■結婚を控えた男ログ
挿入イラスト:茶蜂様。
とても素敵なガーベラを描いていただきました!!!!
ありがとうございます!!!
不思議な事に、それから街で男に出会うようになった。
会うといっても、視線が交差するだけ。名も知らぬ男は、そのたびに笑顔で会釈した。
苦笑しつつも、礼儀でガーベラも頭を下げた。しかし、やましい事はないのに罪悪感に苛まれる。結婚を控えた男が娼婦と顔見知りでは、世間的によくないだろうと。妻となる女性にも、失礼だと。
いつも、逃げるようにしてその場を離れた。
意識して街を見渡すと、自分と同じ年頃の男女が親しげに声を上げて笑っている。
あれは、友達だろうか。それとも、恋人だろうか。
ガーベラは異性の友達がいないどころか、客以外の男と会話したことがほぼない。
自分の居場所が街にはないことを、心得ているはずなのに。浮いてしまう自分がどうしても嫌だった。
暫くして、あの男が娼館にやってきた。
意気揚々と入ってきたので、目を丸くして絶句する。
「貴方……何をしているの」
結婚を控えているのに、妙な噂が立てば破談になるのではないのか。娼館通いをしている男を、妻となる女は受け入れるのか。
「ガーベラさんと話したくて。街で見かけることもあるけれど、忙しそうだから」
「随分と変わったことを仰るのね、街で娼婦と会話したら駄目よ」
高い金を払って会話に来た客は、ルク以来だ。芸術家の彼は頭の螺旋が飛んでいてもおかしくないが、彼はまっとうな青年に思える。
「ガーベラさんは、僕の話をきちんと聴いてくれる。みんな、真面目に話を聞いてくれないんですよねー。聞き流してる」
毎回惚気話だから、聞き飽きているのでは。ガーベラは思ったが、口に出さずにぎこちなく微笑んだ。
「私は貴方の話を聞く事しか出来ないけれど……。それで本当によいのかしら」
「はい、お願いします!」
爽やかな笑顔で頷いた男に、ガーベラは肩を竦めた。客がよいと言うのなら、止める必要はない。首を傾げながらも、声に耳を傾ける。
「そうだ、名乗っていませんでしたね。僕はログです」
何処となくルクと似たような響きで、ガーベラは一瞬強張った。
「……名前を教えてくれてありがとう、ログ」
結局、ログはこの日も大金を払って惚気話を続けた。
聞きながら、ガーベラは彼をじっくりと観察する。汚れた靴に、皺まみれの洋服。お世辞にも小奇麗とは言い難い。
富裕層は金を水のように使うらしいが、貧困層とは言えないにしろ、彼に金があるとは思えない。金を払ってまで、何故惚気話を聞かせたいのか。
「ありがとうございました、ガーベラさん」
「こちらこそ、来てくださってありがとうございました」
また、いらしてね。
ガーベラはお決まりの文句を言えずに飲み込む。この場所は、ログが通ってよい場所ではない。もう来るなと言いたいが、そうも言えずに笑顔で送り出す。
「変な男……」
もうすぐ、空は銀色に染まるだろう。太陽が顔を出す前に、晴れない気分を振り切るため娼館を出た。
砂浜を歩くと、海から来た冷たい風が身にしみる。軽く震え、それでも星空の下で唄った。冷たい空気は心地良く、自分が生きていることを実感出来る。
「大樹となりし、もとはか弱きただの芽は
幾多の数奇で過酷な運命を乗り越え
それでも必死に足掻き、干からびた大地から芽を出した
大いなる生命の源
全ては芽の一途な思いゆえ
何度も輪廻し、魂を回帰し
神秘の宇宙に飲み込まれ
唯一の救いを求め、愛しいモノに手を伸ばす
永遠の想いをここに、心はそこに
時は止まりはしない、残酷で愛おしいこの世界で」
海を見ていると落ち着くが、得体の知れないモノに惹かれる危うい感覚もある。
波の音に耳を傾けると、物悲しい合唱に聞こえた。
海は魔性だ。船に乗った事はないが、見ているだけでも多少恐怖する。一人きりでいると、海中から伸びてきた手に絡めとられるような錯覚を起こす。
晴れた日の海ですら、美し過ぎて怖い。水面に反射する太陽の光が宝石のようで、引き寄せられる。それなのに、どうしても見に来てしまう。
子供の頃、娼婦が御伽噺を聞かせてくれた。
海には人魚という唄が得意な種族がいると。美声らしいが、船乗りは唄が聞こえたら耳をふさぐという。その唄は人間を狂わせ、船を難波させる力を持つらしい。
「こんなにも海を恐れながらも焦がれる私は、人魚の末裔だったりして」
馬鹿らしいと思いつつ、口にする。
「海に浮かび漂っていられたら、気持ちが良いのかしら。水中でも呼吸出来るのなら、光が届かぬ深い海の底で横たわっていたい。きっと、そこは静かな私の楽園。ずっと、唄っていられる」
人魚は、人間を狂わせる気などないのではないかと思った。単に、聞き入った人間が船の操作を誤るだけではないのか。
「可哀想な人魚。存分に唄いたいだけなのにね」
波の音がガーベラを誘う。一緒に唄おう、もっと唄おうと。
「実は、恩恵を受け幾つもならせたもう
至上の楽園に育つ大木、誰しもが欲し手を伸ばす
魅惑で甘美なその実を、惜しげもなく人々に分け与えん
一口齧れば笑み溢し、二口齧れば涙溢れ
三口齧れば生命湧き出る
全ての生命の根源を、ただ皆に分け与える
実を口にし、幸せそうに微笑む生命たちを
この上ない喜びだと思い、大木は歓喜した
風に乗って声を出し、多くの生命を呼び寄せる」