■手にしたもの
無言で聞いていたトランシスは、涙を流して訴えるガーベラの耳飾りに触れた。
「これが、例の?」
「えぇ、トランシスがくれたものを加工したの。素敵でしょう?」
「ふぅん、見違えたよ。ガーベラに似合うね、持っていてくれてありがとう」
言い終えると、間近にあったガーベラの唇に口づける。
「っ……!」
「いいよ、おいで」
赤面し顔を背けたが、腰を引き寄せられ薄く微笑むトランシスと目が合う。遠慮がちに互いの唇を啄ばみ出し、濃厚な口づけが始まった。
堪え切れなくなり重心をかけてトランシスを押し倒すと、色欲に支配されて夢中で衣服を剥ぎ取る。
「もっと早く言えよ。そうしたらあんな裏切者は 疾く捨てて、ガーベラと一緒に過ごせたのに」
「だって、恋人を引き裂くなんて……出来なかった」
しおらしく告げながら、慣れた手つきで肌を擦る。幾度も想像した胸に舌を這わせ、トランシスに媚びた視線を投げた。こちらを見ていた彼と目が合うと、いじらしい振る舞いで顔を背ける。
「はしたないかしら、ごめんなさい。その……男性を悦ばせる方法を知らないから、違っていたら恥ずかしいわ」
初めて客をとった日から、約五年。
様々な男と絡み合ってきたが、初々しい娘を演じた。簡単だった、そういう女を好む男もいたので慣れている。自分の内にある情欲に戸惑いを見せつつも、やるべきことは分かっていた。
「随分せっかちだな、そんなにオレが欲しかった?」
「えぇ。……愛しい気持ちが抑えられない。トビィの部屋からアサギが出てくるたびに、ひっぱたいてやりたかった。クレロ神とも二人きりで会っているから、何をしているか。天界人の皆さんも不審がっているの、勇者とは思えぬ振る舞いだって。トランシスが五日に一度しか会えないのは、アサギがそう懇願しているからだと思っているわ。今頃、誰かと肌を重ねているのかしら。男を誘うの巧そうだから羨ましい、私には無理だもの」
猫のように甘え、筋肉をなぞるように舐め上げる。
「ガーベラ、オレの恋人になりなよ」
耳を疑った。
驚いて彼を見つめると、飄々としている。嘘か本当か分からず、混乱した。
「で、でも」
嘘でも嬉しいが、恥じらって身を捩る。躊躇するように顔を背け、首を横に振った。
「駄目よ、トランシスには……アサギが」
「アサギ? 誰それ? オレ、そんな女知らない」
喉の奥で嗤った彼を瞳を丸くして見つめると、やんわりと耳を撫でられる。情熱的な視線を向けると、トランシスは満足したように身体を反転させた。
「本当に? 本当に私でいいの?」
「あぁ、ガーベラがいい」
「信じられない! 勇気を振り絞ってよかったわ、あぁっ、愛しているわ、トランシス。夢みたい」
「夢じゃないよ、オレはここにいるでしょ?」
声を荒げ乱れ狂うガーベラは、牙を隠した肉食獣のようだった。
「愛している、愛しているわ、トランシスッ!」
悦びに溢れ、夢中で快楽を貪っているガーベラは気づかない。
ガシャン!
部屋中の物をひっくり返したような騒々しい音が、始終鳴り響いているのに。
紫銀の髪に指を通し、自分を見ているトランシスに身体をしならせる。自ら腰を振り、誘い、体位を変える。
トビィと同じように背後から突かれても、触れ合う体温が求めていた男のものだと解らせてくれた。
だから、気づかなかった。
トランシスの瞳が、実は自分に向いていないことに。虚無の瞳は、ずっと遠くを見つめている。
「……裏切者」
過剰なほど善がるガーベラとは反対に、淡々とトランシスは呟く。
ガシャン。
トランシスとアサギが微笑んでいる写真立てに、ケルヴィムという名の剣が突き刺さった。
これは、アサギがトランシスのために調達した唯一無二の剣だ。炎を帯びる特殊な代物で、天界城の宝物庫で眠っていた。
硝子の破片が枯れ葉のように散り溜まり、揃いの食器が床に飛散し、暦が静かに燃え焦げ落ちる。
深い穴に沈むように、自分を見失ったのか。
それとも、深い穴から這い上がったのか。
……二人は運命の恋人ではなかった、それだけ。私が介入しなくても、何れ二人は壊れた。その時期が早まっただけのことで、私は道徳に背くことなどしていない。
下着から衣服までを、思わせぶりな態度で時間をかけて身に纏う。
寝台に転がっていたトランシスは、その過程を眺めていた。彼の視線を独占していることに喜びを覚え、あざとく挑発する。
浮かれていたガーベラは、トランシスの瞳に光が宿っていないことに気づけなかった。
すでに、二人には温度差が生じている。しかし、気怠い身体で髪をかき上げ、身体が砕け散るほどに愛されたと思い込み唇に触れる。まだ熱いそこは、ジンと痺れた。
「帰るの?」
「えぇ、流石に泊まっては色々と……問題が」
拗ねたような声に、ガーベラは困惑して微笑む。引き止められていることが嬉しくて、口角が徐々に上がってしまう。
「ふぅん、そうなの? なら、また」
「えぇ、またね。トランシス」
着衣を整え髪の乱れを直し、ガーベラは手を振った。カン、カンッ、と小気味よく響く音を響かせ、弾んだ足取りで梯子を上る。
ふと、トビィの言葉が甦ったのでほくそ笑んでしまった。
『愛しているのか? アイツのことなど、何も知らないだろ』
「トランシスのことなら、何でも知っているわ。アサギを監視して欲しいと頼まれるくらいには、信頼されていた。食事もほぼ毎日届けていたし、慕う心を伝え、こうして彼を手に入れた!」
トビィの言葉は間違っていない。ガーベラはトランシスのことを何も知らない。
卑怯な手を使ったのに、手段はどうであれ結果が全てだと鼻息を荒くした。
「こんばんは、歌姫ガーベラ。今宵も美しい」
「まぁ、ありがとうございます。新しい唄が完成したので、聞いていただけると嬉しいです」
「おぉ、是非!」
天界城に戻ると、声をかけてきた天界人を誘うように笑みを向ける。そうして、先程の情熱を籠めて唄う。
「素晴らしい……! 普段以上に感情が籠っていて、魂が震えるよ」
絶賛され、鼻を高くして館に戻った。
シンシンと冷える冬の夜道に、火照っていた身体が急激に冷める。
産まれて初めて、好きな男に抱かれた。
興奮しすぎてあまり覚えていなかったが、トビィと違い幾度も口づけたことは憶えている。今も指で唇をなぞれば、トランシスの舌を思い出せるくらいに。
大事な初夜くらい一つ一つを記憶に留めて置きたかったが、冷静さを失うほど熱い時間を過ごしてしまった。彼の感覚は、燻った火のように身体の奥に残っている。
――よかったね、幸せだったかい? 望んでいたものね、アサギに成り代わりたいと。君はずっと、彼女を羨望していた。望みは叶ったね、後は君次第だ。……フフフ。
耳元で背中を押してくれた不思議な声は、気持ちの籠っていない義務的な拍手をしながら遠ざかっていく。
恍惚の笑みを浮かべ、館に足を踏み入れる。そんな声など、どうでもよかった。焦がれた男の部屋で抱かれたのだから、地に足がついていない。
「ただいまー……」
懐かしいとさえ感じる澄んだ空気を吸い込むと、我に返って立ち止まった。
急に身体が震え出し、口元を押さえる。神経が凝結したような気味の悪さに、身体を抱き締めた。
戻って来て、今更重大な過ちを二つ犯したことに気づく。
教会へ行くはずだったが、予定を反故してしまったことが一つ。
そして二つ目の過誤は、アサギを裏切ったこと。
出鱈目な嘘をつき、トランシスを誘惑した。命の恩人であるアサギに、恩を仇で返した。
ワイバーンに襲われていたところを助けて貰い、その後も気にかけ、住処まで提供してくれたというのに。そんな善良な彼女を貶め、恋人を寝盗ってしまった。
唇が蒼褪め、歯がガタガタと鳴り出す。
浮かれていたが、これからどうしたらよいのだろうかと漠然と不安を覚えた。
トランシスは、本当に自分を選んでくれたのだろうか。
アサギに会えば、二人は元の鞘に収まるのではないのか。
そうなると自分の嘘が露見し、居場所は勿論、築いた信頼や名声までも失ってしまう。
『所詮、元娼婦』
そんなふうに噂され、後ろ指さされて世界を彷徨う。
ガーベラは恐怖に怯え、館の入り口で立ちつくす。見えない壁に阻まれているようで、動けない。ここは品位のないお前が入れる場所ではないと、拒絶されている気がする。
こんな時に、トビィの『アイツは止めておけ』という声が甦った。本当にそうだった、忠告を無視してしまった。
噛みしめている唇から、呻き声が漏れる。自業自得だ。
「わ、私、なんてことを……!」
瞳に涙を浮かべ、二階の部屋を目指す。
自室ではなく、その手前にあるアサギの部屋を目指した。覚束無い足取りで、階段を駆け上る。
ガーベラはこの時、確かに正気に戻っていた。