最初の災難
行先など決めていない。
文字は、ほとんど読めない。それに、地理も分からない。何処でもよかったので、最も早く出航する船に乗り込んだ。
接客業であったものの、客や仲間以外と打ち解けてこなかったガーベラは、他人との同室を嫌悪した。ゆえに、少々割高ではあったが一人部屋をとった。痛い出費であるが、生活費を控え頑張ろうと腹を括る。
初めての船。
海の上に浮かぶ巨体は幾度も見てきたが、実際乗ることになるとは夢にも思わなかった。
「ルク、貴方はこれで世界を旅してきたのね」
潮風に髪をなびかせ、甲板から水平線を見やる。何処へ行くのか分からないが、最初に到着した港で下船することにした。
気分がよかったので、唄うために唇を開きかける。
「よい天気ですね」
すると、金持ち風の男に話しかけられた。
「……えぇ、本当に」
品定めするように一瞬で彼を見やると、癖で営業用の笑みを向ける。
この男は、娼館に来ていた男たちに似ている。金があれば女を買えると、驕った瞳をしていた。
世間話をしていると、食事に誘われた。食費が浮くとは思ったが、遠慮をする。旨い食事と甘い言葉で自室に連れ込む、身体目的だと判断した。
以後も、美しいガーベラは注目の的だった。何度も声をかけられたので落ち着かず、軽く唇を尖らせ自室に籠もる。
仕方なく、そこで唄った。
その頃甲板では、弦楽器を手にした青年が演奏をしていた。満足すると、聴いていた人々は金を払う。それを見ていたら、甲板で唄っていたかもしれない。しかし、自分の唄がこの場で見世物になるとは思っていなかった。
七日程経過し、ついに船が寄港した。
見知らぬ土地で、ガーベラは期待に胸を膨らませる。着いた先は、港街カーツよりも小ぶりな街だった。しかし、宿はすぐに見つかり満足する。小さい部屋だが、眠る事が出来れば十分だった。
誰もが、自分を知らない街。
そっと喉に手をそえ、声を発する。寛いでいる暇はない、暫くはここでやっていくのだ。観光に来たわけではないので、唄の仕事を探さねばならない。
「ルク、どうか私に勇気を」
形見の竪琴を胸に抱き、成功を祈る。
瞳を輝かせて部屋を後にする。この時、不安もあったが自信に満ち溢れていた。
背筋を伸ばし、美しいと誉められた歩き方で街中を彷徨った。小奇麗で洒落た店を見つけては、唄に自信があるので雇ってもらえないかと交渉をする。
だが、甘く見ていた。
六件まわったが、全て断られてしまった。しかも、唄を聞いてもらうことすらない。
ルクは「無償で公園や教会で唄う事もあるが、大体は金をもらって店で唄う」と言っていた。もしくは富豪に呼ばれて屋敷で披露するか。
それは高名な彼だからこそ為せる業だと、解っていなかった。
「唄を聞いてもらえたら、価値を解ってもらえるのに」
ルクやカーツの人々は、幾度もガーベラを褒めた。ゆえに、有頂天になってしまった。
金を貰った事は、一度もなかったのに。
「どうしよう」
予測していなかった事態に、心が大きく揺れる。
持て囃され、何もかもが保障されていたあの場所とは違う。そもそも、なんの縁故もない。
初日は不発に終わった。歩き疲れ、食事も摂らずに眠りにつく。
翌朝は、宿の朝食を摂って出掛けた。街の地図を頼りに、飲食店を歩き回って交渉した。
だが、ガーベラの容姿を見るなり『お嬢さんには、別の店が良いんじゃないか』と下卑た笑顔を浮かべる店員ばかりだった。
つまり、唄ではなく身体で稼げと言いたいのだろう。屈辱に唇を噛締めるが、必死に堪えて頭を下げた。
「どうか、聞いてから判断してください」
「あのねぇ、うちの店には唄なんて必要ないんだよ」
食い下がらず粘ったが、怪訝な顔であしらわれる。
「うーん、声は確かに素晴らしいね。でも、暗い。うちの店には合わないなぁ」
「こちらのお店に合う唄を披露しますので!」
「なら、今すぐに聞かせてよ。呑んで騒ぐ客が喜ぶ、軽快で明るい唄だよ。君にそれができるかい?」
五日経過したが、全て空振り。
疲労と焦燥感で気力が削がれてしまい、ついに太陽が空高く昇る頃に起床するようになってしまった。娼館にいた時は、誰よりも早く起きて散歩や朝食の支度をしていたのに。
怠惰な自分に、余計に嫌気がさす。しかし、寝台に転がっている時が一番幸せに思えて這い出るのが辛い。
描いていた夢は、既に崩壊しつつあった。
「おはようございます……」
「だ、大丈夫かい?」
日々生気を失って行くガーベラを見かね、宿の主人が昼食を出しつつ声をかけた。
「差し出がましいかねぇ、よかったら……うちで働くかい?」
「えっ」
それは、唄の仕事ではなかった。客が退室した部屋を午前中に掃除する仕事だが、その他は自由だという。
「嬉しいです、やらせてください!」
「給料は出せないが、一食部屋付きでどうだい?」
「ありがたいです!」
瞳を輝かせたガーベラは、大喜びでその申し出を受けた。宿代が嵩張っていたので、天にも昇る気持ちだった。
「では、朝食を用意しよう。もし昼も夜もうちで食べるなら、その時はまけるよ」
「感謝いたします。こちらのお料理は、いつも美味しいので」
「はは、嬉しいねぇ。では、明日からよろしく頼むよ」
華美な見た目とは裏腹に、いつも挨拶をしてくれるガーベラを宿の主人は気に入った。正直で真面目な、普通の娘だと思った。
「午前中は宿を手伝い、夜に飲食店で唄えたら幸せね」
仕事先を探す時間は減ったが、一人ではないという実感が湧いてガーベラに笑顔が戻る。
新たな目標が出来たので、、力が漲った。
その日も行く先々で断られたが、めげずに次の店へと出向くことが出来た。保証があると、随分と心に余裕がもてる。
そろそろ宿に戻ろうかと思うくらいには、夜が更けた頃。
最後の店にも断られて入口を出ようとした瞬間に、背中から声をかけられた。
「おぉい、待ってくれ! 話を聞いてしまった、よければ仕事の依頼をさせてくれないか」
振り返れば、その店の隅で呑んでいた男だった。興味はないが、職業柄顔を覚えるのが得意になっている。
ガーベラは軽く会釈をし、緊張気味に首を傾げた。静かに立っていると、男は直ぐ傍の建物を指す。
「今夜限りだが、あそこで唄ってくれないか? 妹が臥せっていて……隣町の劇場へ唄を聴くため出向くような子なんだよ。高額は払えないが、礼はする。……どうだろう、引き受けてくれねぇか」
三十代前半の男だろう。小太り気味だが、顔は優しそうで、照れたような笑みを浮かべている。
宿に帰る予定だったので、僅かでも報酬がもらえるならば願ったりだ。
「妹さん思いの御方ですね。是非、唄わせてください」
「本当かい! いやぁ、失礼だと思いつつ、耳を傾けてしまってすまねぇな。嬉しいよ」
快く了承すると、男は喜色満面で飛び跳ねた。
「こちらこそ、お役に立てて光栄です」
店の中の空気が、変わった気がした。
気づいたガーベラが一瞥すると、客がこちらを見ている。話が広まり、何処かの店から声がかかるといいなぁと、暢気なことを考えた。
「狭い部屋だが、すまねぇ」
「お構いなく」
男について、部屋に向かう。狭く汚い廊下を歩き、三階へ進んだ。
「さぁどうぞ」
「失礼致します」
足を踏み入れたガーベラは、眉を顰めた。
部屋には寝台が一つ置かれているが、妹がいない。床はかなり散らかっており、とても病人を看病しているとは思えない。
喉を絞められるような恐怖とともに、背後で男が低く嗤う。嵌められたと気付いたが、軽々と寝台へ投げ飛ばされた。
「な、なにをっ」
抵抗したが、男は圧し掛かってくる。狼狽しながらも睨みつけると、酒臭い息が吹きかけられた。
「あんた、カーツの人気娼婦だろ」
凄むように言われ、喉が鳴る。
「出稼ぎで何度か出向いた時に、あんたを見たことある。唄っつーのは、こっちのことだろ? 店で客引きするよか、路上で太腿を露にしたほうが早いぜ? すぐに男が引っかかる」
普段なら、この男に潜む下心に気づいただろう。しかし、この日のガーベラは異様に浮かれていた。自慢の瞳は、曇っていたのだ。
「ち、違う。私は娼婦ではありません。身体ではなく、唄を売るのです」
「だからぁ、嬌声のことだろう? 大丈夫、娼館の金額はだせねぇが、そこらの情婦に払うくらいの金ならきちんと渡すさ」
「なっ……!」
怒りに身体を震わせても、無意味な事だった。
「やめ、やめなさいっ」
「いやぁ、あんたのような美しい女、抱く金がなかったからなぁ。店で見た時は、僥倖だと思ったね! どれどれ」
娼館に来る客は、金も、ある程度の教養もあった。ゆえに、そこまで手荒なことはされなかった。
だが、この男は違う。衣服が引き裂かれ、悲鳴を上げた。
「ははっ、これが人気娼婦の肌かぁ! 綺麗だなぁ!」
男は、乱暴にガーベラを犯した。
悲鳴を上げても、誰も助けに来なかった。もしこれが娼館であったなら、雇われの屈強な男が助けに来てくれただろう。あの店で、娼婦は護られていた。
何日も風呂に入っていないのでは、というほど汗臭い男の身体。すえた臭いに、嘔吐しそうになる。
「おら、娼婦だろ? きちんと咥えろ」
娼婦だろうが、人間だ。だが、この男は玩具のようにガーベラを扱った。
誰か、助けて。
恐怖に怯え、ガーベラは泣き喚く。
仕事だと割り切っていた時とは、全く違う。もともと快楽に酔う身体ではなかったが、今はただ、とても悍ましい行為だった。
そもそも、これは仕事ではない。強姦だ。
どのくらい経過したのだろう。満足した男は、僅かな金をガーベラに持たせて部屋から追い出した。
「……ひど、い」
身も心も、傷ものになってしまった。震える足で、力なくその場に蹲る。
宿に帰って眠りたいのに、気力がない。何故下衆な男の嘘を見破れなかったのか、自分に腹が立ってきた。
悪いのは男なのに、間抜けな自分を責め続ける。
ふと、視線を感じて顔を上げる。薄汚い男たちが、こちらを見ていた。
先程の恐怖が甦り、喉の奥で悲鳴を上げる。髪を振り乱し、一目散に宿へ向かった。この街で、あの宿だけは安心できる。
「うぅっ」
部屋に飛び込むと、涙を流す。それでも嗚咽を堪え、歯を食いしばって穢れた身体を布で洗った。
床に、体内に吐き出された液体が垂れる。
「ぅえっ!」
見た途端に、先程の物恐ろしさが甦った。
胃液が飛散し、混ざり合う。それはまるで、男の体臭のように酷い悪臭だった。
まさか、この街に自分を知っている低劣な男がいただなんて。ガーベラは、皮膚が赤くなるまで身体を洗い続けた。