だ」
「っ……腹立たしい男」
魚の骨が喉に刺さったように顔を歪めたガーベラは、赤面して忌々しそうに舌打ちする。
「なるほど、理解した。オレを誘ったのは、アイツが下手で満足出来ないから、ということか。同じ部屋にいるのにそれは地獄だな、御愁傷様」
鼻で笑ったトビィに、頭に血が上る。しかし、反論出来ない。ガーベラは自嘲気味に瞳を伏せ、震えた声を出す。
「どうとでも言いなさいよ。そもそも、指で数えられるほどしか、身体は重ねていない。あちらが満足したらそれで終わり、こちらのことは無視。だって、あの人は」
言いかけて言葉を噤んだガーベラは、自己嫌悪に陥った。喉までせり上がった言葉を、必死に飲み込む。
察したトビィが、止めを刺すように開口する。
「お前を愛してない。いい加減認めろ」
弾かれて顔を上げたガーベラに、容赦なく残酷な現実を突きつける。
「トランシスが見ているのはアサギだけだ、今も昔も。隣にいる女はお前だが、多分空気だと思っている。良くてアイツの好みではない調度品、不要になればすぐに棄てる」
ガーベラは怒りを露わにしたが、図星だったので何も言えなかった。空気だったり、気に入らない調度品だったり、散々な物言いだが言い得て妙だ。
笑えてくる。
「癪に障るが、その点だけオレとアイツは似ている。興味がない女は、誰でも同じ」
刺すような視線を向けられ、ガーベラは萎んだ風船のように縮こまった。
「辛辣ね。他の言い方はなかったの? 少しは遠慮してよ」
「本当の事だ、和らげて期待させるよりマシだろ」
飄々と告げられ、ガーベラは唇を噛み締める。
寝台から這い出たトビィは、何も言わず身支度を整えた。上半身は脱いでいたが、下半身はそのままだったのですぐに終わる。
「今夜はここに泊まっていけ、代金は支払ってある」
「残酷なほど優しいわね……一人でここに泊まれと」
「部屋に戻るのが億劫なんだろ? 二人でいるのに一人でいるよりも侘しいなら、この部屋のほうが居心地がよいに決まっている」
ガーベラは口籠ったが、観念したように儚く微笑した。
「御見通しね、その通りよ。笑いたければ笑いなさい、アサギからトランシスを奪っただなんて思い上がり。あの人は、今もアサギしか見ていない」
「そんなことをわざわざ言わずとも、知っている。というより、最初から分かっている。……お前は一体アイツに何を吹き込んだ」
「……教えない。でも、トビィが聞いたら鼻で嗤うような話よ」
大袈裟に肩を竦めるトビィを見つめながら、髪を弄る。
「成程。……ところで頼みがある。アイツの気が触れているのは以前からだが、拍車がかかった。些細な事で構わないから、お前が覚えた違和感をオレに伝えろ。事細かに、全てを」
アサギを監視しろとトランシスに言われ、今度はトビィにトランシスを監視しろと言われる。ガーベラは舌舐めずりすると、妖艶に微笑んだ。
「私でいいのかしら? それを理由に、これからもトビィに迫るわよ? 貴方は極上の男だもの、逃さない」
法悦の笑みを浮かべ、脅迫する。冷酷な瞳で睨まれたが、開き直って微笑み続けた。
「……勝手にしろ」
その声には、諦めと憐れみが含まれていた。
容赦なく立ち去ったトビィを追い求めるように、一人の部屋で切ない溜息を零す。
「心の底からアサギが羨ましい。いいわね、良い男二人に想われて」
膝を抱えぼんやりと零したガーベラは、少しだけ軽くなった溜息を吐き続ける。
「でも、どちらも嫌な男。一人は最中に『アサギ』と呟くし、もう一人は名前なんて呼びやしない。全裸で抱き合った事なんて一度もないし、本当に」
最低ね。
鋭い語気で放ち、項垂れ、涙を零した。