ラシェと薔薇の花束
むせかえるような、薔薇の香り。
ガーベラは額を押さえ、唇を噛み締める。これは、彼がやって来る、解りやすい合図。もう少し、窓際で夜風にあたっていたかった。だが、口角に笑みを浮かべて立ち上がり、来訪者を迎え入れる。
「会いたかったよ、ボクの女神! あぁ、今日も麗しい。創造意欲が沸いてくるよ」
街中の薔薇をかき集めたのでは、と思うほどの大きな花束が入室した。ひょこっ、と横から顔を出した男は、無邪気な笑みを浮かべている。
「まぁラシェ様。今宵も素敵な花をありがとうございます」
「なぁに、ガーベラには薔薇がとても似合う。これくらい、お安い御用さ!」
そうかしら。
ガーベラは、薔薇の影に隠れて眉を顰めた。
確かに薔薇は高貴で美しい。似合うと言われたら、女が喜ぶ口説き文句。しかし、こうも集まると香りが強く、鬱然として素直に受け取れない。
他者を圧倒するほど、存在感がある女。そう言われている気がした。
「違うのに……」
ガーベラは、小さく唇を動かした。有り難い事に、薔薇の花束が全てを隠してくれる。陰鬱な表情も、心も、空気さえも。
花束を受け取ったガーベラは、どうすべきか迷った。娼館にある全ての花瓶を使っても、きちんと生けられるかどうか分からぬ量だ。一先ず、卓上に優しく置く。
振り返ると、ラシェが跪いている。恭しく手を取り、驚く間もなく甲に口付けを始めた。
「あぁ、相も変わらず絹のように美しい肌」
芝居めいて甘く囁く男を見下ろし、多少引き攣った顔で「ありがとうございます」と礼を言う。
「ラシェ様が、私を気にかけてくださるからです。花と同じ様に慈しまれて育てば、応えるため咲きますから」
ガーベラはこの男に然程興味がない。けれども、相手が誰であれ、もてなしの心で接する。
「おお女神よ。これからもボクに力を与えておくれ」
ラシェは、この街で上流階級向けの衣服を作成している男だ。細身だがほどよく筋肉がついており、四十過ぎだというのに若々しく見える。童顔も手伝って、幅広い年齢層の女性を虜にしていた。
初めてここへ来た時は事業が行き詰まり、自信喪失していた。気分転換にどうだと友人に教えられ、足を運んだと自嘲気味に呟いたことを覚えている。
あの時は、塞ぎこんでいて多少は愛おしく思えた。母性本能をくすぐられた、とでも言うのか。豊満な胸で包み込むように抱き締め、慰めた。
仕事一本の真面目な男だったのだろう。経験はあるにしろ、開放的な性に衝撃を覚えたのか心酔するほどガーベラを気に入り、暇さえあれば通うようになった。
それこそ、周囲が心配するほどに。
恋にうつつを抜かすのもほどほどに、と忠告はされていたが、ラシェはのめり込んだ。だが、仕事を疎かにしていたわけではない。ガーベラに似合う洋服を作り続けているうちに、若い世代に人気が出始め好転したのだ。
それまでは、古くから好まれてきた保守的な衣装を作り続けていた。張り合いのなさを感じ、自分が作っている物に価値を見出せずにいた。堅実だが、面白みがない。
ところがどうだろう、自由に作ることがこんなにも楽しいものだと彼は知らなかった。ガーベラと接すると、こんこんと湧き出る泉のように、次から次へと作りたい衣装が浮かんでくる。
ラシェにとってガーベラは救世主であり、商売道具でもあった。
「先日逢った時に感じた雰囲気を心象し、次はこの衣装を作るよ」
丸まっていた紙を広げ、ラシェは自信に満ちた顔つきで衣装図を見せる。
「とても素敵ですわ。百合の花のような……」
「そうとも! 白百合を彷彿とさせる衣装に仕上げる予定だ。完成したら贈ろう」
「まぁ。いつもありがとうございます」
ガーベラは綺麗な紺碧の瞳を見開き、はにかんだ笑顔を浮かべた。
本当は、不要だ。
街を出歩くには不釣合い、娼館で着たとしてもすぐに床に落ちる。ならば、卵や小麦粉など食料を提供してもらった方が嬉しい。
衣装を売り金に換えたくとも、突然「以前送った紺色の衣装を着て欲しい」などと注文があるので、手元に置いておくしかない。
「先日、上等な布が手に入った。あれを使う」
ラシャの話は暫く続いた。
ホットワインを差し出したガーベラは、瞳を輝かせ語り続ける男の隣で大人しく頷き続ける。
「この衣装には、新緑を思わせる緑の宝石を所々に散りばめる予定だよ」
確かにラシェが作る衣装はとても美しい。しかし、相応に高級だ。誰が購入するのか、未だに疑問だった。飛ぶように売れているらしいので、この街の富裕層が予想以上に多いことは把握した。
とはいえ、港町カーツは貧困率が高いように思えた。路地裏へ行けば、子供たちが食事を強請ってくる。浮浪者は薄暗い路地に身を潜め、じっとしていた。その日の飢えを凌ぐため、子のために安い賃金で身売りする母もいる。
その一方で、日常生活とはかけ離れた衣装を頻繁に購入出来る者が存在する。
何故、貧富の差は生まれるのか。富める者が、貧しい者を積極的に雇えば済む話ではないのか。
ガーベラはラシェの話に全く興味がなく、退屈だった。まるで、雲の上の話だった。
悟られないよう、静かに溜息を吐く。