薬の効果
ガクガク震える身体を叱咤し片付けを終えると、麻痺したような足で部屋に戻る。
色々なことが起きて、整理できない。自室に行きすぐに眠りたいのに、部屋には何を考えているのか分からない恋人がいる。
「随分遅かったね? 待っていたのに」
扉を開くなり、新たな地獄に突き落とされた。爽やかな笑みを浮かべたトランシスが、身体を求めてきたのだ。
「ま、待って!」
ガーベラは抵抗した。彼と肌を重ねることは、好きだ。しかし、今は嫌だ。いつでも良いわけではない、こんな鬱屈した状態で快楽を貪るのは耐えられない。
首筋を這うねっとりとした熱い舌を感じながら、天井を見つめる。
……あぁ、やっぱり。
ぼやける視界に、溢れてくる涙を堪える。身動ぎして抵抗するが、トランシスはビクともしなかった。呆気なく汲み敷かれ、性急に彼が入ってくる。
「い、や……!」
拒否をしても、聞いてくれない。トランシスの心は、ここにないのだ。明確になった、彼はアサギに心を乱されたままだと。
どのくらいの時間が経過したのだろう。
身体がバラバラになるほど情熱的に求められたというよりも、ただ無茶苦茶に性欲の捌け口にされたような扱いだった。ガーベラは動く気にもなれず、寝台に横たわる。
トランシスの体温も心も、冷え切っている。愛の言葉も、口づけもなかった。辛くて、寝息を立てている男を見ることも出来ない。
……これでは、トビィと同じ。
いや、トビィのほうがマシだったと自嘲する。最初から、身体だけの割り切った関係だった。
「ねぇ、トランシス。貴方、私に嘘をついたでしょう?」
強がって、そう問う。
「愛しているって、嘘でしょう? 貴方が愛しているのは、今もアサギよね」
言いながら、とめどなく涙が溢れた。
最初から、勘付いていた。繋ぎ止めようとして縋っていた頼りない糸は、しがみ付くほど呆気なく切れていく。
「私が嘘をついたから? 当然の報いだと?」
ボロボロと泣きながら、瞳を閉じる。
分かっているのに、諦めることが出来ない。不幸の渦に巻き込まれていく自分を、止められない。虚ろな瞳で、先程ミシアに押しつけられた小瓶を取り出し、震える手で蓋を開けた。
狂っているのは、分かっている。これは犯罪行為だとも、知っている。しかし、血走った瞳でトランシスの口に一気に液体を流し込んだ。
「貴方が悪いのよっ」
傍らの水を口に含み、唇を重ねて押し込む。彼の喉が大きく動くのを見て、ガーベラは引き攣った笑みを浮かべた。
真偽不明な惚れ薬を、飲ませてしまった。イカれた女がくれたものだ、毒薬かもしれない。喉の奥で嗤い、幾度も水を飲み干す。
「惚れ薬ですって。これで、私の虜になってくれるかしら? そのほうが、全員幸せになれる。大丈夫、アサギにはトビィがいる。何も悲しむことはない」
紫銀の髪に指を通し、どうにでもなれという捨て鉢な気分で微笑む。身も心も疲れ果て、寝台にどさりと横たわった。
一体、自分はどこまで澱んでいくのだろう。
「私には、なぁんにもない」
喉に手を添え、そう呟く。唄えない歌姫など、ただの女。その上男まで失ったら、どうしてよいのか分からない。
「助けて……」
どうしたら救われるのかも分からず、ガーベラはチリチリと焼けつく胸に幾度も寝返りを打つ。
いつしか、眠りについていた。
翌朝目が覚めると、トランシスはまだ眠っていた。
握り締めていた空の小瓶に気づき、慌ててそれを鞄の中に隠す。
酔っていたこともあり、思い切った行動に出てしまった。あの怪しい女を信じていないのに、何故愛する男に得体の知れない液体を飲ませてしまったのかと頭を抱える。
彼の唇に指を添えると、空気を感じる。死んではいない、生きている。
本当に惚れ薬か疑いつつ、ガーベラはじっとトランシスの寝顔を見ていた。
彼が起きたのは、太陽が真上を通過する頃だった。
「おはよう、ガーベラ」
「お、おはよう、トランシス。よく眠れたみたいね」
「あぁ、とても。酒を呑み過ぎたかな、少し頭が痛いし、なんだろ……口内が不味い」
こちらを見て言うので、ガーベラの身体が跳ねあがった。疚しさを隠すように視線を逸らし、引き攣った笑みを浮かべる。
「ど、どうしたのかしら。お水を飲んだら?」
「そうする」
トランシスは、大人しく水を飲んでいた。特に変わった様子はないので、胸を撫で下ろす。眉唾物だったと安堵しつつも、少し残念に思えた。
その後は二人で昼食を食べ、部屋に戻り、微笑んでいるトランシスと会話する。
以前より、優しい気がする。もしかして、薬の効果ではないかと胸が躍った。
「身体を洗いましょう、昨晩随分汗をかいたから」
語気を強めると、トランシスが瞬きを繰り返す。
「あぁ、そうだった。最高の夜だったけど、ごめんね、酷くして。我慢できなくて」
「い、いいのよ。激しくされたほうが、愛されている実感が沸くから」
最高の夜、と言われ妙な違和感が胸をよぎる。 アサギから聞いていた話とかなりかけ離れた、自分の快楽を得られればそれで構わない、酷い扱いだった。あぁいった、野性的な情交を望むのだろうかと眉を顰める。
記憶が甦り、身体が恐怖で震えた。
思い出すのは、惑星チュザーレで無理やり犯された時の事だった。愛する男に抱かれているのに、どうしても最悪な夜が重なってしまう。
「ガーベラは情熱的だね。激しいのが好きだなんて」
「そ、そんなことはないけれど。愛を感じられて嬉しいと思うわ」
取り繕うように言うが、口元を押さえる。なんだか吐き気がする。
「……これからのこと、ゆっくり考えていきたいな」
ぽつりと告げられ、眩暈がしつつも顔を上げた。寂しそうな横顔が目に飛び込み、急に愛しさが増す。薬が効いているとしか思えず、複雑な感情に支配された。
どうしてよいのか分からず俯くと、突然抱き寄せられ髪を撫でられる。あまりのことに呼吸が狂い、バクバクと音をたてて鼓動が脈打つ。
「もっと近くにおいでよ。今日は随分と余所余所しいね? 何かあった?」
薬のことを仄めかされているようで、身体中が凍る。何気ない一言だろうに、疑心暗鬼になってしまう。ガーベラは調子を戻す為、幾度も踏み止まってから開口した。
「何もないわ。ただ、私も少しお酒が残っていて頭が痛いの」
「そうか、お揃いだね。ねぇ、後で気持ちいいことする?」
驚いて見上げると、無邪気に微笑むトランシスが見えた。返答に困り、呆けてしまう。
どう見ても、これまでより優しい。望んだトランシスの態度に、薬のおかげだと震えた。
ミシアの惚れ薬は、本物だった。嬉しさが込み上げ、彼の頬に手を添える。
「え、えぇ。でも私、陽があるうちからこういうことをしたことがなくて。なんだか恥ずかしいわ」
ようやく恋人になれたのだと、浮かれた。例えそれが、偽りであっても。
「初々しいなぁ、気にしなくていいのに。オレは四六時中抱いていたいよ、時間なんて気にしない。恋人って、そういうものだろ?」
背に手をまわし、撫で擦る。陶酔の溜息を吐き、彼の匂いを胸いっぱいに吸い込んだ。汗ばんだ、少し酸っぱい匂いは媚薬のようでクラクラする。
彼の背に腕をまわして喜ぶガーベラは、トランシスが浮かべている表情を知らない。
瞳は、微塵も笑っていなかった。