吟遊詩人ルク
唄は、いつでも傍にあった。
世話をしてくれる娼婦たちは、故郷に想いを馳せ子守唄を口にする。
物心ついてからは、その土地によって歌詞や曲調が異なる事を知り、興味を持った。
街へ出れば、吟遊詩人が広場で歌っていた。
教会の前を通過すれば、讃美歌が聞こえてくる。
唄に合わせ、楽器を使う人もいる。
唄というものは娯楽であり、生活の一つなのだと考えた。
そして、唄があれば心が軽くなる事を知った。
ガーベラが最初に吟遊詩人に出逢ったのは、水揚げして数か月経った頃だった。
稼ぎがよかったので、好きなものを購入してもよいと駄賃を貰い街へ出た。初めての褒美は、美味しそうな菓子を買うつもりだった。腹が減った時に甘いものが食べられたら幸せだろうと。
当時は、それしか思いつかなかったこともある。
愛らしい衣装も、煌びやかな装飾品も、興味がない。客の相手をする衣装は館に溢れていて、おさがりでも気にならない。
そもそも、すぐに脱がされる。着ているのは、客を待っている間だけ。ならば、どんなものでも構わない。
食料を買いに出たことは幾度かあったが、自分の為に買い物をするのは産まれて初めてであり、知らない店先を覗いてまわった。目新しいものばかりだったが、心が躍ったかと訊かれるとそうでもない。一人は寂しく思えたし、文字を読むことが出来ないので多くの商品は解らなかった。
閑散としていた老婆の店で、喉に優しいという薬草茶と、卵と蜂蜜を使った焼き菓子を購入出来たので帰るために踵を返す。
すれ違う同じ年頃の娘は数人で固まり、楽しそうにお喋りをしていた。少し小さい子になると、走り回って遊んでいた。
それらを横目で見ながら、自分が異質な場所にいる事を実感した。視線を感じ振り返ると、彼女たちが怪訝な顔で見ている。
ここにいてはいけない気がして、知らず早足になった。単に、見知らぬ子どもが一人だったので興味を持ったのかもしれないが、多くの視線が突き刺さっているようで恐ろしかった。
振り返れば、大の男より同年代の娘が苦手だったように思う。何を考えているのか、分からなくて。
対して、男は単純だ。そもそも客は、快楽のことしか頭にない。悦ばせてやればすぐに終る。
購入物をギュッと胸の前で握り締めて歩いていると、人だかりに遭遇し足を止めた。
近くにいた人から「世界を渡り歩く名の知れた吟遊詩人が滞在している」と教えてもらい困惑する。
当時は、魔王ミラボーが各国の主要拠点を攻め落としている最中だった。危険を顧みず唄を披露するために移動していると知り、ガーベラは率直に馬鹿だと思った。同じ街では駄目なのか、旅をする理由はなんなのか。
魔王や魔物の存在は聞いてはいたが、幸い街が襲われていなかったので見たことがない。ただ、娼婦たちの話で“恐ろしいもの”とは知っていた。街を出るのは、凶猛な勇気がないと無理らしい。もしくは、屈強な傭兵や戦士と共に行くか。
襲撃を受ける街も多くあるというのに、この場所は以前と変わらず栄えていることがガーベラは不思議だった。世間では女神エロースの加護があると噂が広まっており、移住する人もいるらしい。
実際のところ、女神の加護ではなく、魔王の眼中にない場所ではと噂されていた。
主要都市でもなければ、武器を作っているわけでもない。多くの戦士を排出する場所でもなく、単に商売が栄えているだけ。
何故狙われなかったのかは理由があるのだが、それはまた別の話となる。
「自慢したくて移動し、吟唱するのかしら……」
噂の吟遊詩人は非常に線が細く、女のような風貌の男だった。言われなければ、男だと分からないほどに。それまでガーベラが見てきた男とは、あまりにも違い過ぎて衝撃だった。
彼の姿が見えたのは、人が多過ぎて一瞬だった。立ち去ろうにも身動きが取れず、諦めてじっとしていると音が鳴る。
ポロン……。
歓声が上がったと思えば、水を打ったように静かになった。
清冽な竪琴の音色と共に、心が震える声で唄う。艶やかで繊細な節回しに、全身に鳥肌が立った。魂を引っ張られるような感覚に、腰が抜けそうになる。
これが“唄”を職とする者の声かと、打ちのめされた。
「キャーッ! ルクさまぁっ!」
呆けていたが、耳が壊れそうなほどの黄色い声援が間近で飛び交い我に返る。
年頃の少女らを虜にする美声だけでも十分だが、中性的な雰囲気がより一層彼の魅力を引き立てているに違いない。もっと聴いていたかったが、唄は止まってしまった。
ガーベラは彼の容姿には興味がない。
多くの女性らに囲まれ、唄わない吟遊詩人など意味がないので立ち去った。
数日後、噂の吟遊詩人が娼館にやって来た。
老練者が相手をするだろうと思い気にも留めなかったが、任されたのはガーベラだった。嬉しさよりも、火の消えたような心持ちで驚く。正直、面倒だと思ってしまった。
「上手くやれる自信がありません。“唄”が専門の男に、私はどんな“声”を出せばよいのでしょう」
何に対しても頷いてきたガーベラは、この時初めて意見した。
それは、広場で聞いた声以上の嬌声を上げる自信がなかったからだ。それほどまでに、彼の歌声は圧倒的だった。澄んでいながら艶めいた声は、耳から入り込んで全身を揺さぶる。あれはまるで、絶頂を迎えたようだった。
笑い飛ばす娼婦たちの中で、館の主人が優しく諭す。
「声で負けても、ガーベラには類稀なる愛らしい顏と男を虜にして離さない身体があるだろう? 自信を持ちなさい」
そう言われても、ガーベラには実感がない。自分の身体と顏、そして嬌声を褒められ続けているが、どのあたりが好まれているのか疑問だった。
先輩の真似をしているだけで、大差ないように思える。窓に映る自分の横顔を一瞥し、軽く唇を噛む。
「愛らしい……顏?」
男たちは、華やかな外見だが愁いを帯びた瞳に惑わされるらしい。しかし、単に辛気臭いだけに思えて仕方がない。
「あの美声を耳元で聞けるなんて、素敵よ! 二度とない機会だわ」
「彼はどんな声を出すのかしら。ガーベラ、思い切り奮発してよねっ。隣の部屋で聞き耳をたてるわ」
小声で先輩に囁かれ、困惑する。見れば、皆は瞳を輝かせていた。怖気づき、出来れば交代して欲しいと切実に思う。
「……頑張ります」
はにかんだ笑みを浮かべ、気乗りしないままガーベラは客を迎え入れた。