旅立ち
配慮したのだろう、トビィに連れられアサギは去った。
言い知れぬ不安が、身体中を駆け巡る。彼女の存在が怖いわけではない、寧ろ出会えて光栄だと。けれども、この血のざわめきが不気味で身の毛がよだつ。
初めての感覚で、今も足が震えている。
アサギの瞳から逃れると、少し気分が楽になった。神など信じていないが、殺人を犯し、責められるように見下ろされているような感覚だった。
「気持ちが悪い……」
自分が、酷く下卑た存在に思える。彼女が美しすぎて、自分を恥じているか。汚れない、清らか過ぎる乙女の前では、自分を蔑むしかないのか。
「つまり、私は彼女を羨んでいるのかしら」
あれが普通の娘なのだと、思い知らされたのが悔しいのか。アサギと同じ歳であっても、ガーベラはすでに客と寝ており、乙女ではなかった。
渦巻く感情が何か解らなくて、混乱する。
けれども、もう会う事もないだろう。アサギが来たがっても、把握したトビィが止めるに違いない。慈愛を存分に含ませた瞳で彼女を見ていた、心底慕っていた。
「人にはそれぞれ、似つかわしい場所があるものね。私が輝ける場所はここ、貴女は違うでしょう? 勇者様」
がーべラは、『マリーゴールド』と書かれた看板を見上げ瞳を細めた。
今宵も娼館は繁盛している。
客は、先程疲れ果てて眠ってしまった。老いた男は楽でいい。
「何もなき宇宙の果て 何かを思い起こさせる
向こうで何かが叫ぶ 悲しみの旋律を奏でる
夢の中に落ちていく 光る湖畔闇に見つける
緑の杭に繋がれた私 現実を覆い隠したまま
薄闇押し寄せ 霧が心覆い 全て消えた
目覚めの時に 心晴れ渡り 現実を知る
そこに待つのは 生か死か」
窓際で、夜更けに唄う。
そして、決意した。
今まで籠の中の鳥だったが、アサギという名の風は彼女の籠を倒した。運よく外れた扉から、逃げるようにして足を踏み出す。
触発されたのか、もしくは、ここにいてはアサギに出遭ってしまうかもしれないと恐れたか。
復興中に自分の歌声を気に入ってもらえて自信がついたこともあり、唄を理由に旅立つことにした。
昂揚していたのだろう、大胆な行動に自分でも驚く。
思い立ったので、質素な洋服を鞄に詰め込んだ。ルクから届いた形見の竪琴も一応仕舞い、旅立ちの準備をする。
なかなか寝付けなかったが、客が残したワインを温め直して飲み干すと、幾分か眠気がやってきた。
翌朝、普段通りの愛想がよい笑顔で客を見送る。
その後、鞄を握り締めて館の主人に挨拶に出向いた。
「失礼致します、ガーベラです」
震える声で入室すると、困惑気味に主人が微笑む。どう切り出そうか戸惑っていると、彼は机の引き出しから何かを取り出した。
「行くんだな、解っているよ。今までありがとう」
「えっ」
何故、と言おうとして、手にしている鞄に赤面する。どう見ても買い物へ行く格好ではない、察しのよい主人だと項垂れる。
「ガーベラには借金がない。それどころか、この店にかなり貢献してくれた。娼婦たちの面倒も見てくれたし、本当に感謝している。これは君の貯金だよ、持って行きなさい」
「えっ、えっ」
「戻るのも大歓迎だ、部屋はそのままにしておく」
あまりのことに、目を白黒させる。手渡された袋は、ずっしりと重い。
「わ、私」
あまりのことに、情が動かされて留まろうかとも思った。
「ガーベラは唄う事が好きだからな。知ったのはつい最近だが、私も応援しているよ」
「どうして……唄いたいと分かったのですか」
口籠りながら訪ねると、主人は豪快に笑う。
「何を言う、私は君の親代わりだろう! 娘を見ていなくてどうするんだい」
余計に、離れられなくなってしまう。ただの雇い主ではなかった、あまりにも広い心で見守っていてくれたらしい。
堪え切れず、涙が零れる。
「吟遊詩人の……ルクルーゼ殿、だったかな。彼の竪琴が届いた時にね、いつかいなくなる気がしていたよ」
しんみりと告げられ、咽た。
「店には痛手だ、何しろ看板娘を失うのだから。だが、可愛い子には旅をさせろ、というだろう?」
泣き笑いを浮かべて頷く。主人も涙腺が緩んで、恥ずかしそうに笑っていた。
「唄い手の道は厳しいだろう、しかし、自信を持って」
「はい、はい! 本当にお世話になりました。そして、ありがとうございます」
ここまで懐が深い男が、この世に存在したとは。ガーベラは、改めて自分の運の良さに感動した。
部屋を出ると、エミィとニキが待っていた。怒った顔で仁王立ちしているが、すぐに頬を赤くし涙を溢すとガーベラに抱きつく。
「行ってしまうの?」
「うん……うん! 失敗したら、戻ってくる」
「戻ってこないでよ、失敗するガーベラなんて興醒めだわ。貴女は、私の誇りで夢だから」
何も言わずとも解ってくれたようで、ガーベラは大粒の涙を零す。
「私、ガーベラの唄好きよ! 昨晩も唄っていたでしょう?」
「聞こえていたの? 恥ずかしい」
「ふふっ、私は熱狂的な支持者だからね。もっと唄を聴いていたいけれど、ガーベラが有名になったら自慢できるし」
三人は、子供のように手を繋いではしゃいだ。
「朝食は食べましょうよ、一緒に。今日の粥は美味しいわよ」
ニキ特製の粥は、穀類と芋類をじっくり煮込んだものだ。優しい味が、胃に染み渡る。そんな中で、二人は今朝方慌てて購入した美しい髪飾りをガーベラへ渡した。
主人の部屋へ出向く姿を見つけ、察したらしい。
「みんな、どうして私の事を理解してくれるの……?」
ありがた過ぎて、涙が出る。想像以上に恵まれた環境にいたらしい。
話を聞いた娼婦仲間も、次々に挨拶にやって来た。こんなに温かい場所を離れる自分は愚かなのかもしれない、それでも、やってみたいと思ってしまった。
「いってらっしゃい、ガーベラ!」
「戻って来て欲しいのに、戻って欲しくない。複雑な心境で頭も心も割れてしまいそう」
盛大に見送られたガーベラは、唇を噛締め娼館の敷地から足を踏み出す。
「……いってきます」
振り返って、静かに仲間たちと娼館を見つめた。
もし、この花壇に捨てられていなかったら。ここまで生きられなかったかもしれない。親に興味はないが、捨てる場所をここに決めてくれたことには感謝した。
「私を十六年間育ててくれて、ありがとうございました」
深く頭を下げ、泣いた。
自分の名を呼ぶ仲間の声を背に、港へ向かって歩き出す。ガーベラは軽く手を振ると、清々しい笑顔を見せた。
娼婦ガーベラはその名を捨て、旅立った。
しかし、知らなかった。
世の中には、『井の中の蛙、大海を知らず』という言葉があることを。