■動き出す熱情
挿絵はにわかやす様のトビィです。
著作権は、にわかやす様に帰属します。
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鋼鉄のように凍てついた路を怖々歩いて戻ったガーベラは、鼻を引くつかせた。
何やら甘い香りが館に漂っていたので、食堂を覗く。そこには、忙しなく動くアサギがいた。
「美味しそうな匂いね」
「ガーベラ、お帰りなさい」
振り返ったアサギは、満面の笑みを浮かべている。
この華やかさが苦手なのだと、ガーベラは唇を噛んだ。彼女を見ていると、自分がみすぼらしく思えてしまう。光と影は表裏一体だが、影すら吹き消してしまいそうな勢いがあるのだ。
「ただいま。そうだ、この間戴いたお土産、美味しかった。ありがとう」
「よかったです!」
皆が雪山へ行った時、アサギが土産を買ってきてくれた。ガーベラが受け取ったのは白樺の樹液で、薄めて飲むと身体によいというものだ。喉の調子が悪い時に、お湯で割って飲んでいる。
「何を作ったの?」
「食べますか? チョコレートケーキっていいます」
焦げているように見える物体を綺麗に切り分け、生クリームを絞ってのせたアサギは丁寧に差し出した。
「紅茶を淹れますね」
「ありがとう。早速戴くわね」
深みのある香りを堪能し口に含むと、甘さとほろ苦さがやって来る。目を見開き、感動して幾度も瞬きした。
「どうですか?」
紅茶を置いたアサギが不安そうに問うので、瞳を輝かせて頷く。
「とても美味しいわ! ふわふわだけれどしっとりしていて、気品があるし奥深い。大好きよ」
「よかったー! 今練習している最中なのです、作れるようになりたくて」
「何かあるの?」
「バレンタインという行事が地球にあるのです。好きな人にチョコレートを渡す日なので、色々作ってます」
「ということは、本番まで味見が出来るということかしら? 楽しみだわ」
凍えていた身体が、チョコレートと紅茶でほぐれていく。ガーベラは少し暑くなり、上着を一枚脱いだ。
「わっ、素敵ですね」
正面で紅茶を飲んでいたアサギが、興味深そうに胸元を見つめる。ガーベラは我に返り、慌ててそれを手で隠した。動揺している自分に、鼓動がますます跳ね上がる。
「あ、ありがとう……」
それは、トランシスと揃いで持っている銅板の首飾りだった。
普段は隠しているが、今日は飛び出していたらしい。しげしげと見てくるアサギから逃れたくて、ぎこちなく胸元にしまう。
「珍しいですね、銅かな」
「す、好きな人にもらったの。誕生日に」
自分でも驚くほどに、嘘が飛び出した。羞恥心で頬が染まると、勘違いをしたアサギが身を乗り出す。
「えっ、どなたですか!? 知らなかったです、ガーベラに好きな人がいること」
食いついてしまった。ガーベラは話を逸らそうと言葉を選ぶが、しどろもどろ見栄を張ってしまった。名を伏せておけば、許されるだろうと。
「み、みんなには内緒よ? その、私が一方的に慕っているだけで……」
「でも、それをくださったのですよね!?」
「え、えぇ。その……彼とお揃いなの」
「ええっ!? それはもう、両想いなのではっ!?」
興奮して立ち上がるアサギの瞳は、星のように煌めいている。恋の話が好きなのか、話を逸らしたいのに逃れられない。
これ以上余計な事を言う前に退散したいが、優位性を自慢したくなった。
「その、……私の誕生日に一緒に過ごしていたのだけれど。期待しても恥ずかしいと思って……」
「わぁっ! きっと両想いですよ、その日は特別ですからっ! というより、いつがお誕生日だったのです? 知りませんでした」
「ごめんなさい、伝えていなかったわね」
「私もお祝いしたいです」
「もう十分よ。貴女は私を導いてくれた、それが最大の贈り物だわ」
誕生日当日、確かにトランシスと会っていた。とはいえアサギが想像しているような甘いものではなく、普段通り物資を運んで数回言葉を交わしただけである。
嘘ではないが、虚栄心が膨れ上がっている。
「んむー」
頬を膨らませるアサギに苦笑し、ガーベラは紅茶を啜る。
「私はアサギのように可愛い女ではないし……。彼の好みではないと思うの」
「そんなことはありませんっ! ガーベラはとっても美しくて、私の憧れです。その人も、きっとガーベラの事が気に入っているのですよっ」
無我夢中で力説するアサギに、ガーベラの顔が一瞬凍りつく。眉間に怒りが表れ、鼻で嗤ってしまった。
……私は、貴女の恋人のことを話しているのよ。
何も知らないアサギは、悪くないのだろう。だからこそ、余計に腹が立つ。沸々と怒りが込み上げ、卓子の下で拳を強く握る。
「な、何か変なことを言いましたか?」
態度を不審に感じたアサギが不安そうに告げるので、貼りつけたような笑みで対応した。
「ごめんなさい。純真無垢で可愛いなって思って」
急に心が冷えたガーベラは、アサギを冷めた瞳で見やる。
『きっとその人も、ガーベラの事が気に入っているのですよ』
心の中で反芻し、腹を抱えて嗤いたいのを堪えた。
……何も知らないのに、いい加減な事を!
勃然と憤怒が湧き上がり、揶揄いと悪意に満ちた声が出た。口角は上がっているが、瞳は微塵も笑っていない。
「ねぇ、アサギ。私ね、恋って怖くて嫌なものだと思っていたの」
「そ、そうなのですか?」
どうして。
そう聞きたそうなアサギにニンマリと微笑み、饒舌に喋り出す。
「ここへ来る前のことよ、結婚を控えた恋人がいたの。二人は相思相愛で、いつも楽しそうだった」
もう、名前も顔も憶えていない。けれど、女の声だけは覚えている。
『この泥棒猫!』
彼女の言葉が耳の中でこだましていたが、振り払うように続けた。
「二人はみんなに祝福されていた、私も彼らのことを微笑ましく見ていた。ところが、ある日男が浮気をして、女が捨てられた」
一呼吸置いて、硬直しているアサギを見やる。念を押すように告げた。
「あんなに幸せそうだった二人が破局するのを、目の前で見ていた。女はボロ雑巾のようにぐちゃくちゃで、見るのが辛いほどみっともない顔をしていた。あんな惨めな姿は嫌だと思ったの」
そうは言ったが、彼女の顔を思い出せない。
「ねぇ、アサギ。運命の恋人って知ってる? “真に結ばれる恋人たちであれば、何が起ころうと離れない。離れたとしても、戻る。一時の感情に流されず、強い絆で結ばれ離れられない者を、運命の恋人と呼ぶ”。……友達がそう教えてくれたけど、彼らを見た私はそんなもの存在しないと思った。恋は人を狂わせる、恐ろしいものだと。だから、恋愛なんてまっぴらって思っていたの」
アサギは静かに聞いていた。真顔なので何を考えているのか分からず、ガーベラの心が少しだけ揺れる。
「けれど、理由もなく引き寄せられる異性がいることを、知ってしまった。彼とどうなるか分からないけれど、恋って怖いとまだ思っている。でも、悪い薬のように身体中を蝕んで、抗えない」
挑むようにアサギを睨みつけ、堂々と対峙する。
これは、宣戦布告でもあった。
様々な要因が重なり、ガーベラの心が解き放たれる。
「ずっと、思っているの。何があっても壊れない、運命の恋人。そんな二人がいるのならば、私は見てみたいって」
恐ろしく厳粛した顔のアサギは、ゆっくりと開口した。
「その運命の恋人に……ガーベラがなればよいと思います。そうしたら、見るよりも信じられるから」
水を浴びたように心が震え、アサギを見つめる。妙に威厳と落ち着きを加えた声は、普段の彼女からは想像できない重々しさがあった。
別人ではと思うほどに。
「ガーベラの恋は、苦しいのですか? 楽しいと思わないのですか?」
問われ、返答が遅れる。
「た、楽しいわ。けれど、彼の心が分からないから怖くて苦しいの」
「他人の心が全て分かる人など、いないと思います。だからこそ、気遣い、想い合って人は生きていくのだと思っています。その人に好かれる努力をする……私は、それだけで嬉しくて楽しいです。恋は、決して苦しいだけではありません」
頭を鈍器で殴られた気がした。年下の娘に説教されて頭にくるが、彼女のほうが精神的に上だと痛感する。
アサギの心は、あまりにも広い。
「そ、そうね。臆病な自分に嫌気が差しているのかも、ごめんなさい」
「……破局した恋人ですが、本当にみっともないのでしょうか。泣き喚くほど、彼のことが好きだった証拠です。そこまで想うことができるなら、私は素敵だと思いました」
言葉を失い、ガーベラが視線を逸らす。
アサギの言うことは、もっともだと思う。あの壊れた恋人は、それでも必死だったことを思い出した。
「口が過ぎたわ、彼女に失礼よね」
「いえ。……恋は怖いかもしれません、でも、心を温かくしてくれるのも恋です」
「ふふっ、そうだったわね。教えて、アサギはどんな時に癒されるの?」
「色々ありますが……手を繋いで歩いてくれることとか、眠っている時に抱き締めてくれることとか、ご飯を美味しいって言ってくれることとか。全部です」
「惚気が始まったわね。素敵ね、私も彼とそんな風になりたいわ」
無邪気に微笑むアサギを見て、ガーベラは嘆息する。
今までであれば、敵わないと脱力しただろう。しかし、野心に火が灯った。
そこまで言うのであれば、見せてもらおうと。トランシスの愛を信じているからこそ、アサギはなんとでも言えるのだと小馬鹿にした。
捨てられた女は見苦しく憐れだと、知らない。彼女は、誰からも愛されて育ってきたから。
光の隅で怯えて過ごす人種が見えないほどに、傲慢なのだと。
「随分と楽しそうだな」
「トビィお兄様! 味見しませんか?」
怒気を含んだ声に、ガーベラは焦って振り返る。そこには、不信感を露わにしたトビィが立っていた。全てを見透かすような瞳に、肝が冷える。
余計なことを話していないか、そう圧力をかけられている。
「ア……アサギの焼いた菓子が美味しくて。トビィも戴いたら? ごちそうさま、また食べさせてね」
「えっ、もう行くのですか?」
「えぇ、新しい唄を考えたくて。良い気分転換になったわ、ありがとう」
歯切れが悪くなってしまったが、逃げるように立ち去る。これ以上、トビィの咎めるような視線に耐えられない。
食堂を飛び出し自室に駆け込むと、大きく肩で呼吸をする。
『清廉潔白な娼婦がこの世に存在するわけないでしょうっ! 男の心を弄ぶことに長けた、狡猾で賤しい女しかいないわよっ』
吐き捨てるように言われたことを思い出し、前髪をかき上げる。
「思い出した。カルヴェネ、だったわね」
公衆の面前で慟哭する彼女の名前が、脳裏をよぎった。
「カルヴェネ、私はもう娼婦じゃない。一人の男を愛する、狡猾で賤しい女よ」
唇を噛み締め、氷のような熱情に身を委ねた。