泥棒猫
身体は怠いのに、眠ってしまいたいのに、寝台の中で微睡む。
『この、泥棒猫っ!』
胸に仕舞っていた、嫌な事を思い出した。唇を尖らせ、頭を掻く。
「これは、忠告なの?」
項垂れて、無理やり瞳を閉じる。
それは、ガーベラが十五になった頃だった。
買い出しの最中に、街で一組の恋人に出会った。興味はなかったが、二人がはしゃぐ声が大きくて、ついそちらを見た。
二人の買い物にしては多い荷物を抱え、仲睦まじく腕を組んでいる。
正直、その絡んでいる腕を離せばよいのにと思った。どう見ても邪魔だろうに。
「新調したいから、お揃いの食器も買いに行こう! それから……」
「はいはい、落ち着いて。焦らず、必要なものを買い揃えていこう。式まで時間はある、大丈夫だよ」
会話から察するに、結婚を控えているらしい。こちらが恥ずかしくなるほどに、彼らは胸を躍らせていた。きっと、心も身体も浮いてしまう気分なのだろう。
恋人も結婚も自分とは無縁だが、微笑ましく思った。うっすらと口元に笑みを浮かべ、再び買い物に戻る。
数日後、娼館に若い男たちがやって来た。
この店の客層は、その多くが年配者。稀に裕福な若い男も来るが、この大人数は珍しい。その為、何事かと娼婦は浮足立った。
「ねぇ、見て! 若い男よっ」
「ふふ、久し振りねっ」
まだ幼い顔立ちの男らに興味津々で、多くの娼婦らは声がかかる事を願った。
そんな中、冷めた様子でガーベラは仲間たちを見やる。客の年齢も、顏も、興味がない。渋い紅茶を飲みながら、出来れば選ばないで欲しいと願った。
そうすれば暇が出来て、唄の事を考えていられる。
「ガーベラ、指名よ」
しかし、あっさりと期待は破られた。
「ああん、いいなぁガーベラは!」
身体を震わせて非難の眼を向けた仲間に、ぎこちなく微笑む。出来れば交代したい。
「いってきます」
紅茶を飲み干し、気だるく立ち上がったガーベラは部屋へ出向いた。
「こんばんは、ようこそいらっしゃいました」
客を見て驚いたが、ガーベラはそんなそぶりを見せず優雅に会釈する。
「こ、こここここんばんは」
先日、街で見かけた男だった。結婚を控えているのに、このような場所に来てよいのだろうか。心配になったが、どんな事情を抱えているにしろ客である。精一杯おもてなしをするだけだ。
赤面して突っ立っている男に声をかけ、寝台へ誘う。
「こちらへどうぞ。緊張せず、ゆっくりなさってください」
努めて柔らかく声をかけると、男は全力で首を横に振る。
「す、すいませんっ! こ、こういった場所に来ることは、はじ、初めてでっ」
しどろもどろに語りだす男に、ガーベラは近寄って手を差し伸べた。
「家だと思って寛いでくださいな」
「は、はぁ」
しかし、手にも触れず突っ立ったままだ。自らこの店に来たとは思えないほど、狼狽している。
「では、まずお話しましょう。何か飲みたいものはございますか?」
ガーベラの視線を辿り、並んでいるワインを一瞥した男は首を横に振る。
「僕、呑めないので」
「では、ナツメ茶は如何ですか。落ち着きますよ」
「で、ではそれを……」
面倒な客が来てしまったと、ガーベラは心中で大きな溜息を吐く。この男は、おそらく“客”ではない。茶を煎れながら、何を話そうか悩んだ。
「どうぞ、お飲みになって」
丁寧に煎れた茶をすすめると、男は深く頭を下げた。すすってみて、甘い味わいに瞳を開く。
「とても、美味しいです!」
「それはようございました。いくらでも飲んでくださいね」
茶を淹れるだけなら、楽だ。このままであれと、ガーベラは男を見つめる。
「あの。……気を悪くしないでください」
二杯目に口をつけたところで、男はようやく真正面からガーベラを見つめた。
「その。結婚する前に、お前も一度体験しておいたほうがいいって友人が言ったので。彼らは酔っていて……成り行きでこのお店に来ました。折角だからと、一番人気の貴女を友人が指名して……。あいつら、金まで出してくれたんです。断れなくて」
「まぁ、そうでしたか」
納得した。やはり、彼は自ら店に来たわけではないのだ。
何処かで、安堵した。この実直そうな男は、恋人を裏切ったわけではない。
「僕には、愛する恋人がいます。ですから、貴女を抱く事は出来ません。……これは、貴女に恥をかかせますか?」
「いいえ。ただ、部屋に入ってしまうと御代を返すことは出来ません。了承していただけますか?」
「勿論です!」
「それでしたら、私は恥をかくどころか癒されました。とても素敵です、互いに愛し合っているのね」
微笑んで告げると、気を良くしたのか男の瞳が光り輝いた。
「よかった、怒られると思いました!」
「とんでもございません」
「嬉しいなぁ! 僕の恋人は、数年前この街に越して来たんです」
突然、人が変わったように饒舌に語り出す。婚約者との出会いに思い出を、包み隠さず照れながら語る。
「彼女のお父様は造船技師で、市長に呼ばれたそうで。奇跡ですよね! 美人が来たと噂になり、僕も連れられて見に行きました。なるほど、確かに彫りが深く美しい顔立ちで。僕は木材を扱う業者に身を置いているので、売り込むたびに顔を合わせることが出来ました」
ガーベラは呆気にとられた。妻や恋人、娘の話をする客はいたが、大体は不平不満である。惚気話が始まり、困惑する。
「ある時、知り合いの漁師が大漁だったからと、鍋を作りました。その時、近くにいた者たちが呼ばれて、馳走になりました。そこで彼女と会話しました」
うっとりと語る男は、ガーベラがいてもいなくても語っていただろう。
「ぐっと距離が縮まり、気づいたら交際を始めて。彼女は最高です、出会えてよかったと何度思ったか! 神のおぼしめしですよ。そうそう、先日、新居で使う食器を購入しまして」
熱弁は止まらない。
だが、悪い気はしなかった。この男は、心から恋人を愛している。そして、周囲にもその愛を振りまいている。幸福をおすそ分けしてもらったようで、知らず笑顔になる。
「御幸せに。幸せなお嫁さんね、大事になさってくださいな」
「勿論ですよ!」
その話は、娼館で働いているガーベラには無縁な内容だった。有り触れた内容だが、これが年頃の男女が体験する恋愛なのだと関心をもった。
「外の世界では、こうして男女が惹かれ合うのね」
きっかけは些細なことなのだろう。
上を通り過ぎた男の数など馬鹿らしくて数えていないが、その中に興味を惹いた男は一人しかいない。帰らぬ人となった、吟遊詩人のルクである。
ただ、彼に抱いていた感情も、恋だったのか分からない。単純に尊敬していただけかもしれない。
男は、結局喉が嗄れるまで話し込んだ。
朝陽が窓から差し込むと、男は我に返って羞恥心から顔を染める。
「す、すみませんっ。僕ばかり話してしまって」
「構いませんわ。ここは、男性の心を癒す場所。貴方が楽しく過ごせたのなら、私も幸せです」
「ありがとうございます。美しいのは見た目だけでなく、心もですね」
仕事だから付き合っているだけ。断じて心が綺麗なわけではない。
ガーベラは貼りつけたような笑みを浮かべ、彼を見送る。今の言葉が、何処となく心に突き刺さった。
すぐに忘れる娼婦に、世辞など不要なのに。心の中で、悪態つく。
去り際、不意に男が振り返ったのでガーベラは息を飲んだ。
「ところで。……何故、貴女はそんなに悲しい顔をしているのですか?」
「え?」
鈍器で殴られたような衝撃だった。
「ずっと、悲しそうに瞳を伏せて話を聞いていたから」
ガーベラの心は、大きく揺さぶられた。そんな筈はない、皆が褒める笑顔で聞いていた筈だと拳を握る。心の奥がじんわりとした、くすぐったい気がして、自然と口の端に笑みを浮かべていた。
その筈だ。
「そうかしら? ……気のせいですわ、だって、お話がとても楽しかったもの」
「……ガーベラさん、ありがとうございました」
去っていく客を見送ると、眩暈がして壁にもたれかかる。
「悲しそう? 私が?」
有り得ないと、首を横に振った。