■揺らぐ館
神経的な不調和が食堂に満ちた。
吼えたアリナの肩を、そっとマダーニが掴む。耐え忍んで首を横に振り、その腕を力強く握った。
痛みにアリナは顔を歪め、悔しさから俯いた。マダーニも激怒しているが、この場で騒ぎを起こしてはいけないと苦渋の判断をしたのだろう。
ガーベラは二人をじっと見つめ、喉を鳴らす。祝福してもらえないことは承知の上だが、以前の関係が壊れたことを認識する。
もう、この食堂で呑み交わすことはできないのかもしれない。恋人は出来たが、替わりに友人を失ったらしい。
「チッ!」
アリナは鋭い舌打ちをし、それでも納得が出来なくて未だに抱擁を続けている二人を睨む。
視線が交差し、ガーベラは大きく身体を震わせた。
被害者のような振る舞いに、アリナの頭に血が上る。壁を殴りつけ、痛みで怒りを紛らわそうとするが効果はなかった。
「この……泥棒猫! 見損なったよ、ガーベラ」
「ッ!」
皮肉めいた棘を含ませ、アリナは吐き棄てる。
再度言われ、ガーベラは足から崩れ落ちそうになった。『泥棒猫』という彼女の声が、脳内で残響となりこだまする。心臓が止まったように硬直し、そして嗟嘆した。
気づけば、誰もいなかった。
静まり返った食堂で深い溜息を吐いたトランシスは、ようやくガーベラを解放する。肩を竦め嘆息すると、椅子に腰を下ろした。
「参ったなぁ。まぁいいや、ガーベラ、飯」
横柄な態度でそう告げ、口元を歪める。
冷え切った平坦な声のトランシスにガーベラはぎこちなく頷くと、のろのろと準備を始めた。細めた瞳に、じんわりと涙が浮かぶ。
……どうしてこんなことに!
後悔の念が押し寄せる。出来ることならば、この場で倒れてしまいたかった。
しかし、震える手で手早く簡単な朝食を作り、卓子に並べる。頬杖をついて大人しく待っていたトランシスは、出てきたパンに齧りついた。
余程腹が減っていたのだろう、無我夢中で押し込んでいる。嬉しいのに釈然としないのは何故だろうと自問自答を続け、ガーベラは食事を貪るトランシスを見つめていた。食欲がなくて、自分は白湯だけ数口飲んだ。
無意識のうちに、携帯していた煙草を取り出す。ふっくらとした唇で挟み、火をつける。ゆっくり吸い込むと、少しだけ気が晴れた。
煙草など、いがらっぽいだけで良いことなどないと思っていた。何処かの街で『流行っているから』と受け取ったが、別の男に「喉に悪い」と教えられた。そうであれば、歌姫である自分には毒だ。
ただ、緊張状態を緩和するらしいので、時折吸っていた。効果の有無は定かではないが、なんとなく落ち着く気はしている。
今吸っているのも、そういうことなのだろう。溜息とともに煙を吐き出す。とても不味いのに何故吸うのか、自分でも分からない。
「それ、煙草?」
「え、えぇ」
怪訝な声で問われ、ガーベラはぎこちなく頷く。
「一本頂戴」
「どうぞ」
トランシスは真顔で吸い始めた。慣れているので普段から常用しているのかもしれないが、見たことはない。聞きたいことは多々あるが、とても会話が出来る雰囲気ではないので、大人しくしていた。
煙が食堂の天井をねっとりと這う。
どのくらいそうしていたのだろう。
足音が聞こえたので、ガーベラは焦って立ち上がった。
うっすらと煙る室内に、入ってきたクラフトとマダーニが顔を顰める。
「ここは禁煙ですよ」
「ご、ごめんなさい。知らなくて」
道徳的に人間として完成しているようなクラフトが、渋い顔をして小言を漏らす。相当怒っていると思い、ガーベラは慌てて火を消した。
湿気を含んだように重たい空気の中で、四人は無言だった。
クラフトは湯を沸かしつつ、桶に水を汲んでいる。マダーニは戸棚から薬草を何種類も取り出し、真剣な顔つきで選び始めた。
その様子に、ガーベラが堪らず声をかける。
「もしかして、……アサギの調子が悪いの?」
張り裂けそうなガーベラの声に、トランシスの頬がピクリと動く。しかし、誰も気づかない。
「こちらのことはお気になさらず。そこまで気遣いができない人ではないでしょう? これ以上悪化させたくないの」
咎めるような冷たい口調で言い放ったマダーニに、クラフトは呆れたような溜息を吐いた。険悪な雰囲気は避けたかったが、これでも彼女なりに十分抑えたほうだ。
「そ、そうね。ごめんなさい、考えなしだった」
小声で告げたガーベラは涙を堪える。二人が怪訝にこちらを見たので、被害者面だと蔑まれたのだろう。悪いのは自分だが、親しかった面々から邪険にされるのは想像以上に辛い。
それでも、アサギの身を案じる心は確かだ。今日は彼女の誕生日で、心待ちにしていたことを知っている。
ただ、壊れた原因を作ったのは自分なので、どの顔で彼女に謝罪をすべきか分からない。
『トランシスは貴女より私を選んだの』
そんなこと、口が裂けても言えなかった。しかし、誕生日を共に過ごしてから破局するより、心の傷は浅いのではとも思っている。
そう言い聞かせねば、自分が壊れそうだった。
「こんにちはー……って、あれ?」
食堂で物音がしたので立ち寄ったトモハルが、顔を覗かせる。どことなく殺気立った空気に、不思議そうな視線を投げた。
救世主だとばかりに、マダーニは大袈裟に明るい声を出し近寄る。
「丁度良かった、トモハルちゃん! 地球のお薬を調達して頂戴」
「え、薬? どうしたんですか? 薬って言っても色々あるから、何を持って来たら……。アサギなら頭痛薬や風邪薬を持ち歩いていますけど、それじゃ駄目なんですか?」
トランシスがこの場にいるということは、アサギもいるということだ。それにしては姿が見えないので、トモハルは不審に思い眉を顰める。
引き攣った声で、マダーニは告げた。
「そのアサギちゃんが体調不良なの」
「え!? 俺、薬を見れば大体解ります。何処にいます?」
「アサギちゃんのお部屋で寝てるわ、頼めるかしら」
「はい」
トランシスが微動だしないことに、トモハルは薄々勘付いた。
普段であれば、こんなところで油を売っているわけがない。アサギの傍を片時も離れないだろうし、慌てふためいているだろう。
どんよりとした陰鬱な空気に心が波打つトモハルは、異様な雰囲気から逃げるように食堂を飛び出す。すでに、体調不良よりアサギの精神面を心配していた。




