紫銀の王子様
拍手をする周囲の人間を一瞥し、トランシスは軽く身体を揺すった。見下ろせば、アサギも同じ様に手を叩いている。
「ありがとうございました!」
楽器を奏でるような声で高らかにガーベラが叫ぶと、さらに歓声があがる。
「確かに聴きやすいけど。だから?」
唇を尖らせたトランシスは退屈そうに呟き、笑みを浮かべていたガーベラを睨む。アサギと二人きりでいたかったのに、連れられてここへ来た。屋台で購入したワインは少し渋みがあるが、旨い。けれども、非常に退屈な時間を過ごしたことに項垂れる。
正直、時間を返して欲しいと怨む。あの女が唄わなけば、ここへ来ることはなかったのだと。
「あの人、オレと同じ歳だっけ?」
熱狂しているアサギに訊ねた。
「うんっ! とても綺麗でしょう、私の憧れ」
「オレはアサギが好き」
アサギには申し訳ないが、正直、言い方は悪いが老けているとトランシスは思っている。
良く言えば、大人びている。一皮むけているというか、人生を達観しているように見えた。それだけの女で、興味の対象外だ。
「唄は上手かもしれないけれど、オレはそういう芸術的なこと分からないからなー。アサギが可愛いことは分かるけど」
背後から圧し掛かるように抱き締め、早くこの場を去りたいと耳元で囁く。顔を真っ赤に染めて狼狽しているアサギを撫でながら、人混みから外れるように後退した。
ふと。
トランシスとガーベラ、二人の視線が交差する。
「来ていたのね」
慣れた感じで身体を寄せ合うトランシスとアサギに、ガーベラは軽く頭を下げた。
トビィに似ているけれど、もっと危うい感じのする男は目立つ。何しろ、この場で一人だけ、ガーベラを興味の対象外としているからだ。誰しもが唄に酔いしれているのに、彼が夢中になっているのは恋人のアサギ。
少し腹がたって彼を睨む。才能にのぼせ上がっていたが、現実に引き戻された気がした。
「もっと……もっと上手くなりたい」
誰をも虜に出来る、素晴らしい唄を披露したい。ガーベラの欲求は高まっていく。
挑戦的な瞳で睨んでいると、いつしか二人は消えていた。
雲がない、ガランとした感じの空だった。
教会で開かれた孤児たちの食事会に出向いたガーベラは、その場で唄を披露した。残り物を頂き、昼前に館に戻ってくると、庭で蹲っている男がいる。
トビィと同じ色の髪なので、見間違えることはない。
トランシスだ。
「まぁ……」
随分と気落ちした様子で、傍から見るとみすぼらしい。近くにアサギがいないので、不思議に思いつつも近寄る。無視して通り過ぎる事も出来たが、声をかけないのは失礼だと思った。
「強く、ならないと。アイツに、勝たないと。獲られる、盗られる、奪われる。強く、強く、強く、強くならないと。……逃げられる」
空っぽな声で、切れ切れな言葉が聞こえてくる。
ガーベラは少し仰け反り、息を飲んだ。それはまるで呪詛のようで、一瞬胸が跳ね上がる。しかし、体調が悪いのではと心配し、腕を伸ばした。
「キャッ」
「ぁ……」
間近に迫ったところで、トランシスが反射的に振り返った。獰猛な獣のようにギラついた瞳に、喉の奥で悲鳴が上がる。
そして、腕に痛みが走った。左腕を反射的に押さえ、あまりのことに驚き声も出ない。じんわりと広がる浅い痛みに、身体が震えた。
「ご、ごめん! 驚いて」
トランシスの爪に、皮膚を抉られた。
「ごめん、怪我を」
「気にしないで。驚かせてしまった、私がいけないのだから」
「そう言われても気にするよ……ええっと」
気丈に営業用の笑みを浮かべたガーベラは、困惑しているトランシスに再度名乗る。
「私はガーベラよ」
以前挨拶を交わしたが、彼は名前を憶えていなかった。狼狽している様子を見る限り、顏は認識している。
少し哀しく思ったが、不満はない。自分はこの館に住む仲間たちとは違い、戦力外の異質な居候だと弁えている。
「あぁ、そうそう! ガーベラさんだ。綺麗な人だなぁって思ってたよ、うんうん。よく唄っている人だろ」
絶対に忘れていただろうに、軽く笑ってごまかしたトランシスの表情はとても幼く見えた。自分が接してきた客とは違う雰囲気の男に、ガーベラの心が和む。
身長は自分より大きいのに、ひどく子供に見えて可愛らしい。先程教会で手を繋ぎ、一緒に唄った少年に見えてしまう。
「ガーベラと呼んで、歳も近いだろうし。私は縁があってここに置いてもらっている、ただの唄い手よ」
屈託のない笑顔を見せたガーベラに、トランシスは安堵の溜息を漏らした。
「そういえば、アサギがオレたちは同じ歳だって言ってたな。改めてよろしく」
「えぇ、よろしくね」
子犬のように甘える瞳で見られ、ガーベラは息を飲んだ。天性の女たらしでは、と思うほどに媚びた視線を送ってくる。
訝り、戸惑った。
「オレ、ここへ来て日が浅いから、馴染めなくて。ガーベラは話しやすい気がする」
「それは嬉しいわ。私も来たばかりだから、仲良くしましょう」
二人共、居心地の悪さを痛感している似た者同士だった。
ただ、トランシスに他意はない。アサギが憧れている女だと知っていたので、悪い印象を与えぬよう、取り繕っただけだ。
「怪我は大丈夫?」
「気にしないで、これくらい平気よ」
「でも、綺麗な肌に傷をつけてしまった」
指摘されると、傷が疼いた気がする。ガーベラは苦笑し、腕を隠そうとした。
しかし、強張った表情を見逃さなかったのか、強引に腕を掴まれる。
「うわ、ホントごめん。傷が残ったら……」
傷を見やり、薄い皮膚を押し上げ、滲みだす血液に舌打ちする。トランシスは申し訳なさそうに瞳を伏せた。
まるで、叱られた犬のようだ。ガーベラは胸が締め付けられるような思いになり、慌てて弁解する。
「本当に大丈夫よ。それに、ここには不思議な魔法を使える方々が大勢いるでしょう? 治してくれるわ」
自分が責めているような気分になり、困惑する。眉を寄せていると、トランシスが唇を尖らせた。
抗う間もなく、吸い寄せられるように腕に唇が触れる。
ぬっとり。
ガーベラの身体が、大きく震えた。
傷口にゆるりと触れる熱い舌先に、身体の奥が疼く。瞬時に頬が赤らみ、憂いを含んだ吐息が零れそうになる。
トランシスは、ガーベラの傷を舐めた。
数多の男と身体を重ねてきたガーベラだが、まさかこんなことで全身が火照るとは思わなかった。不意打ちにも程がある。
目の前で、味を堪能するように舌先を這わせているトランシスの表情が妙に媚態的だ。その視線に挑発され、瞳が揺らぐ。
まるで、誘われているような熱い視線に惹かれる。
だが、それはないと思い直した。
彼はアサギの恋人だと言い聞かせる。
ガーベラは石化したように立ち尽くし、熱に浮かされた顔で彼を見やった。
思いの外、睫毛が長い。トビィほどではないが、彼も整った顔立ちをしていた。また、遠目では解らなかったが、女を引き寄せる魅力の塊。雰囲気に圧倒され、飲まれてしまう。
「も、もう大丈夫よ。ありがとう」
「そぉ? これですぐに治るよ」
あっけらかんと告げたトランシスは、恋の駆け引きが上手いように思えた。口説かれていると思えば、急にそっけない態度で翻弄されてしまう。
ガーベラは胸を押さえ、悸えを止めようとした。
その時、すでに恋を自覚していたのかもしれない。
トランシスの一連の動作を、“刺激的で新鮮な、心がざわめく誘惑”と捉えてしまったのだ。
ただ、トランシスにその気は全くなかった。
『傷は舐めて治せ』と教えられていたので、普段通り実行したまで。また、アサギの血液が異常に甘く美味いので、他人の血を舐め確かめただけだ。
ガーベラでなくとも、誰でもよかった。
そして、他人の血は不味く、美味いアサギこそが自分の運命の恋人なのだと実感していた。
キィィィ、カトン。