第9話:たまらなく愛しいから、そばで
十二月。二学期の終業式を終え、東京の街はクリスマスと年末の浮かれた空気に完全に飲み込まれていた。
如月詩のネットに放流したあの曲は、皮肉なことにミリオン再生をとうに超え、顔も知らない無数の「いかにも健全な感性」を持った大衆に消費され続けていた。「病み系神曲」「これ聴いて泣いてる私」といった、どこにでもあるありきたりな共感コメントが滝のように流れる画面。
如月は完全に疲れ果て、冬休みに入ってから数日間、自分の部屋に引きこもっていた。
『外、出ない?』
僕が送った不器用なメッセージに、『どこに』とだけ短い返信があったのが今日の昼過ぎ。
僕は彼女を、イルミネーションで彩られた表参道や、カップルで溢れかえる渋谷などの「普通で正しい冬休みの街」には絶対に連れて行きたくなかった。ちゃんとしているつもりなのに、いつもどこかおかしくて浮いてしまう彼女が、これ以上「普通」の暴力に晒されて傷つくのを見たくなかったからだ。
夕暮れ時。僕たちが辿り着いたのは、東京湾の端っこにある、冬風が吹きすさぶ無人の海浜公園だった。
「……寒すぎ。バカじゃないの」
分厚い黒のモッズコートのポケットに両手を突っ込みながら、如月が呆れたように呟いた。首にかけたヘッドホンも、今日はマフラー代わりのようにうずもれている。
「ごめん。でも、ここなら誰もいないだろ」
「そりゃあね。クリスマスイブの前日に、こんな何もない海辺を歩いてる高校生なんて、普通じゃないから。みんな指差して笑うよ」
「いいよ。笑わせておけば」
波打ち際から少し離れたコンクリートの護岸に、僕たちは並んで腰を下ろした。
遠くには、おもちゃのブロックのように光る東京の高層ビル群と、ゆっくりと回る観覧車のネオンが見える。あの光の群れの中では、今も何百万という人間が、彼女の痛みを「エモい」という便利な言葉で消費しながら、馬鹿みたいに動画を回しているのだ。
「……あたし、ずっと怒ってる気がする」
冷たい潮風に吹かれながら、如月がぽつりと言った。
「あの曲が消費されていくことにも、それを個性だってもてはやす大人たちにも。……それに、普通に合わせられない自分自身にも。ずっと、見えない何かに怒ってる。別に、普通のことなのかもしれないけど」
彼女の横顔は、凍えるような冬の空気の中で、ひどく透き通って見えた。
誰かの中にこの手を突っ込んで、本当の感情を引きずり出したいと願ったのに、結果的に彼女の音楽は「理解しやすい安全なコンテンツ」へと変換されてしまった。その絶望と怒りが、彼女の小さな体に重くのしかかっている。
「怒ってていいよ」
僕は、缶のホットココアを彼女に差し出しながら言った。
「世界中が、いかにも健全な顔をしてお前の曲を都合よく解釈しても。お前だけは、ずっとその怒りを抱えたままでいい。普通があるから苦痛だって、これからも叫び続ければいい」
如月はココアを受け取ると、両手で缶を包み込み、その温もりに縋るように顔を伏せた。
「……高坂は、あたしの曲が何千万回再生されても、あたしのこと……変なやつだって思ってくれる?」
「当たり前だろ。お前は俺が知ってる中で、一番厄介で、面倒くさくて、ちゃんとしてるつもりでいつもおかしい、最高に『変』なやつだよ」
僕の言葉に、如月は小さく肩を震わせた。
泣いているのかと思った。でも、彼女が顔を上げた時、その唇の端は微かに弧を描いていた。
「……最悪。それ、全然褒め言葉になってない」
「事実を言っただけ」
「でも……」
如月は、海からの冷たい風に吹かれて乱れた黒髪を耳にかけ、真っ直ぐに僕の目を見た。
「……高坂が、そう言ってくれてよかった。あたしの痛みを、ただの『病んでる』とか『個性的』なんていう、どこにでもあるありきたりな言葉で片付けないでくれて、よかった」
それは、今まで彼女が一度も見せたことのない、あまりにも無防備で、柔らかい笑顔だった。
地下のスタジオで見せた泣き笑いでもなく、図書館で流した絶望の涙でもない。僕という存在を完全に受け入れ、安心しきった、一人の女の子としての静かな微笑み。
ドクン、と。
心臓が、痛いほど大きく跳ねた。
たまらなく、愛しい。
この笑顔を、他の誰にも見せたくない。一億回の再生数よりも、何百万の「いいね」よりも、今、僕の隣で缶ココアを握りしめながら笑っている彼女のこの瞬間が、何よりも尊くて、絶対に失いたくない宝物だと思った。
モブとしての静かな日常も、安全な教室の空気も、もうどうでもよかった。
僕が欲しいのは、この「普通じゃない」彼女の隣という、世界で一番歪で、最高に美しい特等席だけだ。
「……如月」
僕は、彼女の冷たくなった左手を、自分の右手でそっと包み込んだ。
如月は驚いたように息を呑んだが、手を振り払うことはせず、ただ静かに僕を見つめ返してきた。
「この先に何があっても……俺は、お前のそばにいる」
声が震えそうになるのを、必死に堪えた。
「お前が怒ってても、泣いてても、世界中から浮いてても。俺だけは絶対に、お前のその『変』なところを全部肯定する。……だから、これからもずっと、俺のそばで笑っててね」
如月の黒い瞳に、遠くの街の光がキラキラと反射していた。
彼女は重ねられた僕の手を、少しだけ強く握り返した。
「……高坂って、本当に」
彼女はうつむき、照れ隠しのように小さく呟いた。
「……ちゃんとしてるのに、いつもどこかおかしいよね。こんな何もない海辺で、そんなこと言うなんて」
「怒ってる?」
「……ううん。怒ってない」
彼女の吐く白い息が、夜風に溶けて消えていく。
繋いだ手から伝わる温もりだけが、この冷たい世界で唯一の、確かな真実だった。
明日。クリスマスイブという、世間で最も「普通で正解」とされる一日の終わりに。
僕は、この胸に抱えた、破裂しそうなほどのすべての感情を、彼女に伝えようと決意していた。
ただ守るだけじゃない。誰かの中に手を突っ込むような、僕の本当の、ありったけの言葉で。




