指摘
怒りに任せ、トランシスの頬を平手打ちする。
しかし、寸でのところで止められた。ほくそ笑んでいるトランシスを、荒い呼吸のまま睨みつける。
「暴力はよくないなぁ」
「貴方だって、今っ!」
自分を棚に上げ、いけしゃあしゃあと告げる男に吼えた。
弱っているアサギを叩き、あまつさえ手を踏みつけた。有り得ないと唇を震わせ、ガーベラは掴まれている手首を懸命に振る。
突然パッと放され、勢い余って数歩後退する。
「……一体、何を考えているの?」
疑惑を籠め問うと、トランシスは喉の奥で嗤う。
「何を? オレはね、ガーベラ。貞操観念がゆるい女が大嫌いなんだ。汚らわしい、吐き気がする」
抉るように見つめられ、ガーベラは硬直した。
「昨日ガーベラが教えてくれただろ? アイツは娼婦だと。反吐が出る」
ズクン、と心が震える。
まるで、自分が咎められているようだった。トランシスはガーベラが娼婦だったことを知らない筈だが、その恐ろしいまでに澄んだ瞳に気圧される。
背筋を伝う冷たい汗に震え、咄嗟に言い訳をした。
「しょ、娼婦にだって色々あるわ。生きるために仕方なく職に就く女もいる、私は立派な職業だと思っている。好きでもない男に抱かれるのは、辛いでしょうに」
自分はそうだった、と叫んだ。『貞操観念がゆるい』などと言われ、涙が滲む。気づけば娼館にいたのだ、客をとる前に死ねばよかったのだろうか。
悔しくて悲しくて、ガーベラは俯いた。
「あぁごめん、言い方が悪かったね。オレが嫌悪するのは、見境なく男を漁る阿婆擦れのことだよ」
宥めるように優しく告げられ、ガーベラはぎこちなく頷いた。それでも、一気に世界が変わったようで脚が竦む。
絶対に過去を知られてはならないと、奥歯を噛み締め決意した。
トランシスは寝台に転がり、何事もなかったかのように欠伸をしている。ガーベラは気まずさから瞳を泳がせ、ふと窓から外を見つめた。
教会が瞳に入り、蒼褪める。
昨日、トランシスに会いに行ったため、教会との約束を破ってしまった。謝罪せねばと狼狽え、支度を始める。信用問題に関わる、汚点は避けねばと焦った。
忙しなく動いているが、トランシスは何も言わない。まるで、目に入っていないように。
「トランシス。私、教会へ行くけど……一緒にどう?」
一応声をかけたが、返事ではなく寝息が聞こえてきた。直に断られるより救われた気がして、ガーベラは嘆息する。
漠然と、誘ったところで彼は来ないと思っていた。
身支度を整えると、安らかな顔で眠っているトランシスの頬に口づける。
「行ってくるわね。食事を買って帰るから、待っていて」
子供に告げるように囁き、自室を後にした。
廊下は静まり返っている。
跳ね上がる心臓に怯えながら、アサギの部屋の前を通過した。
誰にも会いませんようにと願いながら階段を下り、一息ついたところで、食堂から出てきたトビィに遭遇する。
足に根が生えたように動けず、ガーベラは冷淡な視線に射抜かれた。空気が湿気を含んで重くなり、呼吸もままならない。
「アイツに手を出すな、と言っただろう」
殺意が籠められた声に、カッとなったガーベラは声を張り上げる。
「出していない、出されたのよっ」
「……ほぉ? アイツが手を出したのか? お前に?」
値踏みするように睨まれ、ガーベラは強張る身体を必死に宥め鼻で笑う。
「そ、そうよ」
違う。
全裸になってしなだれ、アサギを蔑み、告白して口づけた。昨日の大胆な自分を思い出し、眩暈がして唇を噛む。
しかし、揶揄うように見てくるトビィに苛立ち、精一杯の怒りを籠めて睨みつける。
「有り得ないだろ、そんな嘘を誰が信じるものか。一体、奴に何を言った。どうやって取り入った」
凄まれ、足から崩れ落ちた。あまりの殺気に、立っていられなかった。
「あ……」
床に座り込むが、トビィは見下ろしたままだ。救いの手は、伸びてこない。ガーベラは縮み上がり、ガタガタと歯を鳴らす。
「お前は知らないようだから、教えてやろう。あの男は、オレと同じでアサギしか愛せない」
「だ、黙って! トランシスは私を選んでくれた、恋人だと言い、愛を囁いてくれたっ!」
聞きたくないので、ガーベラは死に物狂いで叫ぶ。
伸びてきた手に胸元を乱され、小さな悲鳴を上げた。ふくよかな胸の谷間が露になり、赤面してトビィを睨みつける。
「抱かれたのか? アイツに?」
「そ、そうよっ」
平然と肌を観察するトビィの視線から逃れたくて、胸元を正す。怒りで肩を上下させ、恨みがましく見つめる。
「私の身体はトランシスのものなの。気安く触れないで」
「抱かれた割には鬱血痕が一つもないが? アイツはこれ見よがしにアサギの肌に残していたが……お前、本当に抱かれたのか?」
心底憐れむような声に、ガーベラの身体が凍りつく。
トランシスの癖は知っている、惚気話で幾度も聞かされた。『他の男に悪戯されていないか確認する為に、逢う都度同じ場所に印をつけている』と。自分の所有物だと強調している、とも豪語していた。
岩壁すら貫くような強い視線に耐えかね、ガーベラは顔を背ける。
「抱かれたわよ。私の肌は綺麗だから、痕をつけたくないんですって!」
引き攣った笑みを浮かべ、吐き捨てた。
トビィは肩を竦めると、関わるのも面倒だというように立ち去る。虚言だと気づいているのだろう、悔しくて叫んだ。
「以前!」
声は掠れていたが明確な発音に、トビィが怪訝に振り返る。
引き攣ってはいたが勝ち誇ったような笑みをどうにか浮かべたガーベラは、喉の奥で嗤った。
「私とトビィは似ていると言ったけど、違っていたわね。訂正するわ。私は、ずっと見ているだけなんて嫌だったの、欲しかったから、手に入れた」
こうなったらとことん悪女を演じてやる、と自暴自棄になる。違う自分を演じねば、壊れてしまいそうだった。
ただでさえ、“考えてはならぬ恐ろしい真実”を胸中に閉じ込めているというのに。
トビィは最後まで聞いていたが、何も言わずにそのまま足を進める。救いを求めるように、ガーベラは続けた。
「トビィもアサギを手に入れたら? あの子は傷ついている、今なら容易いはずよ。貴方ならば皆も納得するでしょう、お似合いだわ」
そのほうが、ガーベラの気が晴れる。このままでは不憫なアサギが気になってしまうし、何よりトランシスの心変わりが恐ろしかった。
いや、心変わりではなく、二人が元の鞘に収まることが怖い。アサギが他の誰かのものになってしまえば、トランシスとて諦めてくれるだろうと保険をかけた。
張り裂けるような殺気が充満し、トビィが静かに振り返る。
「アサギはな、寂しいだけで好きでもない男に頼る女じゃない。お前とは違う、一緒にするな」