泥棒猫
夢ではなかった。
目が覚めたガーベラは、隣で寝ていたトランシスにギョッとした。人肌の温もりが心地良いと思う前に、頭を抱え項垂れる。
嬉しい気持ちは勿論あるが、いざとなると、これからどうしたらよいのか分からなくて、焦る気持ちが大半を占めている。
よりによって、皆に愛されているアサギの恋人を寝取ってしまった。
この館に自分の味方はいないと思うと、怖くて堪らない。ふとミシアの顔が思い浮かんだが、忘れるように頭を振る。彼女はあまりにも危険だ。
巧い言い訳が思いつかず、唇を噛む。
そう、言い訳を摸索している。『自分が悪い事をした』という自覚はあった。
「おはよう、ガーベラ」
髪が摘ままれ、ツンと引っ張られる。ビクリと震え彼を見ると、意地の悪い笑みを浮かべていた。
「この寝台、狭いねぇ。もう少し大きいのがいいなぁ、そのほうが便利だ」
さりげなく言われ、ガーベラは顔を赤く染める。肌を重ねる時に、不便だと言いたいのだろう。この寝台は最初から用意されていたもので、とくに不都合はなかった。しかし、二人で寝るには確かに窮屈だ。
ふと、アサギの部屋ではどうしていたのだろうと疑問が浮かぶ。ただ、彼女は小柄なので問題なかったのだろうと思い直した。
「ねぇ、腹減った。何か食べよう」
「そ、そうね……。近くに美味しいお店があるから、そこへ行きましょう」
すでに太陽は高く昇っている。あれから熟睡してしまった自分を恥じた。
トランシスを捜して出掛けたアサギは、何処にいるのだろうか。館に戻っていたら、鉢合わせてしまう。想像すると気まずくて、ガーベラは小刻みに震えた。
「そ、外で……私が買ってくるから。ここで待っていて」
一先ず、トランシスを部屋から出さない作戦に出る。妙案だったと声を張り上げたが、不服そうな声色で「嫌だ」と否定された。
「食堂で作ってよ、ガーベラの飯が食いたい」
「で、でも、時間がかかるし……」
「それくらい待てる、行こう」
「えっ、えっ……」
狼狽するガーベラを、トランシスは無邪気に急かす。彼が何を考えているのか分からなくて、ひどく恐ろしい。誰かに遭遇したら、どう説明するつもりなのだろう。
本当にアサギと別れ、自分を選んでくれたのだろうか。だから、堂々と「つき合っている」と言うつもりなのだろうか。
不安ではあるが、身支度を整え二人は部屋を出た。
館は静まり返っており、それが酷く不気味だ。全員が出掛けていますようにと祈りながら、軋む階段を下り食堂へ行く。
そうして、心臓が跳ね上がる。
苦痛に喘ぐアサギを取り囲み、多くの仲間たちが揃っていた。焦燥感からトランシスの衣服を掴むが、彼は堂々と侵入する。
「オハヨーゴザイマース」
飄々とした普段通りの声に、全員が振り返った。
皆は言葉を発することも、睨むことも、微動だすることさえ出来なかった。ただ、現れたトランシスを、幽霊でも見たように唖然と見つめている。
次いで、瞳が驚愕に見開かれた。
「っ!」
視線を得たところで、トランシスの手が腰にまわされ、引き寄せられる。彼らの棘のような視線に、ガーベラは罪悪感と同時に小さな充実感とが交錯しているような微妙な表情を浮かべた。
しかし、見られないように俯いた。酷く歪んだ顔をしている自覚は、あった。
爽やかに微笑み全員を一瞥したトランシスは、ガーベラを更に強く引き寄せ身体を密着させる。耳元で「運動して腹が減ったよね、肉が喰いたい」と甘く囁いた。囁いた、と言っても、全員に聞こえるほどの音量だった。
つまり、故意だ。
「は……?」
胃から絞り出したような声を最初に出したのは、アリナだった。口元には引き攣った笑みを浮かべているが、怒気を含んだ瞳が二人を捕える。
「オイ、待て。こりゃ一体何の冗談だ」
アリナの怒りを含んだ声に、蒼褪めたガーベラは顔を上げる。すでに察した彼女の向こう側に、小刻みに震えているアサギが見えた。今にも死んでしまいそうなほどに、弱っている。
可哀想、気の毒、ごめんなさい。
心中で謝罪するも、打ちひしがれたアサギを見たことで胸がすく。盗られたほうが悪いのだと、歪んだ笑みをこっそり浮かべた。
頬を引きつらせたトビィが、アサギの身体を捩る。二人が見えないように配慮したのだろう、しかし、もう遅い。
「冗談、って何が? 朝食を食べに来ただけ」
しれっとアリナに告げたトランシスは、椅子を引いて腰を下ろす。足を組んで、ガーベラにあどけない笑みを送った。
「ガーベラは料理が上手だからなー、なんでも美味いけどなー。……いつも作ってくれるやつが食べたい」
床が砕けるのではないか、というほどに拳を叩きつけたトビィに、ガーベラは胸が張り裂けるほど恐怖する。優越感に浸っている場合ではない、全員を見渡すと、瞳を泳がせている。恐らく、言葉を選んでいるのだと思った。慎重に問わねば、そこにいるアサギが傷つくことを全員が知っている。
だが、アリナは直球だ。彼女の性格はガーベラがよく知っている。
「お前じゃ話しになんねー! おいガーベラ、答えろ。こりゃ一体どういう事だ?」
殴りかかってきそうなほどに激昂しているアリナに詰め寄られ、ガーベラは焦る。
後退すると、立ち上がったトランシスが背に隠してくれた。ホッとして、冷や汗をかきながら彼の衣服を掴む。この壁があれば怖くないと、瞳を閉じて寄りかかる。
「やだなぁ、ガーベラが怖がってるじゃん。見ての通り繊細なんだ、もう少し優しく接していただけますかね?」
「アァッ!? てめーじゃ話しになんねーから、泥棒猫に訊いてるんだろーがっ」
「アリナ、止めなさいっ!」
稲妻のように鋭く叫んで止めたのは、マダーニだった。
「だけどっ!」
仲裁に入ったマダーニを鬼のような形相で睨むアリナが、針を刺されて割れた風船のように萎む。唇を噛み、怒りに耐えて首を横に振っているマダーニの後ろには、アサギがいる。彼女の前で迂闊なことは訊けない。耐えろ、と言っているのだ。
それが解っているのだろう、トランシスは勝ち誇ったように鼻を鳴らした。
「怖かったねぇ、ガーベラ」
優しく囁き、髪を撫で軽く抱き締める。その表情は、恐悦至極だとばかりに笑みを浮かべていた。
「つまり、そういうことなんだろう。これ以上オレたちが言及したところで、馬鹿らしいほど時間の無駄だ。行くぞ」
「っ、だけど、トビィっ」
床を蹴るようにしてトビィが立ち上がり、アサギを軽々と抱き上げる。視界を覆うように胸に押しつけ、こちらに視線を投げることなく食堂を出た。
ガーベラは怯えの色を浮かべた瞳で、トビィをさりげなく見つめた。激しく怒り狂っている彼を止めることなど出来ないが、何故か「私は悪くない、トランシスに言い寄られてしまったの」と心中で言い訳をする。
私は悪くない。
そんなことを、幾度思っただろう。