彼を動かすもの
喉を押さえ、ふらつきながら街を歩く。
「ガーベラさん、こんにちは!」
「こ、こんにちは」
声を出すことは出来る。
しかし、唄うことが出来ない。
「ど、どうして……」
寒風が刺すように痛いが、公園にやって来た。誰もいない物悲しい場所で、口を大きく開く。
しかし、どうしても唄えない。
あんなにも唄うことが好きだったのに、それを取り上げられてしまった。
「まさか」
思い当たることがあって、口を塞ぐ。
「唄よりも、トランシスを選んだから……?」
唄うために娼婦をやめ、この惑星へやって来た。それなのに、いつしかトランシスを優先していた。唄を待つ人々をないがしろにし、彼に幾度も会いに行った。
それに嫉妬した“唄”の反抗のようで、自嘲気味に嗤う。自分は必要ないのだろう、と言われている気がした。
「唄えない歌姫は、そこらに棄てられる……いえ、埋められる。もしかしたら、鞭で叩かれ続けるのかも。でも、私は愛する男といることを望んだの。歌姫を棄て、一番欲しいものを手に入れた。これで、満足よ」
自暴自棄になって叫ぶと、吹きすさぶ風が嗤いながら通り過ぎていく。
「……欲しかったものは部屋にいるのに、帰りたくないなんて。変よね」
こういう時にこそ唄いたいのに、声が出ない。
唄と男、どちらか一つしか選んではいけないのだろうか。どちらも欲しいというのは、我儘なのだろうか。
「このままでは、唄も男も失くしてしまう」
身体の芯まで冷え切るほど、そこに佇んでいた。
憂鬱なまま自室に戻ると、トランシスは出掛ける時と同じように寝台に転がっていた。
「ただいま」
「おかえり」
返事はくれるが、何も訊いてくれない。『寒かっただろう? 楽しかったかい? 話を聞かせて?』そんな会話は、二人にはなかった。そもそも、こちらを見てくれない。
意を決し、ガーベラは提案する。
「ねぇ、明日はお散歩に行きましょうよ。美味しいものを食べて……」
「寒いから嫌だ」
気分転換をしたら距離が縮まるのではないかと思ったが、トランシスは布団に包まり出てこない。
「それから、今後の事だけれど。二人でお金を貯め、別の街に引っ越しましょう。いつまでもここにいるのは、彼らに悪いわ。働き口は沢山あるから大丈夫よ」
子供を諭すような口調で告げると、トランシスは不機嫌そのものの顔を見せる。
「何で? ここ、便利じゃん。全部揃ってるし、食い物もある。オレはここがいい」
こちらを責めるような声にガーベラは狼狽え、言葉を選んで開口した。
「けれど……その、居心地が悪いし。そもそも、ここは勇者たちの館よ。御恩で置いてもらっているけれど、戦えない私は無関係。いつまでも図々しく居座るわけには」
「気にしすぎだよ、大丈夫。オレはここにいたい」
飄々と言われ、ガーベラの端正な眉が歪んだ。トランシスの『ここにいたい』という言葉を、勘ぐってしまう。
……それは、ここにいたらアサギに会えるからなの? 離れたくないということ?
問い質そうとして、言葉を飲み込んだ。恐ろしくて訊けない、答えはもう分かっている。
「お腹空いたでしょう? 食事を用意するわね」
「ん」
深い溜息を吐き部屋を出た。トランシスは、見向きもせずに片手を上げただけだった。
重たい脚を引き摺って食堂へ向かうと、騒がしい。忙しなく仕込みを始めているマダーニに、躊躇いがちに話しかける。無視をするような女性ではないと知っているからこそ、気が引けた。
「あの、今日は何か?」
「えぇ、お食事会があるの」
すぐにピンと来たガーベラは、声を落として確かめる。
「……アサギが来るのね?」
マダーニは多少唇を尖らせ、頷いて肯定する。
「わ、私たちも参加して良いかしら。アサギもお料理作るの? 私、彼女の手料理が大好きなの。目新しくて、美味しくて」
流暢に言葉が飛び出すが、マダーニに怪訝な顔を向けられ腰が引ける。皆が愛するアサギに酷い仕打ちをしたのは自分で、自業自得だと承知している。しかし、以前は深夜まで飲み明かしていた仲だ。こうして冷徹な瞳と向き合うのは辛い。
明らかに拒否されているが、固唾を飲んで彼女の言葉を待った。
「正直に言うと。……出来れば席を外して欲しい」
ガーベラは苦笑し、御尤もだと頷いた。
「けれど。……貴女の大事な恋人が大人しくしてくれるのであれば、構わないわ。いなかったら、結局アサギが気を遣いそうだし」
大きな溜息と共にそう言われ、ガーベラの瞳が丸くなる。
「彼に念を押してね、食事をするだけだと」
「あ、ありがとう! 私にも手伝わせて、何をしたら良い?」
厳しい目つきをしていたが、ガーベラには優しく聞こえる声だった。やる気を出し身を乗り出すと、マダーニはたじろぎ渋々小麦粉を指す。
「なら、パンを焼いてくれる? 色んな種類があるといいわね、大勢くるからたくさん焼いて」
「任せて、頑張るわ! 他には何が?」
「私が肉料理、ミシアがスープ、トビィちゃんが魚料理、アサギちゃんはこっちへ来たら卵料理を作るって」
「楽しみね!」
萎れていた花が咲いたように、ガーベラは急に明るくなった。マダーニと会話が出来た事、調理を任されたことが心の底から嬉しかった。
「その前に、何か口にしたら? まだ時間はある、どうせ何も食べていないのでしょう」
「そうね、ありがとう!」
「そこに私が作ったスープの残りがあるから、よかったら飲んで」
「わぁ、嬉しい!」
声色は冷たいが、以前のように会話出来たことに涙が込み上げてきた。気づかれないように、背を向けてスープを温める。
「人を好きになるのは、自由よ。誰かを好きになってはいけない規則なんて、ないわ」
ぼそっと呟いたマダーニに、はっとして振り返る。ガーベラに背を向け視線を合わせなかったが、言葉は続く。
「その道を選んだのなら、しっかり幸せになりなさい。奪っておいて駄目でした、だったら承知しないから」
震えながら頷くと、スープに一滴涙が零れ落ちる。祝福はされていない、けれども応援はしてくれるようだ。天にも昇る勢いで、嬉しかった。
キャベツと玉葱の平凡なコンソメスープと、昨夜の残りのパンを持ってガーベラは部屋に向かう。
おかげで、牢獄のような部屋にも足取り軽く戻れた。
「おまたせ、いただきましょう」
「ん」
食事中は無言で、腹が満たされるとトランシスは再び寝台に転がる。何も変わらず多少気落ちしたものの、先程の言葉が勇気をくれた。
天井を眺めてぼんやりとしているトランシスを見つめ、唇を湿らせると震える声を出す。
「今夜、お食事会があるんですって。参加しましょう」
トランシスは反応しなかった。横目でその様子を見やり、糸で縫い合わされたような口を強引に開く。
「私、今からお手伝いで仕込みをしてくるから。お食事会は、アサギたちがこちらへ来てから始まるみたい。きっと、学校が終わってから来るのね」
アサギ。
その単語が発せられた途端に、トランシスの瞳が大きく開く。次いで、口角がゆっくりとあがった。
間近にいたガーベラには、残酷なほどその様子と感情の変化が伝わった。胸が跳ね上がり、突き刺さっていた棘がじんわりと沈んでいく。
唇を噛み締め、空の食器を持つと逃げるように部屋を飛び出す。
「やっぱり、アサギには反応する」
長い溜息を吐き、萎んだ風船のようにハリを無くしたガーベラは、もつれる足で一階へ向かう。
トランシスに抱かれる日は、全て共通点があった。
初回はガーベラが嘘をついて寝取った、あの日。
二回目は転がり込んできたアサギの誕生日の、朝。
そして三回目は、アサギが物言いたげな表情で訪問した日。
アサギが関係しないと、トランシスは動かない。
「もし、私の考えが合っているのならば」
ガーベラは、小刻みに震える身体で気丈に歩いた。再び青白くなった顔に気づかず、癖になってしまった溜息を吐き続ける。
……今夜、トランシスは私を抱く。
瞳を固く閉じ、込み上げてきた吐気に耐えられず壁に寄りかかる。口に出しそうになった言葉を、どうにか飲み込んだ。
食堂へ戻ると、そうならないようにと願って懸命にパンをこねる。
出来れば、今夜は抱かれたくない。身体は求めているけれど、今夜は嫌だ、せめて明日にしてと、心の中で嵐のように叫び続ける。