娼婦の自尊心
ログとカルヴェネを交互に見やったガーベラは、胸を刺される思いで身体中を震わす。
「……どういうことなの」
聞き間違いであれば、どんなによかったか。しかし、ログははっきりと言った。
『僕が愛しているのは、もう君じゃない。ガーベラさんを愛している』
興奮で胸が激しく波立つのを感じ、拳を握りしめて落ち着かせようとした。
混乱しているガーベラに寄り添いながら、悠長な声でログが語り出す。
「最初はね、美しいけれど酷く哀しそうだな、って思った。それは、街で見かけた時も同じこと。けれど、会っているうちに思ったんだ。僕が、ガーベラさんを笑わせてあげたいって」
余計なお世話だと思った。笑いたいなどと思った事は一度もないはずだ。ガーベラはログの思考についていけず、夢であれば覚めて欲しいと願う。
「いつしか、カルヴェネよりも、ガーベラさんが気になっていた。それで、気づいたんだ。館へ行くと、嬉しそうに微笑んでくれる。そうして、僕の話を熱心に聞いてくれる。全ての仕草から、僕への愛を感じたよ。だから僕は応える」
「…………」
開いた口が塞がらない。
客として館に来た男は、当然もてなす。それらは全て営業用だと気づいていないのだろうか、ただの仕事であり、特別な感情はない。ガーベラは呆気にとられ、絶句した。
「街で見かけたら、奥ゆかしく微笑んでくれる。けれど君は僕の事を案じているから『もっとお店に来て欲しい』とは言わなかった。僕に逢えるだけで十分だと、けなげな視線で訴えていた」
驚くほど前向き、いや、自己解釈が斜め上だった。
奥ゆかしく微笑んでいたのではない、対応に困り苦笑しただけ。
結婚を控えた金がない男を客にしても仕方がないので、決まり文句「また会いたい」は言わなかった。
逢えるだけで十分だなどと、そんな馬鹿げたことは思っていない。この男は何をしているのかと、白けた視線を浮かべたことはあったが。
濁った硝子のように、のっぺりとした瞳と視線が交差する。気味が悪くて、ガーベラは喉の奥で悲鳴を上げた。
この男、正気の沙汰とは思えない。
「この泥棒猫! 純真無垢で真面目なログを返してっ! 返してよおおおおおおっ! 汚らわしい身体を使って虜にして、財産を奪う気なのねっ!」
カルヴェネが泣き喚きながら近づいてきたので、逃げようとした。しかし、ログに抱かれ逃げられない。
二人共落ちついて、私の話を聞いて。
ガーベラは何度も告げようとしたが、混乱のあまりしゃべり方を忘れていた。
「やめてくれ、カルヴェネ。ガーベラさんは清廉潔白な女性だ」
「清廉潔白な娼婦がこの世に存在するわけないでしょうっ! 男の心を弄ぶことに長けた、狡猾で賤しい女しかいないわよっ」
「ガーベラさんは違うっ!」
「間抜けな男ねっ、騙されていることに気づかないなんてっ」
目の前で言い争う二人を見て、ようやくガーベラは正気を取り戻した。
「カルヴェネ、君には申し訳ない事したと思っている。だが、ガーベラさんは僕の運命の恋人なんだ! 出逢いは天啓だ」
そんなわけあるか。
ログの言葉に、ガーベラの心は水をかけたように冷たく冴えた。
「……貴方は大きな勘違いをしている」
殴りつけるような怒りを籠めた、冷淡な声が響く。ガーベラの瞳には憎悪が宿っていた。
「婚約者に謝って許しを乞いなさい。優しく聡明な彼女は、受けいれてくれるかもしれない。貴方が本当に愛しているのは私ではなく、彼女よ」
「大丈夫、安心して。僕が愛しているのは、ガーベラさんだ」
聞いていたカルヴェネの絶叫が響き渡る。
「殺してやる、殺してやるっ! 二人共殺してやるぅううううううううううう!」
覚悟を決めているようだったので、慌てた周囲の男が数人がかりで抑え込んだ。大地に押し付けられても、血走った瞳でこちらを睨んでいる。娘の力とは思えぬ程、強い力で暴れていることは見てとれた。
怒り狂う気持ちは、分かる。ガーベラは彼女を憐れに思った。
目の前のログは、始終笑みを浮かべている。元婚約者の醜態を気にせず、焦点の合わぬ瞳で一心にガーベラを見ていた。
「ガーベラさん、娼婦を辞めよう。僕と一緒に暮らそう、そして、二人で生きていこう。これからは始終一緒だ、僕が君を護る」
こんな安っぽい言葉で心が揺れるとでも思ったのか。興醒めしたガーベラは、平手打ちしたい気持ちを必死で耐えた。
「娼婦を辞めたいなんて言ってない。あそこは私の家よ、家族同然の大事な仲間がいる」
「優しいガーベラさんは、全員に気を遣っているね。でも大丈夫、僕には分かる。懸命に助けを求めていることを、僕は知っている。嬉しいだろう、羨望の眼差しで聞いてくれた話が現実になるよ。これから、僕と物語とつくるんだ」
「助けなど求めていない。貴方と彼女の恋愛話は確かに素敵だけれども、そうなりたいだなんて一言も告げていない」
確かに、惚気話の最中に「素敵」と相槌はうった。それを、この男は勘違いしたらしい。
「いじらしいね。大丈夫、僕は全てを知っている」
虚無の瞳で覗き込まれ、ガーベラの背筋が凍る。狂気染みた声で語る彼は、以前の純朴な青年ではない。相思相愛の二人ゆえ、嫉む魔女に呪いをかけられたと思いたかった。
狂わせたのは、本当に自分なのか。罪の意識に苛まれたが、間違った対応はしていない。
「素敵な惚気話だった。けれど、あれは貴方と彼女の物語。貴方と私の物語ではない」
ガーベラは、気丈に言い返した。二人の関係は羨ましく、聴いていて憧れたのは確かだ。だが、彼女になり替わろうとは望んでいない。
「心配しないで、きっと幸せにしてみせる」
現実を見ないログに、いい加減堪忍袋の緒が切れる。
「貴方には、無理よ」
「無理じゃな」
「私の何を知っているというの? 公衆の面前で蔑まれ暴行を受け、その原因を作った男と共になる女だと思っているの? そんなわけないでしょう、見縊るのもいい加減になさい」
ピシャリと言うと、ログが硬直する。
「確かに、貴方の惚気話はとても興味深かった。でも、貴方自身に興味はないの。解るかしら?」
ログの瞳は死んだ魚のようで恐ろしい。しかし、突き放す為に視線をそらさずに告げる。
「でも、もうこれで終わり。そうでしょう? 私が愉しんでいた恋人の話は、今ここで、終わってしまった。貴方が壊した」
ガーベラはログを突き飛ばし、颯爽と立ち上がった。静まり返った周囲に一瞥し、まだ吼えているカルヴェナに、哀しそうな瞳を贈る。
唖然と自分を見上げたログに、冷酷な瞳を投げかける。
「なんてつまらない男! けれど、今まで愉しい物語を聞かせてくれた、そのお礼をしなくては」
吐き捨てるように告げ、身に着けていた真珠の指輪と紅玉の腕輪、そして翠玉の首飾りをログに投げつける。
「楽しいお話をありがとう、お客様。よい退屈しのぎでした、さようなら」
痛む身体に、唇を噛締める。けれど、毅然とした態度でガーベラは優雅に振る舞った。しゃんと背筋を正し、エミィとニキが待っている方角へ歩き出す。
堂々と、正面を向いて。
決して、俯かない。
「嫌味な女! 男を寝取って、あの言い草だ!」
「怖い女だねぇっ、微塵も悪いと思っちゃいない」
「毒婦だよ、こわやこわや」
どうせ世間は味方してくれない。本当の話をしたところで、聞いてくれない。
ならば、演じてやろうと思った。
それが、娼婦として生きてきた自分が振舞えることだと思った。
「そんな女に騙されるほうが悪いのでは?」
振り返り、酷薄な笑みを浮かべて言い放つ。泣き出したいのを堪え、悪女を演じる。
そうしたら、あの二人は元の鞘に戻るかもしれない。
「私は、無垢な青年を巧みに誘い出し翻弄した、悪い娼婦」
捻った足も、殴られた身体も、心も、とても痛いけれど。