■新天地へ
翌朝。
「嫌な夢だった……」
宿の中庭で、重苦しい溜息を吐く。久しく忘れていたのに、何故思い出してしまったのか。
昨夜の恐怖も手伝い、どうにも心が沈む。美味しいものでも食べ、自分を元気づけようとした。奮発して、少し高めの林檎パンを食べながら珈琲を飲む。控えめな甘さと、素朴な風味、そしてふんわりした食感に心が癒されていく。
「おはよう」
「あら、おはよう」
表が騒がしいと思ったら、トビィが颯爽とやって来た。昼間の彼は目立つので、女たちが色めき立っている。それを一瞥し、肩を竦めた。
「大変ね。毎回外に出るとあんな感じなの?」
「気にしていないから、大変とは思わない」
着席し珈琲を注文したトビィは、すぐに運ばれてきたそれを啜る。
「いかが? とても美味しいわ」
一人で食すには少し大きい林檎パンを差し出したが、トビィは首を横に振った。
「遠慮する」
「あら残念。甘い林檎と独特の香辛料が程よく口内で絡み合って、絶品なのに」
「ふぅん。……アサギが好きそうだから買って帰る」
食べながら、ガーベラはじっと焼かれた林檎を見た。
「娼婦だった頃、仲間とお菓子を食べに出掛けることもあったけど、大体は仲間が作ってくれたの。どれも美味しくて、不自由しなかった。私の元気の源だったのかも。改めて、食べ物って大事だと思い知らされたわ。自分が恵まれた環境にいたこともね。これからは、辛い時に好きなものを食べようと思う」
トビィは視線を合わせずに頷く。
「多少の贅沢は、生きていく活力になる。それは間違いない」
「でしょう? ……それで、私はどうなるの?」
真っ直ぐにトビィを見つめ、挑戦的に微笑む。
口角を少し上げ、珈琲を飲み干したトビィは腕を組み空を見上げた。
「許可が下りた。発つ準備は出来るか」
「終わってる、すぐに出られるわ」
自信たっぷりな声に、おどけたように肩を竦める。
「なら、行こう。無一文では気の毒だから、所持金は換金してやる。だが、関与するのはそこまでだ。……いいな?」
「優しいのね、トビィ。十分よ」
薄く笑ったガーベラに、トビィは鼻で笑った。
「健闘を祈る。行き先は惑星クレオのディアス。民から絶大な信頼と人気を誇る市長がいる、ゆえに治安もよい。何処もかしこも賑やかで、民の人柄もいい。そして、多くの傭兵が集まって来ているから、酒場も多い」
「傭兵? 戦が起きるの?」
強張った声に、トビィは薄く微笑んだ。
「違う。万が一に備え、集めているだけだ。一般常識から外れた者は、腕が立てども、あそこでやっていけない。見境なく女を襲う奴はいないさ」
「安心したわ」
はにかんだ笑みを浮かべたので、トビィが眉間に皺を寄せる。
「ただな、お前はもう少し警戒したほうがいい。夜更けに女が一人で歩くなど、何処だって危険だ。常識が通用しない奴は、一定数存在する」
「……夜に出歩くことが、いままでなかったから」
娼婦の勤務時間は、大体夜。口籠ったガーベラに、トビィは呆れて溜息を吐いた。
「やれやれ、箱入り娼婦か」
「う、うるさいわね。でも、その街は安心なのでしょう?」
「酒が入ると気が大きくなり、タガが外れる奴もいるさ。安心な場所など、この世に何処にもない。自分の身は、自分で守れ」
トビィは、小剣を机に置いた。コトン、と乾いた音が響く。
「やる。護身用だ」
朱い石が埋め込まれた鞘は、装飾品のようで美しい。ガーベラは、躊躇いがちにそれを手にして引き抜く。
華奢な作りだが、鋭利な白刃に震えがきた。
「……襲われたら、突き立てろと?」
「出番がないことを祈る。だが……お前は妙な男を引き寄せる天才かもしれない。魔除けとでも思え」
「全然嬉しくないわね。私に隙があるのかしら、変わりたいとは思うけど」
「お前自身が、その小剣になればいい。近寄るものは切り裂くくらいの気を放ち、男を寄せ付けるな。職業柄、甘んじて受け入れてきたのかもしれないが、今は唄い手だろ?」
「そうよ。私は唄い手ガーベラ」
自信に念を押すように告げ、ガーベラは眉の辺りに決意の色を浮かべる。
「ディアスには勇者の仲間が常駐している、何かあれば頼れ。アサギも会いやすいだろうし」
「トビィはいないの?」
「アサギがいる時は、オレもいる」
「徹底しているのね」
真顔で告げたトビィに、ガーベラは呆れて吹き出す。
「理解が追いつかないのだけれど、新天地へ行くという解釈でいいのよね?」
「平たく言うと、そうだ」
「あの、会話はどうしたらいいのかしら。私には学がないから、文字も分からない」
「文字については追々覚えていけばいい。会話は心配するな、オレとこうして喋っているだろ」
「……そうだけど、トビィが私に合せているのだとばかり」
戸惑うガーベラに、トビィは顔を顰める。その件に関しては、以前から仲間内でも疑問に上がっていた。
「だよな、普通はそう思う。不可解なことだが、何故か通じる。未だに謎だ」
「そうなのね。理屈は分からないけど、私にはありがたいことだわ」
胸を撫で下ろしたガーベラを見て、トビィは長い足を組み直した。瞳を険しくして、話しを戻す。
「素性を知っているのは、オレだけ。アサギにクレシダ、デズデモーナは“娼婦”自体理解していない。アーサーには唄が好きな街娘だと伝えた」
「つまり、トビィが漏らさなければ、私が娼婦だったことは露見しないのね」
「あぁ。泥酔したお前が言わない限り」
凄まれ、ガーベラは昨晩を思い出した。酒の勢いを借りて、絡んだ自分を思い出す。
「……ヘマはしない、昨晩のことは忘れて」
「そうする。念を押すが、これは普通ならば有り得ない。偶然お前がアサギに気に入られたからこそ、成立した。それを忘れるな」
「肝に銘じるわ。彼女がいなければ、私はとうに死んでいたでしょうから」
キィィィ、カトン。
何処かで何かが廻る音がした。
「ワイバーンから助けてくれて、私に機会を与えてくれた子。恩に着ます」
意欲に満ちた希望の瞳を見たトビィは、うっすらと微笑む。昨晩の自暴自棄になっていた女はどこにもいない、背筋を伸ばし、凛としている姿は貫禄がある。
娼館に足を運んだ際、トビィはニキやエミィ、それに館の主人からガーベラの評判を聞いた。大層人気の娼婦で、引く手数多だったと。確かに、華がある。
「節度をもって頑張れ」
トビィは、それを激励の言葉とした。
「えぇ、ありがとう。感謝するわ、トビィ」
こうして、本来有り得ないことだが、何の力も持たぬガーベラは惑星を移動した。魔王はいないが、“破壊の姫君”という不穏な者の復活が噂される地へ、戦うことも出来ない非力な女が足を踏み入れる。
もし、彼女が娼婦でなかったら。
もし、彼女が勇者と出会わなければ。
もし、彼女が……。
自分の事を誰もが知らない街でトビィと別れたガーベラは、意気込んで宿を探した。風呂屋と併設しているという宿に滞在を決め、すぐに街に出る。
人混みの中を、弾む心で歩いた。
トビィに言われた通り活気があり、出会う人々は皆笑顔だった。充実した生活を送っているのだろう、用意されたような楽園だと思った。
時は夕刻。
迷子にならぬよう、滞在先に戻れるように目印を覚え進み、公園を見つける。
ガーベラは、大木の下で声を張り上げた。
「何もなき宇宙の果て 何かを思い起こさせる
向こうで何かが叫ぶ 悲しみの旋律を奏でる
夢の中に落ちていく 光る湖畔闇に見つける
緑の杭に繋がれた私 現実を覆い隠したまま
薄闇押し寄せ 霧が心覆い 全て消えた
目覚めの時に 心晴れ渡り 現実を知る
そこに待つのは 生か死か」
長い金髪が風にあおられ、優雅になびく。蒼石のように澄み渡り光る瞳と、細滝から水が流れ落ちるような清清しさのある声が伸びる。深紅の衣装が映え、上品な物腰は貴族の娘を連想させた。
何も知らぬ人々が足を止めるには、十分だった。一人、二人と、確実にその声に聴き入った。




