娼婦ガーベラ
何時の間にやら眠っていたようだ。
ガーベラはそっと寝台から起き上がると、気怠いから身体を引き摺って窓際に立った。
少しだけ窓を開け、空気を入れ替える。薔薇と、男と女が入り混じった独特の匂いは苦手だ。身体を重ねるのは平気でも、情事後は途端に嫌悪感が増す。
雄は体臭で雌を引き寄せるものらしいが、何がよいのか分からない。ちっとも惹かれないが、演技をすれば悦ぶことは昔に覚えた。
冷えた空気にさらされ、意識が鮮明になる。何も身にまとっていなかったので震えながらも、唇を開いた。
今すぐに、唄いたい気分だ。
「何もなき宇宙の果て 何かを思い起こさせる
向こうで何かが叫ぶ 悲しみの旋律を奏でる
夢の中に落ちていく 光る湖畔闇に見つける
緑の杭に繋がれた私 現実を覆い隠したまま
薄闇押し寄せ 霧が心覆い 全て消えた
目覚めの時に 心晴れ渡り 現実を知る
そこに待つのは 生か死か」
寝台で丸くなっているラシェを一瞥し、満天の星に向かって唄う。
夜の帳は、舞台の幕。観客は、無数に煌めく星々。
美しい裸体が、暗闇にぼんやりと浮かぶ。
「ガーベラ?」
不意に名前を呼ばれ、小さくガーベラは跳ね上がった。起きたラシェが、毛布に包まりこちらを見ている。
「ごめんなさい、今窓を締めますね。寒いでしょう」
「待って、動かないで。……いいね、星の輝きを背に立つガーベラ。新作を思いついたよ、描きとめるからそのままで」
「まぁ、ラシェ様は本当にお仕事熱心ですね」
ラシェは命の次に大事にしているという仕事鞄を引き寄せ、中から紙と筆記用具を取り出した。ガーベラを見つめ、瞳を輝かせながら紙に鉛筆を走らせる。
真剣な表情だ、没頭している。
ガーベラは、何かに取り組んでいる男の瞳を見ることが好きだった。純粋なひたむきさに、心が打たれる。
抱いている時には見せないその熱心な表情は美しものだが、ガーベラは身体を大きく震わせた。
「駄目、動かないで」
「ご、ごめんなさい」
叱咤され、ガーベラは顔を引きつらせる。冷えて凍えそうな足先を軽く摺り寄せ、必死に寒さに耐えた。目の前の男は、被写体を気に留めない。自分の思い通りに動かさないと気が済まないのだろう。
窓を閉める時間も与えられず、歯が鳴る。
「先程、唄っていたね?」
突如話しかけられ、ガーベラは驚いた。
「はい。お恥ずかしいですわ、聞かれていただなんて。自分で……作った唄です」
寒さで、声が震える。
「へぇ、すごいね。ガーベラの身体は美しいが、声も素晴らしいから聞き惚れるよ」
「まぁ、御冗談を」
まさか、話を振られるとは思わなかった。ラシェが集中している時は、極力静かに、邪魔にならないように大人しくしている。物言わぬ花であれと最初の頃教えられたからだ。
被写体は、口すらも動かしてはいけないと。
唄を聞かれていたことに驚いたが、興味を持たれるとは夢にも思わず、ガーベラは嬉しくて笑みをこぼす。嬌声が心地良いとはよく言われるが、男はそこにしか興味がないと思っていた。
「こ、子供の頃から、唄うのが好きで」
与えられた玩具に喜ぶ子供のように話し出したガーベラだが、ラシェは沈黙していた。再び集中し、紙と睨みあっている。
「…………」
深い溜息と共に、ガーベラは玩具が棄てられたことを知った。ただの気まぐれだ、こちらに関心があったわけではないらしい。
「よしっ、描き止めたぞ! 作業場で練ろう」
宝石を見つけたように瞳を輝かせ紙を見つめるラシェに、ガーベラは深く腰を折った。
「ありがとう、幸運の女神。君はいつも、素晴らしい」
「とんでもないことでございます。ラシェ様のお役にたてたなら、光栄ですわ」
慌ただしく帰り支度を始めたラシェを見つつ、ようやくガーベラは窓を閉め、布を掴んで羽織った。唇は真っ青だろう、顔色も悪いに違いない。しかし、部屋は窓際の蝋燭の灯りだけ。こちらの表情など見えないのだ。
仄かな明かりの中で、人間か分からぬ裸体の美女が立っていたからこそ、彼は筆を走らせたのだろう。要は、妄想力が彼を突き動かす。
ガーベラ自身に興味はないのだ。
「また来るよ、愛しのガーベラ」
「お待ちしておりますわ、ラシェ様。ありがとうございました」
ガーベラは笑顔で見送り、丁重に頭を下げる。そして、思い切り唇を噛み締めた。
「女神というのなら、敬ってちょうだい。いえ、せめてここまで来て抱きしめて」
扉が閉まる音を遠くで聞いた。
同時に、慌てて部屋中の蝋燭に火を灯す。明るければ、寒さが紛れるような気がした。今は身も心も冷え切って、辛い。
「私は女神じゃないわ、女神は貴方の頭の中にいるのよ、ラシェ。具現化出来ない愚か者が、偽物を掴まえただけ」
馬が嘶き、馬車が去っていく音が聞こえる。
「私は娼婦ガーベラ。商売は、客があってこそ成り立つもの。生活費が手に入る職は、素晴らしいわ。……唄は、金にならない」
一人きりになった部屋で、唄う。
皮肉にも、薔薇の花びらを透かして見るような美しい夜明けの光に包まれて。
「浅葱色した 綺麗な花が咲き誇る
不思議な色合い 幻想の扉
触れたくとも触れられない 魅惑的な異界の花
触れた者には幸福有りと 広がる噂に皆奔放する
けれども花は見つからない たった一輪の花を探し
人々は滑稽に駆け巡った
真か嘘か 分からぬのに」
まさかその歌声を、天界に住む神の使者が聞いていたとは当時のガーベラには思いもよらないことだった。