唄えない歌姫
重たい脚を引き摺り、自室へ向かった。
憂鬱な溜息を扉の前で吐き、部屋に入る。何故こうも、自室が億劫なのか。恋が実ったのに、安らげる場所がない。
「遅かったじゃん」
「ごめんなさい」
寝台に転がっていたトランシスが起き上がり、こちらを見ている。気にかけてくれたことを喜んだが、視線を追って心が萎んだ。
彼は、手の中のワインを見ている。
「ワインとチーズを頂きましょう」
眺めていたトランシスの瞳が細くなり、うんざりした表情を見せた。
「それ、赤?」
「えぇ、そうよ?」
「オレ、白が好き」
「そうなの!? ごめんなさい、交換してくるわ」
初耳だ。
今まで言われたことがなかったので、動揺する。これまでに何本かワインを贈ったが、全て赤だった。ガーベラは焦ってワインを持ち上げた。
「オレが行くよ、ここで待ってて」
立ち上がったトランシスは、爽やかな笑みを浮かべていた。
「え、でも」
「いいって、これくらいオレがやる。ガーベラはくつろいで」
食堂には、まだ勇者たちがいるかもしれない。彼らの気分を害することを恐れ、ガーベラは首を横に振った。
「大丈夫よ、すぐそこだもの」
「いいから、いいから!」
しかし、トランシスは引かなかった。脅迫するように凄んでガーベラからワインを奪うと、飄々と部屋から出ていく。
追うべきか迷った。騒動が起きそうで、気が気ではない。
心理的に追い詰められ、狭い室内を彷徨う。早く戻って来て欲しいと祈り続ける。
どのくらいが経過したのか。
ワインの交換にしては長く感じたが、トランシスは真顔で戻ってきた。何かあったか訊こうにも、何処かピリピリした雰囲気に口を真横に結ぶ。
やはり、彼らと一悶着あったのだろう。
申し訳ないことをしたと、項垂れた。純粋な彼らに迷惑をかけることはしたくない。
「さぁ、呑もう」
夜空に浮かぶ月も凍えるような夜、白ワインを呑み交わす。
まったりとした甘い時間に、心が躍った。ようやく恋人らしい雰囲気を堪能し、酔いがまわったガーベラは、静かに呑んでいたトランシスにしなだれる。太腿に掌を添え、優しく撫で擦った。
肌が恋しい。
熱っぽい息を吐き、強請るように擦り寄る。
アサギが訪れた夜以来、抱かれていない。ずっと同じ部屋にいて暇を持て余しているのに、トランシスは指一本ガーベラに触れていなかった。
上目づかいで足を組み替え、胸を押しつけ誘惑する。しかし、あからさまな態度をとっても、見向きもしない。
「眠くなった、おやすみ」
奮闘虚しく、結局今夜もまたトランシスはすぐに眠りに堕ちた。
「はぁ……」
寝息を立て始めた憎らしい横顔を見つめ、ガーベラは幾度めかの溜息を吐く。身体中に籠った熱を発散したいのに、できない。相手は目の前にいるのに、その気になってくれない。こんなことは初めてだった。
あまりにも、惨めだ。
「私の性欲が強いのかしら」
情けなく口にしてから、違うと否定し眉を寄せる。
トランシスは言っていた、アサギはよく『気絶をする』と。それほどまでに、激しく抱いていたのだ。
アサギも言っていた、『途中から記憶がなくなる』と。それほどまでに、激しく抱かれていたのだ。
つまり、トランシスの性欲は普通にある。
では、今は。
答えは出ているのに、ガーベラは逃げるように考えることを止めた。
温くなったワインを飲み干し、項垂れる。
片想いをしていた頃は、一喜一憂したものの愉しかった。
晴れて恋人になったものの、両想いであるのか疑わしくて苦笑する。幾ら『愛している』と囁かれても、アサギから聞いていた話とは違い、薄っぺらな紙切れのような言葉に思えた。
中身がまるでない。
最初は浮かれていたが、共に過ごすうちに痛感した。
アサギは『朝まで抱き締めてくれるから、ずっと一緒』……そう嬉しそうに話していた。
そんなこと、なかった。
付き合い始めが燃えるだろうに、三度しか身体を重ねていない。しかも、めくるめく余韻もない。まるでゆきずりの相手のように、すぐに背を向けて眠ってしまう。
このままでは、行為自体がなくなるような気がした。
身体の相性が悪いのだろうか、そう悩むが、答えは出ない。娼婦時代は褒められたが、トビィとの一件を思い出し気が滅入る。
幼いアサギと比較されている気がして、自分を恥じた。
「そ、そりゃあ、何も知らない清純無垢な少女を自分の色に染めてきたのだから、使い古された私では退屈極まりないのかもしれないけど」
言っていて、虚しい。
恋人は初めてだが、数多の男が上を通った。男を悦ばせる技術はあっても、満足させられる身体ではないのかもしれない。
今日もまた、浅い眠りを繰り返したガーベラは朝を迎えた。
木々は白く輝いて眩いが、気分は晴れない。
気持ちを切り替え、眠っていたトランシスに朝食を用意し、教会へ出向く。
寒さに身体が震えるが、数日ぶりの顔出しに気分は高揚してきた。外の空気を思い切り吸い込み、不浄なものを体外へ排出するように長い息を吐く。
「おはようございます」
「おや、ガーベラさん。おはようございます」
「時間が出来たので、お手伝いに参りました」
「それは嬉しい。子供たちが唄を聴きたがっています、朝食の後お願いします」
「えぇ、勿論です」
配膳を手伝ったガーベラは、明るい笑顔で集まってきた子供らに癒された。子供が産めない身体は辛い、しかし、その分この子たちに愛を贈ろうと抱き締める。
「お唄ききたいー!」
「唄ってー!」
もみくちゃにされながら、久し振りに大声で笑った。とても楽しくて、顏に赤みが戻る。
「こらこら、そんなに引っ張らないで。唄えないわ」
子供たちをあやしたガーベラは、ようやく静かになった皆の顔を見つめる。
そうして、いつものように口を開いた。
「…………」
だが、蒼褪め喉を押さえる。
子供たちがざわめき、気づいた神父が駆けつけた。
「ガーベラさん。無理して来てくださったのですね、今日はもうお休みください。自身の身体を労うことは、重要ですよ」
優しい言葉をかけられ、ガーベラは喉を大きく鳴らして地面を見つめる。
唄えない。
声が出ない。
唄い方を、忘れてしまった。