誕生日の朝
収拾がつかない自己嫌悪に駆られたガーベラは、放心状態で自室に戻った。
項垂れたまま部屋の片隅に座りこむと、窓から差し込む月の光が異常なまでに美しくて涙が出る。醜い心を引き摺り出すような清純な光に心が抉られ、不気味に風が吹く漆黒の夜であればよかったと、片頬を引きつらせて嗤う。
容赦なく降り注ぐ月の光に断罪されるようで、居場所がない。その光は、純真無垢で真っ直ぐなアサギの瞳に似ていた。
身体を洗うこともせず、寝台に倒れ込むことも出来ず、壊れた人形のように転がる。
朝陽を迎えるのが怖い、このまま夜が明けなければよいのにと願わずにはいられない。
「二人はどうなるのかしら。アサギの広い心は、トランシスの一度の過ちを赦す。つまり、元通り……」
恐らくそうなるだろうと乾いた笑い声を出した。
けれども、ガーベラは心の奥底で願っている。
『オレの恋人になりなよ』
その言葉の可能性に、みっともないと解っていても縋りつく。
「アサギには、他にも大勢男がいる。トビィを筆頭にミノルも彼女を好いているし、傷ついた彼女を受け入れる男なんて溢れてる。あの子の性格からして、誰とでも上手くいく、幸せになれる。けれど、私にはトランシスしかいないの」
彼の腕や吐息を思い出し、甘い溜息を吐いた。
慚愧に堪えないガーベラは、一睡も出来ぬまま窓から差し込んできた朝陽にぎこちなく顔を上げた。快晴の、風が強い朝だった。人々が吐く白い息は、風が散らしている。
前髪を気怠くかき上げ、せめて湯あみをせねばと唇を噛んだ。
コンコン。
遠慮するように扉を叩く音が、小さく響く。
物静かな音だったが、怯えている心臓には爆音のようだった。来訪者に皆目見当がつかず、不在を決め込むつもりで息を押し殺す。
「ガーベラ、開けて」
しかし、その声に弾かれて立ち上がった。
慌てて駆け寄り扉を開き、眠そうな目を擦って立っていたトランシスを引っ張り入れる。ふわりと、愛しい男の香りがした。昨晩の情事を思い出し、下腹部が疼く。
「おはよう、ガーベラ。昨日ぶり」
雲一つない晴天のような笑みを浮かべ、トランシスはあっけらかんと言う。
反して、ガーベラは戸惑いを隠せずに上擦った声を出した。
「お、おはよう……どうしたの、こんな朝早くに」
「どうしたの、って、決まってんじゃん。引越し」
「ひ、引っ越し……?」
訝し気に問うガーベラに悪戯っぽく笑うと、トランシスは背負っていた荷物を床に降ろす。
「こんだけしかないけど。一緒に暮らそうと思って、服を持ってきた。オレとガーベラなら毎日一緒でも問題ないだろ? あっちの惑星より、こっちのほうがガーベラの負担にならないと思ってさ」
「え……?」
鳩尾を打たれたように声が出せないガーベラを引き寄せ、トランシスは耳元で甘く囁く。
「どうしたの、呆けて? 迷惑だった? オレ、恋人とはずっと一緒にいたいんだよね。ガーベラは違うの?」
首筋にねっとりとした舌が這い、身動ぎしたガーベラは悲鳴のような声を上げる。
「ま、待って! アサギは」
そこで言葉を詰まらせ、唇を噛む。『貴方を心の底から愛している。そして、今日という日を心待ちにしていた』と続けようとしたが、躊躇した。混乱し、脳の回転が上手くいかない。
「誰のこと? オレ、知らないなー」
わざとらしくすっとぼけるトランシスに、ガーベラは焦った。
「誰って……貴方の恋人の」
「オレの恋人は、ガーベラだよ? それともあれかな、付き合っているフリをしてた女のことを言ってる? それなら気にしなくて大丈夫」
自分の立場を有利だと知っている者が出す余裕の声音で、トランシスは吟じるように告げた。
信じられないと瞳を開いたガーベラは、怯えたような憐れな声を出す。
「フリだなんて、そんな。あの子は」
「ガーベラは優しいなぁ、他人を気遣って。そういうトコ、大好きだよ」
酷薄な笑みを浮かべたまま、トランシスは戸惑うガーベラから衣服を丁寧に剥ぎ取る。
「まっ、待って」
「待たない、本当は離れたくなかった」
一瞬呆けたガーベラは、多少の抵抗をした。しかし、すぐに身を任せてしまった。頭では拒否をしているのに、身体が彼を求めている。欲情に駆られた瞳を細め、しなだれるように寄りかかった。
一度知った男の香りに、抗えない。脳天を突き抜けるような悦びが、忘れられない。
これこそが恋なのだと思った、いけないと解っているのに身体が突き動かされてしまう。
怖ろしい、恋の魔力。
身体をまさぐり寝台に倒れ込んだ二人は、そっと口づけをかわす。
「疲れた顔をしてるね、綺麗な顔が台無しだよ?」
「眠れなかったの……」
か細い声を出し、恥じらうように顔を背ける。
「そうなの? オレもあんまり寝てないから、このまま一緒に寝よう」
胸に顔を埋めて瞳を閉じたトランシスの髪を、そっとガーベラはすくう。突き放さねばという意思など、感じた体温によって掻き消されている。
今ならば、幾らでも拒否できるのに。
「でも、汚いわ。私、入浴していないの、昨夜のままよ」
「へぇ、意外にだらしないね」
「失礼ね、トランシスの匂いを洗い流したくなかっただけよ」
「それは光栄。だけどね、ガーベラ。そんなもの、何時でも幾らでもつけてあげるから大丈夫だよ。要らないっていうくらい、存分に愉しめばいい」
ふと、廊下が騒々しいことに気づいた。小柄な足音が行ったり来たりしているのを、おぼろげに聞く。
熱を帯びた身体で、ガーベラは思った。アサギが出掛けるのだと。今、目の前で馬乗りになっている男に逢いに行くのだと。
……男は、ここにいるのに。
豊満な乳房を執拗に攻めている紫銀の髪を指に絡め、唇を半分ほど開く。
悲鳴を上げれば、お人よしのアサギは、急いでいても誰かの叫びに必ず脚を止める。気づいて部屋の扉を開けば、捜す男と対面できる。
どんな反応をするのだろう。
全裸で絡み合う二人を前に、アサギは愕然とするに違いない。悲痛な表情を浮かべるなんの非もない彼女に、自分はどんな言い訳をすればよいのだろう。
命の恩人を傷つけずに乗り切るには、どうしたら。
どうしたら、などと偽善だ。もうどうにもならないのに、自身を責めるのが怖くて逃げ道を探す。
「浮かない顔だね、ガーベラ。他事は嫌だなぁ、昨晩のように愉しもう」
乱れっぷりを知っているトランシスは、唇を尖らせた。だが、言いながらも彼はその理由を知っているようだった。外の足音が聞こえなかった筈はない。それほどまでに、騒々しい音だったのだから。
「怖いだけ、よ」
虚ろな瞳でそう告げると、途端に含み笑いが下りてくる。
「大丈夫、オレがガーベラを護るよ。オレの恋人だろ?」
平坦な声で綴られるには、あまりにも情熱的な台詞だった。間を置いてから、ガーベラは虚ろに頷く。
「……そうね、貴方は強いものね」
「ねぇ、オレのこと愛してる?」
意地悪くそう訊かれ、ガーベラはトランシスの瞳を見返した。流れるように平然と告げられ、彼の真意に戸惑う。以前の冷静な彼女であれば判断出来たろうに、思考を乱すように愛撫されて息が上がっていた。
続きをせがみ、決意と共に唇を開く。
「えぇ、愛しているわ」
その言葉に嘘偽りはないという自信が、ガーベラにはあった。
「よかった、オレも愛してる」
唇の端に笑みを浮かべたトランシスは、腰をくねらせていたガーベラの頬に口づけ指に力を籠める。
嬌声を上げ、ガーベラは瞳を閉じた。この腕から逃れる事が出来なかった、寧ろ自ら飛び込んだ。幾つも言い訳を作り、自ら柵を作って故意に囚われた。
トランシスとアサギは破局したのだ。
そして、自分が選ばれた。
……ならば全身全霊を賭け、その愛に応える。望んだ男が手に入ったのだから、喜ぶべきよ。
これだけ多くの男と女が存在し、毎日のように出会いと別れを繰り返す。トランシスとアサギも、そういった薄っぺらい縁だっただけで、運命の恋人ではなかったのだと言い聞かせる。
去っていく小さな足音を忘れるように、ガーベラは過剰に身体を求め、溺れた。昨晩と違い、緊張感溢れる館での蜜事に、余計に燃える。
そうして、気怠さに身を任せ遅い眠りについた。