第7話:普通があるから、苦痛で
十月。東京の空はすっかり高くなり、乾いた秋風が街路樹の葉をカサカサと鳴らす季節になった。
あの日、教室で僕が明確に「いかにも健全な感性」を持つクラスメイトたちに牙を剥いてから、僕と如月詩はクラスの中で完全に浮いた存在になった。
腫れ物に触るような視線。遠巻きにされる日常。かつての僕なら、その孤独に耐えきれずに息を詰まらせていただろう。けれど、不思議と今は平気だった。隣を見れば、ずっと一人でこの冷たい世界を睨みつけてきた女の子がいる。彼女と共有する静かな孤立は、ノイズ・キャンセリングのヘッドホンをつけた時のように、むしろ心地よかった。
「高坂。今日、放課後時間ある?」
昼休み、自分の席でサンドイッチをかじっていた僕の机に、如月がコトリと小さなUSBメモリを置いた。
「あるけど。これ、何?」
「……曲。できたから。一番最初に、聴かせてあげる」
如月は視線を逸らしながら早口でそう言うと、逃げるように自分の席へ戻っていった。その耳が少し赤くなっていたのを見て、僕は思わず吹き出しそうになるのをサンドイッチと一緒に飲み込んだ。
放課後、僕たちはいつもの下北沢の地下スタジオではなく、旧校舎の屋上へ続く階段の踊り場に座り込んでいた。
ここは立ち入り禁止区域の手前で、誰も来ない。冷たいコンクリートの感触と、高い窓から差し込む夕陽だけが、僕たちを切り取っていた。
如月は自分の首にかけていた大きなヘッドホンを外し、僕の耳にそっと被せた。
少しだけ、彼女の髪の匂いがした。
「……再生するよ」
彼女がスマートフォンの画面をタップした瞬間、僕の鼓膜に強烈な音が流れ込んできた。
それは、綺麗に整えられた流行りのポップスとは対極にある音楽だった。
歪んだギターのノイズ。不規則で重いビート。そして、その奥底から這い上がってくるような、彼女の歌声。
顔出しなんてしなくても、適当に可愛く加工したアバターで、どこにでもあるような歌声を作って、ありきたりな歌詞を歌っていれば、きっと世界は「大丈夫」だと安心してくれる。馬鹿みたいに同じフレーズを繰り返せば、すぐに一億再生を突破して、ちやほやされる。
でも、彼女はそれを選ばなかった。
ちゃんとしているつもりなのに、いつもどこかおかしくて、ズレてしまう。
そのズレの中で血を流しながらもがいている彼女の「負のエネルギー」が、音圧となって僕の心臓を直接揺さぶってきた。それは暴力的で、痛々しくて、どうしようもなく美しかった。
曲が終わり、静寂が戻る。
僕はヘッドホンを外し、深く息を吐き出した。
「……どう、だった」
如月が、膝を抱えたまま、不安そうに上目遣いで僕を見た。いつもは鋭いその瞳が、今は迷子のように揺れている。
「すごい。……なんていうか、息をするのを忘れてた」
僕が正直に言うと、彼女はふっと自嘲するように笑った。
「やっぱり、変でしょ。うるさくて、耳障りで」
「変じゃない。俺は、好きだよ。……でも、すごく痛い曲だなって思った。聴いてる俺の心の中に、如月が無理やり手を突っ込んで、一番見たくない感情を引きずり出してきたみたいな、そういう音だった」
僕の言葉に、如月は小さく息を呑んだ。
そして、窓の外の茜色の空を見つめながら、ポツリポツリと話し始めた。
「……あたしね、昔は普通になりたかったの」
彼女の声は、秋の風のように細く、冷たかった。
「みんなと同じように笑って、流行りの曲を聴いて、『それわかるー』って言い合えるような、いかにも健全な女の子になりたかった。ちゃんとしてるつもりだったの。でも、合わせようとすればするほど、自分がどんどん空っぽになっていくのがわかった。周りは笑ってるのに、あたしだけがいつもおかしくて……息ができなかった」
彼女は、ギュッと自分の両腕を抱きしめた。
「『普通』があるから、苦痛だった。みんなが当たり前にできていることが、あたしにはできない。それが悔しくて、悲しくて……そのうち、世界中を指差して笑ってやりたくなった。あんたたちの『普通』なんて、ただの思考停止じゃないかって」
誰かが言う「変」なんて、せいぜいたかが普通の変だ。
彼女は、その「変」を抱え込んだまま、破裂しそうな感情を音楽という形に叩きつけるしかなかったのだ。そうしなければ、彼女自身が壊れてしまうから。
「それでも、これしかなかったの。あたしが世界と繋がる方法は、この地獄みたいなエネルギーを音にするしかなかった。……だから、高坂があたしの曲を聴いて、心の中に手を突っ込まれたみたいだって言ってくれたの、すごく嬉しい」
如月は、初めて僕に向けて、不器用で、ひどく歪で、泣き出しそうな笑顔を見せた。
その笑顔を見た瞬間、僕の胸の奥で、カチリと何かが嵌まる音がした。
ああ、たまらなく愛おしい。
クラスの連中がなんと言おうと、世界中の誰が彼女を理解しなくても構わない。この不器用で傷だらけの女の子が、僕のそばでこうして笑ってくれている。ただそれだけで、僕の平凡だった人生は、信じられないほど鮮やかな色に染まっていた。
「……如月」
僕は、コンクリートの床に置かれた彼女の手に、そっと自分の手を重ねた。
彼女はビクッと肩を揺らしたが、手を振り払うことはしなかった。
「俺は、お前のその『普通じゃない』音楽が、世界で一番好きだ。だから……この先に何があっても、俺が一番のファンでいる。ずっと、お前を守ってあげる」
夕陽が沈みかけ、踊り場が薄暗い影に包まれる。
重なった手のひらから伝わる彼女の体温は、負のエネルギーなんかじゃなく、とても温かくて、確かな命の熱を持っていた。
「……高坂って、ほんと……」
如月はうつむき、僕の言葉を噛み締めるように、重ねられた僕の手をギュッと握り返してきた。
「怒ってる?」
「……怒ってる。別に、普通に」
震える声でそう返す彼女の横顔を、僕はいつまでも、ただ静かに見つめていた。




