新たな街で
夢を見ていた。
最初は小さな店、そこから噂が広まり、引く手数多の歌姫になる。行く先々で披露し、思うままに生きていく。時折故郷に帰り、仲間たちと語り合う。褒めてもらえたら、とても嬉しい。
奢っていた。
失意のまま、夜が明ける。
居た堪れなくて、ガーベラは意を決した。虚ろな瞳で宿の主人に謝罪し、多額の金を机に置いた。引き止める主人を振り払い、身なりを整えぬまま宿を飛び出す。
「ごめんなさい!」
この街にはいられない。あの男らは、今後も仲間を呼んで慰み者にするだろう。
自分の際立った容姿を恨み、ガーベラは馬車に飛び乗った。薄汚れた布で全身を覆い、隅で息を殺す。
昨日公園で出会った主婦、そして宿の主人。離れたくない人々にも出会えたが、あまりにも危険が多い。彼らを思い出すだけで恐ろしく、涙が溢れて嗚咽が漏れた。
願わくば次の街で、優しい誰かに巡り合いたい。
願わくば次の街には、娼婦ガーベラを知る男がいませんように。
辿り着いた先は、疲弊しきった人々が淡々と仕事をこなしている街だった。活気がなく、皆同じような表情をしている。楽しさを見出せず、生きる事を仕事としているような。
「今の私には丁度良いのかも」
自嘲気味に笑ったガーベラは、一先ず宿を探す。
先の街と違い、どこもかしこも年季が入って小汚い宿ばかりだった。古くとも趣のある店がないのだ。贅沢をする余裕はないが、結局選んだのは最も高い宿だった。
明日は街の散策をして、夜に店をまわることにした。馬車で縮こまっていたので、軋む身体をほぐすように大きく伸びる。
「起きたら、頑張りましょう」
言い聞かせるように告げ、疲れていたのですぐに眠りに落ちた。
思えば、昨日は水しか口にしていない。
寝台の上で瞳を開いたガーベラは、空腹を覚えて顔を顰める。もう恐ろしい目に遭わなくて済むと思うと、急に全身の力が抜けた。
宿で朝食をいただくと、穀物をこねて油で揚げたようなものと発酵乳が出てきた。どちらも蜂蜜がたっぷりかかっている。少しくどいが、クセになる味だった。
鮮やかな淡青に晴れた空の下で、街を散策した。広場を見つけたので、そこで唄う。
行き交う人々が一瞬立ち止まる、しかし、最後まで聴く人はいない。それでも関心を持ってもらえるのならと、休憩をしながら陽が傾くまで唄い続けた。
遠くの山々が薄墨に溶け、闇夜に消えてゆく。
ガーベラは大きく固唾を飲み込むと、震える足に鞭を打って酒場を目指した。
「唄わせてください、報酬は結構です」
最初に入った店で、そう懇願した。
「そこの隅でよいなら、ご自由に」
「ありがとうございます!」
訝ってガーベラを一瞥した店主に深く頭を下げ、瞳を輝かせる。
「春の息吹が運ぶもの、暖かな日差しのその季節
奏でる音は、天上の調べ
眩いばかりの光が、恋人たちに降り注ぐ
愛しい、君よ
どうか君の歩く路が、光溢れるものでありますように
全ての闇を跳ね返し、明るい路を進めるように
ここから願い続けよう」
まばらな客は聴いているのだろうか。
それでも罵声を浴びさせられることなく、数曲唄った。硬貨は無論拍手すら貰うことは無かったが、店で唄えたことは大きな前進だ。
店主が残り物の肉をパンに挟み突き出してきたので、有り難く戴く。ちょうど腹が減っていた。
「明日も来ていいぜ、俺は好きだった」
去り際に、店主は小声でそう言った。
小さな悲鳴を上げたガーベラは、何度も深く頭を下げる。涙が溢れ出す、これは昨日までの悔し涙ではない、喜びの涙だ。
「いただきます……!」
泣き笑いで宿に戻ると、いただいたパンに齧りつく。
初めて、唄で褒美をもらった。パンも肉も、硬いし冷たい。しかし、今まで食べた何よりも美味しく思えた。
『俺は好きだった』
なんと素敵な一言か、単に上手いと言われるよりも心が震える。
翌日も広場で唄ってから、夜に同じ酒場へ出向いた。
「健やかに全ては育つ、生命の息吹をその身に受け
現実の残酷な冷たい空気に晒されても
強かに大きく伸びゆく生命の力強さよ
全ての命あるモノは、一つの夢を抱き
懸命にもがいて生きていく、美しき世界
繰り返す輪廻の渦に流されようとも
行き着く先は、物語の終焉
自分が決めた、たった一つの世界
願わくばそこが、自身が願ったものでありますように」
この日は、拍手をもらった。
小汚い店には不釣合いな、紳士的な老人からだった。
店主は、また「残り物だ」と肉を挟んだパンをくれた。残り物にしては、昨日より量が多い。
翌日は、二人から拍手をもらった。昨夜の老人が、友人らしき人を連れてきてくれたのだ。彼は気難しい顔をしている、だが、か細い腕で拍手をしてもらえると、感謝の気持ちで胸が一杯になった。自分の歌声を気に入ってくれているのだろうと思い、その人たちの期待に応えるべく懸命に唄う。
「大樹となりし、もとはか弱きただの芽は
幾多の数奇で過酷な運命を乗り越え
それでも必死に足掻き、干からびた大地から芽を出した
大いなる生命の源
全ては芽の一途な思いゆえ
何度も輪廻し、魂を回帰し
神秘の宇宙に飲み込まれ
唯一の救いを求め、愛しいモノに手を伸ばす
永遠の想いをここに、心はそこに
時は止まりはしない、残酷で愛おしいこの世界で」
不思議なもので、誰かを思って唄うと声が伸びる。
酒場の主人が変化に気づき、軽く目を開いた。老人たちは、小声で何かを話している。
十日ほど、この酒場で唄った。
報酬は、数人からの拍手と残飯。しかし、唄の価値に気づいたのか、店主はぶっきらぼうに「ほらよ、残り物だ」とくれるが、だんだん豪華になってきた。香辛料で煮込んだ温かなワインも「余ったから」と出してくれた。
「うむ、良い声じゃ。荒削りではあるが、伸び伸びと唄っているときの声はとても美しいよ。これからも“唄が好きだ”という気持ちを忘れないことじゃな」
最初に拍手をくれた老人が、ようやくガーベラに声をかけた。彼は、毎日この店に通っている。
「御礼の申し上げようがございません!」
老人はやんわりと微笑み、「いつもありがとう」と硬貨をくれた。
あまりのことに泣き出したガーベラは、狼狽する老人に頭を下げ続ける。
「これこれ、泣くんじゃない。別嬪さんに泣かれて、どうしたらよいのか」
「ごめんなさい、でも、嬉しくて! 本当にありがとうございます」
「あんたは、飛び抜けて器量が良い。涼やかな目元で誤解を受けやすかろうが、普通の素直な女性じゃ」
そんな言葉を貰ったのは初めてだった。ようやく、娼婦ではなく唄が好きな女として認められた。
老人が話を広めてくれたのか、客足も増えたように思える。しかし、この時のガーベラは客が一人でも十人でも、変わらず唄っただろう。
「居場所を見つけた! このお店で唄い続けよう」
ガーベラは、今日も艶美に微笑み唄う。
恋をしていた、唄に。いや、唄う自分に。
十五日ほど経過すると、狭い店内は満席になった。
心地良い歌声は、ほっそりと流れ落ちる滝糸のように繊細で美しい。また、すでにある唄ではなく、ガーベラが創り出した唄なので物珍しいことも評判だった。
相変わらず給料を受け取ることはなかった。だが、まかないとして机で夕食を戴くことが出来たし、客から酒を貰うこともあった。
また、店主の厚意で、開店前に店内を掃除する仕事も貰えた。それには給料が発生したが、受け取った金は、とても掃除だけとは思えない額だった。口下手な店主が、今更唄に金を出すとは言えずに計らってくれたのだと、ガーベラはありがたく頂いた。
二十日ほど経過すると、他の町や村から客が来るようになった。
全ては、美しい容姿の麗しい声を聴く為だ。見事な緩やかな金髪、紺碧に光る瞳、男の目を惹くには十分過ぎる身体。付け加えて柔らかな物腰に、はにかむ笑顔。
「ガーベラちゃん、今日も素晴らしい声だった」
「聴いてくださって、ありがとうございました」
嬉しかった、自分の唄が認められたのだから。
けれどもその反面、心苦しさも感じていた。静かに唄に心酔してくれていた老人は、人が増え居心地が悪くなり店に足を運ばなくなった。
店主も儲けを目当てに営業していたわけではなかったので、溢れ返る客に少なからず苛立ちを感じている。流石に捌ききれないので人を雇い、出費と手間が増えてしまった。
客足と共に問題も増える。客同士の争いに、勘定を誤魔化そうとする男も出てきた。
確かに贈られる拍手は増え、金がガーベラに手渡されることも頻繁にあった。だが、ここへ来て口数は少ないものの温かな人々との触れ合いが消えてしまい、寂しく感じてしまう。
有名になることは難しいことだと、痛感した。
思い悩んだガーベラは、溜息を吐き眉を顰めることが増えた。