友情とは、いかに
緑が濃く光る空だった。
「ガーベラ、珍客よ」
唄いながら炊き出しの準備をしていたガーベラは、やって来た客に目を丸くした。連れてきたニキも肩を竦めている。
立っていたのは、市長の娘グランディーナだった。緊張していた様子だったが、瞳が合った瞬間に空気が弛んだことに、ガーベラは気づいた。
「こんにちは。……先日はありがとう。感謝を伝えてなかったから」
「律儀ね」
「当然よ、義を通すわ」
つっけんどんな物言いだが、以前のように見下すことはなく、これが彼女なりの精一杯の謝罪なのだと汲み取ったガーベラは呆気にとられつつも微笑む。
「これ、私が好きなお菓子。皆で食べて。施しじゃないわよ、御礼よ」
グランディーナに押し付けられた物を大事に抱え、柔らかく頷く。菓子と聞いて、ピンときた。おそらく、この中身を知っている。
皆の好物だ。
「有り難く頂戴するわ。……用はこれだけ? お嬢様がいるべき場所じゃない、早く戻ったほうがいい。中には、貴女が嫌悪するような輩もいる」
急に表情を険しくしたガーベラは、周囲を窺いつつ声を潜めて告げた。追い出したいわけではない、彼女を心配しているからこそ、本音を告げた。
無責任で悪意に満ちた噂は、尾ひれがついてすぐに広がってしまうものだ。
ワイバーン奇襲の要因が、市長が手にした卵だという真実は水面下で広まっている。それゆえ、鬱憤が溜まっている輩が少なからず存在した。グランディーナが市長の娘だと知られれば、何が起こるか分からない。彼女が身に纏うものは、どうしたって一級品で目立つ。地味な色合いを選んだつもりでも、余計に生地の良さが際立った。
二人を取り巻く環境には温度差がある。互いの領域へ踏み込み馴染もうとしても、難しい。
「分かったわ。……心配してくれてありがとう、あの」
「急いで。何かあれば、私たちがそちらの地区へ行くから」
奇妙な空気が流れる。グランディーナは、何か言いたげに口を開いた。
「あ、の。……じゃ、じゃあね!」
頬を赤く染めたグランディーナは、急ぎ足で踵を返す。
足をもつれさせながら逃げるように去っていく彼女を、肩を竦めながらも姿が消えるまで見送ったガーベラは瞳を伏せた。
「ただのお嬢じゃなかったんだ、意外」
「うん、話をしたら楽しいかもね」
娼婦仲間がそう話しているのを聞きながら、胸の前でそっと手を組んだ。
「……けれど、住む世界が違う。これ以上関わらないほうが、双方の為。怪我をするくらいなら、綺麗な関係のままでいたい」
呟いたガーベラは、艶やかに微笑んだ。
「一仕事終えたら、紅茶を淹れて一息つきましょう。みんなが大好きな例の焼き菓子よ、もう食べられないと思ってた」
受け取った物を軽く掲げて、弾んだ声を出した。
「何故中身が分かるの?」
「あの子の好物だからよ」
まさか、父からも娘からも同じ焼き菓子を受け取ることになるとは思わなかった。
これ以上深入りをしたら、グランディーナが父の娼館通いを知る時がくるかもしれない。心を許してくれていた彼女が嘆き悲しむ事を、避けたいと思った。
「知らなければ幸福でいられる……、そんなことって、世の中に多々あるでしょう? 臭い物には蓋をする、当然のことだわ」
「優しいねぇ、ガーベラ」
「優しいというのかしら、こういうのって」
復興支援者に、漁師汁を振る舞う。大きな鍋で作ったが、すぐに空になった。
その後、ゆったりとした時間の中で紅茶を淹れた。液体が落ちる柔らかい音と、温かい靄のような湯気が机の上を漂うと癒される。
「いただきます」
口にしたその菓子は、いつもより丸く、優しい味がしたように思えた。
「そういえば。ほら、いつだったかラシェ様の店先でグランディーナと取り巻きに絡まれたでしょ」
そんなこともあったなぁと、ガーベラは小さく頷く。
「取り巻きたち、グランディーナに見放されたらしいの。それで、腹いせに悪口を言いふらしているみたい」
「難儀な人たちね」
呆れたガーベラは肩を竦める。媚を売って擦り寄っていたので、そこに友情など存在しないことは明白だったが。
「ワイバーンに襲撃された日、足を痛めたグランディーナを置いて取り巻きたちは逃げた。それで目が覚めて、切り離したらしい」
「なるほど……」
「自業自得なのに、“色恋に狂い、男に貢いでいる”だなんて悪評を流し、どうしたいのか。美味しい御菓子のお礼を兼ねて、グランディーナを助けたいと思う。あまりにも醜い」
ニキは悪戯っぽく微笑んだ。
「それによって、娼婦と親しい市長の娘、なんて噂が流れないといいけれど。噂に拍車がかかりそう」
多少心配そうに眉根を寄せたガーベラは、最後の紅茶を飲み干した。
「あら、ガーベラは反対? 私、嘘を吹聴する人嫌いだもの」
「私だって同じよ。他人を傷つけ貶める嘘で自分を高める、卑劣な行為は嫌。けれど」
父の愚行が露見したら、さらに彼女は落ち込むだろう。
「もし、グランディーナが助けを求めたら。私も動くわ」
「ふむ。お節介は危険かな」
ガーベラたちの心配をよそに、グランディーナは強かった。
そもそもが杞憂である。
グランディーナは、随分と前から父の娼館通いを知っていた。そして、相手が自分と同じ年頃のガーベラであることも。
父が度々嘘をついて家を出る事は知っており、取り繕い土産を買ってきても、女のところへ行ったのだと気づいていた。
しかし、英雄色を好むともいう。市長として立派に仕事をしてくれるのであればと、多めに見ていた。
相手を知ったのは、友人だと思っていた取り巻きの娘らからの情報だ。今にして思えば、言葉に小馬鹿にしたような毒が含まれていた。同情するふりをして、蔑んでいたのだろう。
それで、街でガーベラを見かけるたびに辛く当たってしまった。
実際の彼女は、友人らよりも気高く聡明な女だった。そして、危険を顧みず、意地悪した自分を助けてくれるようなお人よし。そんな友人が欲しいと、グランディーナは切に願っている。
「真っ赤に染まった自分の手 生暖かい感触に身を沈める
目の前で愛しい貴方は その綺麗な紫銀の髪を赤く染め
私を見下ろし 嗤ってた
貴方が居ない世界に 私は必要ない
動いていた時計の針は止まったの
回っていた歯車は壊れたの
溢れて湧き出た清水は枯れてしまったの
太陽は汚染された大気に隠されたの
風が止み 大地が荒れ 水は枯れ果て
火は業火となり 全てを飲み込む
光は届かず 闇が支配する
この世界に私は要らない
貴方に私は必要ない
貴方が欲するのは 金の光
眩いばかりの 流れる金」
美しい金の髪が、海風に流される。
寂しい歌声が、騒がしい街と反対側で響いていた。物悲しい旋律が、緩やかに飛散する。
ガーベラは、海を見据えて歌った。
全てを知っているグランディーナが、それでも歩み寄りたいと思ってくれたことなど知らず。