見えぬ心
脳内でトビィの声が反響している。
『あの男は、オレと同じでアサギしか愛せない』
拳を強く握り、ふらつく足取りで教会へ向かう。詫びるため、途中で焼き菓子を購入した。
神父に深く頭を下げ、手土産を渡し、暫く来られないことを告げる。
「ごめんなさい」
「こちらのことは気にせずに。しかし……顔色が悪いですな、大丈夫ですか?」
「風邪を引いたのかもしれません。最近忙しくて、睡眠時間をとることができなくて」
心配され、神父は手作りの薬草茶をくれた。子供たちが摘み、乾燥させたものだという。優しさが身にしみて、泣きそうになった。
館を出てからずっと、産毛が逆立っている。ガーベラはぎこちなく微笑み、口元を押さえて教会を去った。
食欲はないが、トランシスのために好きそうなものを見繕う。パンにワイン、そしてチーズと、肉の煮込み料理を購入した。
「大丈夫よ、トランシスは『愛している』と言ってくれた。ここに住むとも、言ってくれた。ずっと一緒なのよ、だから大丈夫」
幾度も言い聞かせ、トビィの声を振り払おうとする。
しかし、どうしても消えてくれない。
『アサギしか愛せない』
咎めるように、トビィが言い続ける。
寒さに震えながら戻ると、館はやはり静まり返っていた。
少し安堵し、誰にも会いませんようにと祈りながら、ガーベラは二階へ急ぐ。
「ただいま」
小声で呟き部屋に入ると、寝台に腰掛けていたトランシスと目が合う。
一瞬、ドキリとした。胸が高鳴ったわけではない。
「起きたのね。下で食べるのは、気が引けるでしょう? 窮屈でしょうが、ここで頂きましょう」
何かに憑りつかれたように、身体を上から下まで舐めるように見つめるトランシスに寒気がする。瞳に光が宿っておらず、死人のようなその表情に違和感を覚えた。
戸惑いながらも、ガーベラはやんわりと微笑んだ。
「すぐに食べる? 美味しそうなお肉があるのよ」
普段はワインとグラスを置くだけの小さな卓子に荷物を置くと、いきなり背後から抱きすくめられる。
「え!?」
驚いて振り返ろうとすると、口を手で塞がれた。二人はもつれながら床に倒れ込む。
強い力で床に抑えつけられ、荒い呼吸を繰り返すトランシスの手が淫らに動き回る。かと思えば、すぐに体内に熱いモノが打ち込まれた。
余裕のない態度で自分を求めてくれる姿に、ガーベラは胸が打ち震えた。こちらも応えねば、と過剰に腰を振って誘う。離れていたので、寂しがってくれたのだろう。こびりついていたトビィの声が、呆気なく掻き消される。
恍惚の笑みを浮かべ、歓喜した。
「アサギ」
トランシスが苦々しく漏らした、その名を聞くまでは。
途端に現実に引き戻された。
煮え湯を飲まされるような思いに、身が引き千切れる。だから、名を呼び間違えただけだと自己欺瞞に溺れた。
あちらのほうが長い間一緒だったのだから仕方がない、前の女の名を呼ぶことなど、よくあること。男は女ほど狡猾ではないから、つい口を滑らせてしまっただけ。
そう信じなければ、全てが崩れ去ってしまう。
とうに解っていたことなのに、ガーベラはまだ抗った。トランシスが愛する女は誰か、この時点で気づいている。
それでも、認めない。
男の息づかいと、それに混じる『アサギ』という名。トランシスは今、どんな顔をしているのか。ガーベラは、それすらも知らなかった。
表情が、見えないのだ。
三回、乾いた空気に心許無い音が振動する。
脂の匂いが充満している部屋で目を覚ました。いつの間に眠っていたのだろう、気づけば寝台に転がっている。
外で、誰かが扉を叩いている。
気怠い身体を起こし、燭台に火を灯す。ガーベラは寝台から滑り降り、痛む足を引き摺った。
先程床で求められ、膝を擦りむいたらしい。荒っぽく扱われ、そこら中が痛い。
それでも、その痛みは愛の証だと誤認した。
「……はい、どなた?」
顔を覗かせたガーベラは、来訪者を見下ろし息を止める。愚かだと思ったが、周囲に誰かいないか不安になり見渡した。人気がない事を確認し、胸を撫で下ろす。
ひっそりと、アサギが佇んでいた。
「あ、あの。ガーベラ、少しお話がしたくて。ごめんなさい、今、大丈夫ですか?」
「え、ええ……」
息を飲んで瞳を泳がせたガーベラは、胸元を直した。乱れた着衣と髪が、罪悪感を掻き立てる。白々とした空虚感が、黒い澱みとなって心を侵食する。
アサギは普段通り澄んだ瞳で、その様子を見つめていた。
全てを見透かし、咎められているような視線に耐えきれず、ガーベラは後退する。矢面に立たされることは我慢できたが、この視線を受け止める勇気はなかった。
どうしても苦手なのだ、聡明さに耐えられない。
「あの」
「ガーベラ、来いよ」
口を開いたアサギの決意を秘めた声が、かき消された。
「ちょ、ちょっと!」
開いた胸元から手が忍び込む。過剰に反応したガーベラは、アサギの目の前で身悶えた。後ろで、トランシスの含み笑いが聞こえる。
大きな瞳が見開かれ、アサギが硬直している。
ガーベラは真っ赤になって身を捩るが、強い力で拘束され動けない。
「ガーベラの身体はイイよね、早く続けよう」
アサギが浮かべた絶望に堕ちたその表情は、ガーベラの胸を突き刺す剣となった。対面出来るほど頑丈な精神を持っておらず、必死に顔を背ける。
「何? お前邪魔なんだけど? 見れば分かるだろ、オレたちは忙しい。消えろ、馬鹿」
激語を発するトランシスは、追撃するように鼻で嗤った。
「まってっ」
全身から嫌な汗が吹き出るが、顎を掴まれ唇を重ねられる。
アサギの目の前で事に及ぶなど、有り得ない。それでも、トランシスは吸いついたまま離れようとはしなかった。
くぐもった吐息が、周囲に響き始める。
「ご、ごめ、なさ、い……失礼、しま、した」
棒読みでそう告げたアサギが、数歩下がる。その表情には、恐怖の色が濃く刻まれていた。
ガーベラが確認できたのは、ここまでだった。トランシスが乱暴に扉を閉めたので、その後のアサギは分からない。
「トランシスッ! 一体何をっ」
ようやく自由になった唇で、非難の声を上げる。こんな風に荒波を立てたいわけではない、出来れば穏便に過ごしたいのにと訴える。
「キャッ!」
しかし、勢いよく扉に押しつけられ、立ったまま背後から抱かれた。
激しくぶつけられるので、扉がギシギシと軋む。この向こうにアサギがいないことを願いながら、ガーベラは歯を食い縛った。けれども、どうしても甘い声が漏れてしまう。
「やめなさいっ! こんな、こんなことっ!」
いつだったか、路地裏で下卑た男たちに犯されたことがあった。それと同じに思えて、悔しくて涙が滲む。
執拗に扉に押しつけるトランシスに、ガーベラは察した。
これは、故意だ。アサギに見せつける為に、必要以上に激しくしているのだと気づいてしまった。