利害の一致
トビィは一瞬ガーベラを見たものの、何も言わず歩き出す。
その逞しい腕にガーベラが捕まることはなかったが、一歩下がって静かについていった。
「おや、トビィ殿こんばんは! 話題の歌姫も御一緒ですか。勇者様一行は皆さん仲が良くて、羨ましいです。絆、でしょうね」
声をかけてきた中年の男は、見知った顔だった。勇者たちがこぞって買いに行く、イカ焼き屋の主人である。旨いと評判で、二人も幾度か食べたし立ち寄った。呑みに来ていたのか、彼は普段より饒舌だ。
トビィは薄く微笑み、頭を下げる。ガーベラも同様に、しんなりと礼をした。
「有名人ね」
「お前もな」
それ以後も、声をかけられ続けた。これでは、心が休まらない。
ディアスで二人を知らない者は、あまりいない。勇者の仲間であり、かつ市長の娘アリナの友人だ。
何より、二人共容姿が目立つ。
冷ややかな宵の中を歩いていると、次第に灯りが減ってきた。肌寒さに、ガーベラは腕を擦って肩を竦める。
「早く戻れ、喉を痛める」
「あら、素っ気無いのね」
「心配してやってるだろ」
この時間に男と女が揃っているのに、声をかけてこないトビィがじれったい。唇を尖らせたガーベラは、酒の力を借りて突っかかる。
「トビィはどうするの?」
尋ねても、返事はない。ただ、何処か寂しそうに遠くを見つめている。
その横顔に、ガーベラの胸は微妙に揺れた。色香を倍増させる物悲しい視線に、心が震える。
「誘わなくても、いつでも男は部屋に来た。……誘い方を知らないの、私」
小声で告げるガーベラに、トビィは意外そうに振り返る。その顔は、小馬鹿にしたように笑っていた。
「過去を忘れ、新しい人生を歩むんだろ? それにしては娼婦時代に拘り、引き合いに出す。未練でもあるのか」
「嫌味は止めて」
煽るトビィに、ガーベラは唇を噛んだ。ショールを握る拳が、屈辱で震えている。
「男の肌が恋しいが、重ねる適当な男がいないとでも?」
「……そう解釈してくれて構わないわ。私に釣り合う美形で、女の扱いが上手く、後腐れしない関係を続けられる。そんな男、その辺に転がっているわけがないでしょう」
「男娼館にでも行ったらどうだ。今のお前なら上客扱いだな」
喉の奥で笑うトビィに、腹立たしさから胸が詰まる。
「名が知れ渡った歌姫に、そこへ行けと?」
「誰にだって性欲はある、生物としての本能だ」
しれっと言うので、頭に血が上った。
「トビィにとっても、悪い話ではないでしょう? 利害の一致よ」
余計な事を口走ってしまったと、蒼褪める。
「ほぉ、……利害」
案の定トビィの眉が吊り上がったが、ガーベラは後退するどころか一歩前に出た。勢いに乗ってしまった。
「アサギの代わりに、私を抱いても構わないのよ。あの子には手を出せないのでしょう、貴方は“良いお兄様”だものね」
棘を含んで告げると、冷ややかな空気が流れた。トビィの端正な顔に、薄暗い不快感の影が落ちる。
それでもガーベラは、真正面を見据えていた。トビィは女を殴るような男ではないと、知っていたからだ。
喉の奥で笑ったトビィは、大股でガーベラに近づくと顎を乱暴に掴み上げる。
「余計な小細工はいらない。抱いて欲しいなら最初からそう言え」
「だから先程言ったでしょう、男の誘い方を知らないと。『抱いて頂戴』なんて口にしたこともないわ。トビィなら、怒らせたほうが早そうだったから。……先程のは図星かしら?」
ガーベラの左手首を掴み、そこに歯を立てたトビィは怒りを堪えているようにも思える。
「今夜はトビィの様々な一面を見る事が出来て愉しいわ。……想像以上に乱暴ね、もっと紳士的だと思った」
トビィの歯が肌に刺さり、ガーベラの肌が粟立つ。微かな吐息が肌に触れる感覚は、久しぶりだった。
身体が、疼く。
「そういうのがお好みで? 流石元娼婦は、嗜好が違うな」
「お好きなように。様々な性癖のお客様に付き合ってきたもの、一通りはこなせるわよ」
皮肉めいて低く笑ったトビィは、手を離す。
「オレたちはこの街だと“目立つ”」
まるで愛撫されていたように熱くなっていた手首を擦りながら、ガーベラも低く笑った。
「あら、噂になっても私は一向に構わないわよ? 勇者の片腕で有能なドラゴンナイト様が相手なら、願ったり。……それとも、身体の関係があることをアサギに知られたくない? もしくは、……トランシスにかしら」
ガーベラが煽っても、トビィは乗らない。ただ、言葉の鋭さは増した。
「お前が困るだろう。歌姫になりたいんだろ、醜聞は避けろ。それとも、以前のように誰とでも寝る歌姫を目指すつもりか?」
静かだったが、言葉を鞭のようにしならせ告げたトビィに、ガーベラは口を噤む。だが、ややあってから精一杯の皮肉を込めて開口した。
「お気遣いありがとう、優しいのね」
「優しくない、面倒事が嫌いなだけだ」
「その優しさを一心に受けるアサギは、どうしてトビィを選ばなかったのかしら?」
自分が悪いのだが、多少苛立ちを感じていたガーベラは爆弾を投下した。固唾を飲む音が響いたが、トビィは何も言わず歩き出す。
「宿も部屋も却下」
「他の街へ行くの?」
遅れないようについて歩くガーベラだが、トビィは歩幅を合わせてくれていた。内心怒り狂っているだろうに、そんな時でも細かい気遣いをしてくれるので、本当に良い男だと思う。
「さぁて、どうしようか」
飄々と告げながらも、目的地まで脚が止まることはなかった。
何処へ向かっているのかと思えば、海側の公園だった。中央公園は“同じ目的”の男女と鉢合わせする可能性が否めなかったので、暗闇に包まれている場所へ来たらしい。
人気はない。
潮風が吹きすさぶその場所は、細長い木が何本か貧相に立っているくらいだ。物悲しい木の長椅子が数個設置されているが、他には何もない。
気温も街中より低いので、この時間に好き好んで来る者はいないだろう。
「興奮するわね、外なんて」
強がってはみたものの、多少ガーベラの声は震えていた。
「いつぞや路地で犯されかけていただろ」
冷たく言い放ったトビィに、ガーベラは眉間に怒りを表した。思い出したくなかった出来事が甦り、吐きそうになる。
「本当に酷い人。顔は極上だけど、性悪」
「褒め言葉をどうも。オレは元からこうだ」
「アサギには愛想がいいのに」
「アサギ以外、どうでもいいんで」
暗い海を見やっているトビィが、何を考えているのか分からない。
勢いでここまで来てしまったが、本当にこの男と一線を越えてよいものか、今頃悩み出す。逃げ腰で、あやふやな言い訳をする。
「ここだと、誰かに見られないかしら?」
「なんだ、怖気づいたのか」
余裕のある声で笑ったトビィに、ガーベラはカッとして頬を赤く染めると唇を噛む。
「外だと強姦を思い出すのよっ」
「ふぅん」
背を向けたガーベラを背後から抱きすくめたトビィは、波の音を聞きながら夜空に浮かぶ月を見つめる。腹を括ったような表情を浮かべていることなど、誰も知らない。
「っ……」
自分を求める男の体温が心地良く、ガーベラは感覚を思い出す。すぐに女の顔を見せ、瞳が蕩ける。それは営業用にも見えたし、自分を曝け出したようでもあった。
首を曲げて顔を上げると、口づけをせがむ。そうすれば、今までの男たちは優しく口づけの雨を降らせてくれたものだった。
ところが。
「悪い、オレの唇はアサギ専用なんで」
するりと顔を離し、トビィは揶揄うように笑った。
一瞬呆けたが、引き攣った笑みを浮かべる。自尊心が打ち砕かれ、ガーベラは腕を振り上げた。
「どっ、何処までも嫌な男っ」
振り下ろされた腕を難なく避け、手首を掴み引き寄せる。トビィは目の前の赤い唇に指を一本添え、真顔で囁いた。
「声を荒げるな、人が来る。嫌な男と、嫌な女……似たり寄ったりの二人ということで」
「確かに、私とトビィは色々と似ているわよね。酒や食べ物の好みも、孤独を望むところも」
面白くなさそうに空を仰ぎ、トビィは瞳を逸らさず告げた。
「性欲の捌け口が欲しかったら、いつでもオレを呼べばいい」
「あら、ありがとう。でも、今夜限りかも? 満足させてくれないなら、幾ら顔が良くても御断りだわ」
身体を滑るトビィの手に酔いしれながら、含み笑いで冗談を言う。触れられ、溺れかねない相手だということに気づいている。これは、閨事が巧い男だ。
身体の奥底が、はっきりと甘美に疼く。すでに陶酔した表情で愛撫を受けていると、驚異の眼を瞠ることとなった。
「だから、アイツは止めておけ」
「え?」
冷酷な声に、動揺する。
「これは忠告だ。絶対にアイツには手を出すな、癪だがオレで我慢しろ」
「え? な、何を言って……」
トビィは激昂している。
もう、言葉が出てこない。狼狽し、逃げようと身体を捩るが敵わなかった。頭の中が真っ白になるほど困惑し、呼吸すらままならない。
蜘蛛の巣にかかった蝶のように、腕の中でガーベラはもがいた。