第8話:地獄再生可能なエネルギーの行方
十一月。木枯らしが東京のビル群の間を吹き抜け、街を行き交う人々の吐く息が白く染まり始めた頃。
僕と如月詩をとりまく世界は、スマートフォンの薄暗い画面の中で、唐突に、そして暴力的にバズり始めていた。
あの日、旧校舎の踊り場で僕にだけ聴かせてくれた彼女の曲。彼女はそれを、顔出しなんて一切しない、ただ真っ黒な背景に白い文字だけを乗せた無機質な動画として、ネットの海に放流した。タイトルすらないその曲は、最初の数日は数十回しか再生されていなかった。
しかし、ある日を境に状況は一変した。
いかにも健全な感性を持ち、何百万ものフォロワーを抱える有名インフルエンサーが、「これ、マジで病んでてエモい。普通じゃない」とSNSで紹介したのだ。
そこからの拡散は、気味が悪いほど早かった。
「……また伸びてる。もう五十万再生超えてるよ」
放課後。暖房の効いていない図書室の片隅で、僕は自分のスマホの画面を見つめながら呟いた。
対面の席に座る如月は、首にヘッドホンをかけたまま、分厚い画集のページをパラパラと無意味にめくっていた。その表情は、ひどく冷めきっていた。
「馬鹿みたい。ただアルゴリズムに乗っかって回ってるだけ。このままいけば、すぐに一億再生突破とかしちゃうんじゃない?」
如月は吐き捨てるように言った。
「顔出しなんてしなくても、適当に目を引くサムネイルをつけて、どこにでもあるような歌声で、ありきたりな流行りの鬱病みソングを歌ってれば『大丈夫』な世界。みんな、そういうわかりやすい消費物が大好きなのよ。あたしの曲も、奴らにとってはただの『ちょっと変わった新しいおもちゃ』でしかない」
僕は画面をスクロールし、滝のように流れるコメント欄に目を落とした。
『共感しかない……泣ける』
『この狂ってる感じ、マジで天才』
『病みアピール乙だけど、曲は普通に好き』
ちゃんとしているつもりなのに、いつもどこかおかしくて、ズレてしまう。彼女が血を流すような思いで削り出した「負のエネルギー」は、ネットという巨大な消化器官の中で、いとも簡単に「地獄再生可能なコンテンツ」として消費されていた。
彼らは彼女の痛みなど理解していない。ただ、自分たちの「ありきたりな感性」を刺激するスパイスとして、安全な場所から指差して楽しんでいるだけなのだ。
「……消そうかな」
如月が、画集から目を上げずにぽつりと言った。
「あんな風に、薄っぺらい言葉で分かったような顔されるの、吐き気がする。あたしの中にあるのは、あんな綺麗なもんじゃない。もっとドロドロしてて、誰かの中に手を突っ込んで引きずり出すような、普通があるから苦痛だって叫びなのに」
彼女の細い肩が、微かに震えていた。
「普通じゃない」ことを武器に戦っていたはずなのに、その武器すらも「普通の世界」に飲み込まれ、都合よくパッケージ化されていく。その絶望感は、クラスで孤立することよりもずっと深く彼女を傷つけていた。
僕はスマホの画面を伏せ、テーブルの上でギュッと両手を握りしめた。
「……消さなくていいよ」
「なんで? 高坂も、あんな風にあたしが消費されていくのが面白いわけ?」
如月が顔を上げ、鋭い視線で僕を睨みつけた。その黒い瞳には、うっすらと涙の膜が張っていた。
「違う」
僕は首を横に振り、彼女の瞳を真っ直ぐに見つめ返した。
「お前の曲は、たかが普通の変なんかじゃない。あいつらはわかってないだけだ。でも、俺はわかってる。あの曲がどれだけ痛くて、どれだけ不器用で……どれだけ美しいか。世界中の何億人が、お前の音楽を薄っぺらく消費して笑っても、俺一人だけは、絶対にお前の本当の音を聴き間違えたりしない」
図書室の静寂の中で、僕の声だけが確かに響いた。
窓の外では、冷たい冬の風が枯葉を巻き上げている。でも、僕の胸の奥で燃えているこの火種は、どんな冷たい風にも消されることはない。
「だから……逃げないでくれ。お前がお前でいることを、世界が都合よく解釈しようとしても、俺が全部ぶっ壊してやる。この先に何があっても、ずっと守ってあげるから」
たまらなく、愛おしい。
誰にも理解されなくてもいいと尖っていたくせに、いざ無責任に理解された気になられて傷ついている、この矛盾だらけの女の子が。
如月は、大きく目を見開いたまま、僕の言葉を吸い込むように立ち尽くしていた。
やがて、彼女はゆっくりと両手で顔を覆い、ポロポロと、音を立てずに泣き始めた。
教室でも、地下のスタジオでも決して見せなかった、彼女の本当の涙だった。
「……高坂って、ほんと……バカ。神様にでも、なったつもり……?」
指の隙間から、震える声が漏れる。
「ただの普通の高校生だよ。お前の一番のファンで、お前のことが……どうしようもなく好きな、ただのモブ」
僕は席を立ち、泣きじゃくる彼女の隣に立って、その震える細い肩をそっと抱き寄せた。
彼女は僕の制服の袖をギュッと掴み、顔を押し当ててきた。その温かい涙の感触が、僕のシャツ越しに伝わってくる。
「……怒ってる?」
僕が優しく尋ねると、彼女は首を横に振り、鼻をすすりながら答えた。
「怒ってない。……今は、全然」
ネットの海で、彼女の曲が何千万回、地獄のように再生されようとも。
僕の世界の中心では、彼女のこの不器用な涙と、シャツを掴む小さな手の体温だけが、ノイズのない確かな真実として響き続けていた。




