■『い』
一息つき、通夜のような空気の中でマダーニは何種類かの薬草を炒っていた。
ツンとした香りが鼻先をくすぐると、感覚が冴える。会話がないまま準備を終えたらしいクラフトとマダーニは去り、食堂には二人が取り残された。
「大丈夫かしら……」
何気なく呟いたガーベラは、そっとトランシスを見つめた。彼は煙草をふかしながら、感情の読めない表情を浮かべている。
濃い目に淹れた珈琲を出すと、トランシスの前に着席する。暫く二人は、居合わせた他人のような空気でそこにいた。
肌を重ねた仲とは、とても思えない。
……私たち、恋人同士なのよね?
ガーベラは幾度も訊ねようとして唇を開きかけたが、そのたびに慌てて珈琲を啜った。訊けば「そうだっけ?」と返されそうな気がして恐ろしい。愛を伝えて感じ合い浮かれていたが、彼が何を考えているのか全く分からない。
皆に、わざと関係をひけらかしていたように思えてきた。何故そんなことをするのかその先を考え、手の甲に爪を立てて思考を散らす。
「そ、そろそろ部屋へ戻りましょう」
「……そうだね」
二杯目の珈琲を飲み終えたところで、そう告げた。トランシスは抑揚のない声で同意し、音もたてずに席を立つ。急いで食器を洗い、片づけた。
その間、トランシスはどこか遠くを見ていた。ガーベラは不安で鼓動が速まる胸を押さえ、唇を噛む。
だが、階段を昇ろうとすると、突然肩を抱かれた。手の温もりに顔を染め、トランシスを見上げる。彼の口元には、うっすらとした笑みが浮かんでいた。
先程まで虚無の世界にいた男が、戻ってきた。
単純に機嫌が悪かっただけなのかと思い、ガーベラは嘆息した。妙な事を訊ねなくてよかったと、胸を撫で下ろす。
もう少しで昇りきるところで、激しい足音が近づく。
顔を上げると、怒りで顔を真っ赤にしたトモハルがこちらを睨んでいた。
喉の奥で悲鳴を上げたガーベラだが、肩を強く抱かれ焦ってトランシスを見上げる。平然としている彼にすり寄られ、混乱した。
血走った瞳のトモハルが飛びかかろうとした瞬間、後方から腕が伸びた。怖々見つめたガーベラは、ほっと胸を撫で下ろす。
「離せ、離せっ!」
「落ち着け、アサギが寝ている」
寸でのところでトビィが止めた。少し遅ければ、トランシスに殴りかかっていただろう。羽交い絞めにされたトモハルは、全力で暴れている。
勇者の中で最も正義感、責任感、仲間意識が強い彼が、アリナ同様に激昂することは解っていた。何があったのか詳細を聞き、アサギを傷つけたことが許せず怒り狂っているのだろう。
猛獣のように暴れるトモハルを一瞥したトランシスは、無様だとばかりに見下して嗤った。
ガーベラは恐ろしくて、トランシスにしがみつき震えることしかできない。
「怖い怖い。退いてくれませんかねぇ、部屋に戻りたいんですけど?」
世界は自分を中心にまわっている、と言わんばかりの高慢な態度のトランシスに煽られ、より一層トモハルが歯を剥き出しにした。
さらに、挑むような目つきで肩を鳴らしているアリナの前にクラフトが立ち、険悪な雰囲気は増長する。
ガーベラの部屋は、アサギの部屋の奥にある。ここを通らなければ辿り着けない。生きた心地がしない空気の中、今はトランシスの温もりだけが頼りだった。護ってくれる彼に、稲妻のように閃いた疑惑が薄れていく。
一発触発状態の中で、悲鳴に近いデズデモーナの声が上がった。
「アサギ様、起きては……!」
狼狽するデズデモーナの腕をすり抜け、よろめくアサギが姿を見せた。
……来た。
ガーベラは真っ向から挑むようにして、乱れた呼吸と小刻みに震える唇、死人のような顔色のアサギを見据えた。
アサギの大きな瞳は、こちらに向いている。だが、自分とは合わないので隣のトランシスを見ていることは容易に分かった。
壊れたカラクリ人形のように足を引き摺り、アサギはトビィとトモハルの前に出た。息苦しそうに胸を押さえトランシスの前に立つと、弱弱しい笑みを頬に溜める。
ガーベラは息を殺して見守った。
「あ、の」
掠れた声がアサギの唇から漏れた。それはいつものハリがある声とは程遠く、脆弱で物悲しい。彼女から光が抜け落ちている気がする。
「あの、トランシス、あのね」
乾いた音が響き、悲鳴が上がってアサギが床に倒れ込む。
ガーベラは口元を押さえ、信じられないと瞳を大きく開いた。頬をぶたれたアサギが、紙きれのように脆く床に転がっている。
「邪魔」
重い泥濘のような表情で冷酷な視線を投げたトランシスに、息を飲む。あんなにも「愛している」と豪語していた女にする仕打ちではないと怯え、歯を鳴らす。
「行こう、ガーベラ」
床に倒れているアサギを見ることなく、そのまま通過する。目の前の光景を信じることが出来ず狼狽するガーベラは、初めてトランシスの凶暴さを目の当たりにした。
愛想のよい彼は、今までも度々激昂する事はあった。ただ、満面朱を注ぎ鋭利な視線を浮かべることはあっても、暴力を振るう姿は一度も見たことがなかった。
女に手を上げる男ではないと、妄信していた。
今のは戯れではない、全力で叩いた彼を間近で見てしまい肝が冷える。引き摺られるように足を踏み出すと、怒りで身体を震わせているトモハルが両手を広げて立ちはだかった。
「アンタのこと、やっぱり嫌いだ! 女の子に手を上げるなんて、最低だ!」
面倒そうに深い溜息を吐き、トランシスはトモハルを睨む。口元に意地の悪い笑みを浮かべ、威嚇するように足を踏み出した身体が、不自然に止まった。
怪訝な顔つきの彼に、ガーベラは視線を追う。足元に目をやると、死人のようなか細い腕が衣服を掴んでいる。
「あ、の。あの、私、私」
地面に這い蹲り、物言いたげなアサギが懇願するように見上げている。ガーベラはあまりのみすぼらしさに顔を背けた。娼館にいた頃、街で見かけた物乞いの女に見えて直視出来なかった。
「あ、の。い……」
涙が頬を伝う。懸命にトランシスに手を伸ばすアサギに、皆は一歩も動けなかった。あまりにも痛ましく、そして切ない。死に物狂いの姿から、強い想いが伝わった。
アサギはトランシスを求めている。
「触るな、気持ち悪い」
けれども、トランシスは華奢な手を足を大きく振って払いのけると、床に落ちた手を踏みつけた。グリグリと押し潰すように足を動かし、唖然としているトモハルとトビィを強引に押し退ける。
「なっ!?」
硬直していたガーベラの手首を掴むと、引き摺って部屋へ入った。
無慈悲な音を立て、扉が閉まる音が響き渡る。